第16話


 道場の中を張り詰めた空気がおおっている。

 御池格之進みいけかくのしん石堂いしどう薬師寺やくしじが、それぞれ袋竹刀ふくろしないを構え、面と胴を身に着けた一人の剣士を囲んでいた。剣士の腕には木刀が握られている。

 その様子を虎吉と道場主が、腕組みをしながら凝視ぎょうししていた。

 虎吉は手下に調べさせ、釼一郎けんいちろう明五郎あきごろうの強さを認めていた。将棋で例えるなら飛車と角行。

 むろん、虎吉の手下にも飛車角級に腕の立つ者もいる。だが、他の組との抗争に飛車角を使うべきであり、私怨しえんとも言える争いに手駒を使いたくはなかった。

 虎吉が考えた手は、手持ちの駒以外を用意することであった。だが、飛車角の腕が、おいそれと見つかるわけではない。

 そこで角行に相当する格之進、金に相当する石堂、銀に相当する薬師寺をそろえた。

 三人が連携し、敵を一人一人片付けていく。これが必勝を期するために編み出した虎吉の策であった。

 格之進、石堂、薬師寺の三人は、少しずつ自らの位置を替えながら、剣士に対して牽制けんせいを繰り返している。

 剣士は入れ替わる三人からの飛び込みを警戒しながら、青眼、上段、下段と構えを変化させ続けていた。

 決して三人から仕掛けようとはしない。だが、剣士は気を抜いた途端とたんに、勝負が決まることがわかっていた。かと言って、うかつに剣士が飛び込んでしまうと隙が生じることになり、誰かに打ち込まれるに違いない。

 この稽古では、相手を仕留しとめるつもりで稽古することを約束させられている。

 剣士とて腕に覚えがないわけではない。虎吉に剣の腕を見込まれて、依頼された始めての仕事が、この稽古であった。

 稽古だけで虎吉への借金が棒引きになると持ちかけられ、剣士は二つ返事で受けた。

 相場以上の報酬だったのだが、とても無事では済みそうになく、この仕事を受けたことを後悔し始めていた。

 このままいたずらにときってしまえば、さらに分が悪くなってしまう。剣士は自ら仕掛ける機会をうかがった。

 正面の薬師寺がかけ声を上げ、一歩踏み込んだ。そして牽制けんせいした後で、また構えに戻る。

 剣士は薬師寺が、打ち込む素振そぶりを見せた後で、気が緩むのを見て取った。ここに剣士は勝機を見出した。態勢を変化させながら、薬師寺が正面に位置するのを待った。

 薬師寺が、上段の構えから一歩踏み込み、元の位置に後退する時に構えが乱れた。

 ——今だ!

 剣士が一気に飛び込む。薬師寺はまさか飛び込んで来るとは思っていなかったために、隙が生じていた。

 剣士の振り下ろす木刀が、薬師寺の頭上に迫る。

 次の瞬間、剣士の背中に強い衝撃が走った。格之進が放った突きが、剣士を吹き飛ばした。剣士は勢い余って薬師寺を飛び越え、道場の壁に叩きつけられた。

 剣士は立ち上がろうとしたが、うーんとうなってその場に倒れ込んだ。

 「それまで!」

 道場主が手を挙げた。皆が駆け寄って剣士の防具を脱がすと、剣士は息を吹き返した。

 その様子を眺めていた虎吉の隣で道場主がささやいた。

「親分、いけませんな。あの薬師寺という男、隙があり過ぎる。他の者と変えた方が良いのでは?」

 静かに虎吉は首を振った。

「いや、全く隙がないと敵も必死になり、思わぬ痛手を被ることがある。あえて隙を作る、それこそが俺の策だ。背後から格之進が放つ鋭い突きをかわせる剣客はそうそういねえ。銀は捨て駒だ。銀の換えは容易に見つかる。まずは相手の角を始末し、それから目当ての飛車を取る」

 虎吉の眼が鋭い輝きを見せた。


 三軒茶屋さんげんぢゃや大山おおやま街道と津久井つくい街道の追分おいわけにあたり、信楽、角屋、田中屋の三軒の茶屋があったことが地名の由来と言われる。大山参りの人で街道沿いは大変賑わっていた。

 釼一郎は一人、三軒茶屋まで人を訪ねて来た。元は同心だったが、役目を終えて三軒茶屋で畑を作り、晴耕雨読せいこううどくの暮らしをしていると聞いている。

 街道を少し離れてた場所に、一軒の茅葺かやぶき屋根の家があり、そばの畑で男が大根を抜いている。

 釼一郎は近寄って声をかけた。

「少々、お尋ねしますが」

「はい、なんでしょう」

 男は手を止めて、顔を上げた。釼一郎は手に持った紙を見ながら問いかける。

加藤仁斎かとうじんさい様をご存知でしょうか? この辺りだとうかがっております」

「はい、拙者が加藤仁斎でございます」

 その答えに、釼一郎は満面の笑みを浮かべた。

「良かった。加藤様に教えていただきたいことがございまして」

「拙者に?」

 釼一郎は懐から紹介状を出して、加藤仁斎に渡した。加藤は泥で汚れた手を野良着のらぎの裾で払うと、釼一郎から紹介状を受け取った。

 加藤は目を通した後、納得したようにうなずいた。

「なるほど、そういうことなら、お力を貸しましょう。まま、汚いあばら家ですが、お上がりくだされ」

 加藤はそういうと、大根が入った駕籠かご背負せおい、家へと向かった。


 御池格之進は、薬師寺と石堂と共に三軒茶屋の茶屋、角屋で茶をすすっている。

 大きなくしゃみを二つした石堂は身震みぶるいをして隣の薬師寺に軽口を叩く。

「少し冷えてきたな。酒で腹を温めるというのはどうだ?」

「これさこれさ石堂殿。またしても酒、酒と。この度の仕事、油断せぬよう言われておるではないか」

 薬師寺は赤ら顔をしているが、奈良漬ならづけでも酔うほどの下戸げこで、酒と酒飲みを毛嫌いしている。

「なあに、我ら三人力を合わせれば、どうということはない」

 虎吉から仕事を依頼されてから、三人は息を合わせるために稽古を積んでいた。

 常山じょうざんに住むという両頭の蛇は、首を打たれれば尾が助け、尾を打たれれば首が助け、胴を打たれれば、首と尾がともに助けたという。

 その常山の蛇に習い、三人が息を合わせて釼一郎と戦う。

「しかし、あの虎吉という男、ただのやくざ者ではないな。常山の蛇とは恐れ入った」

「うむ、兵学にも詳しい。どこぞの家中で仕官していたのかもしれんな。御池殿、お主どう思う?」

 関心がなさそうに格之進が答える。

「わかりませぬな」

「ふふっ、御池殿はこの仕事を終えれば、晴れて自由の身となる。余計なことを思案する気もないのだろう」

 虎吉に金を融通ゆうづうしてもらった者は、高利で借金をしているにもかかわらず、恨むどころか感謝している者も少なくない。

 子がいる者は子を、女房がいる者は女房を借金の形と、人質として差出す。この時代、それは珍しいことではなかった。

 元々、借金で首が回らなくなり、夜逃げか自死かと思い詰めた困窮者こんきゅうしゃの借金を、全て虎吉が肩代わりするのだから、地獄に仏とさえ考える者が多かったのである。

 それだけではない。虎吉は仕事がない者には仕事を融通する。

 返す目処めどがないほどの借金には、汚れ仕事を用意する。しかし、虎吉に歯向かったり、逃げようとする者には容赦がなかった。


 小春日和こはるびよりの暖かな日差しが、午後のひとときを穏やかに包んでいる。風はほとんどなく、平河ひらかわ町を歩く人たちもどこかのんびりとしている。

 蕎介きょうすけは岡っおかっぴきの仕事柄なのか、それとも江戸っ子の性分なのか、いつも早歩きで、往来おうらいを歩いている。

 山田家の屋敷まで来て、四つ目垣の上からひょいっと庭先をのぞいた。

 縁側えんがわでは、朝右衛門あさえもんが銚子で酒を飲んでいる様子。

 朝右衛門が蕎介に気づいて声をかけてくる。

「釼一郎ならおらぬ。朝方出かけた。夕刻までには帰ると言っていたのだが」

 蕎介は会釈えしゃくをしながら、

「じゃあ、また後で」

 と、帰ろうとすると、朝右衛門が呼び止める。

「蕎介さん、お主急いでいるか?」

「いや、まあ、それほどでは」

 朝右衛門はニヤリと笑って手招きをする。

「なら、酒の相手をせぬか? 一人酒はつまらん」

「え? いいんですか?」

「遠慮することはない」

「じゃ、お言葉に甘えて」

 蕎介が木戸から入ってくると、朝右衛門は右手で縁側に座るように促した。

 何度も頭を下げながら、蕎介は沓脱くつぬぎ石から上がって縁側に腰掛ける。

 庭のかえでは見頃を過ぎて、紅から土気色へと変わった葉が、そよ風にゆらゆらと揺られて今にも飛びそうになっている。 

 だが、掃き掃除が行き届いているのだろう、地面には落ち葉がほとんどなく、覆われたこけに日差しが降り注いでいる。

 松の枝は左右の調和を取りながら横に広がり、松の幹には腹巻きのように、藁で編まれたこもが巻かれていた。

 庭には興味がない蕎介にも、丁寧に手入れされているのがわかった。

「いつも眺めている庭ですが、ここから見る景色はまた違いますね。庭のことはよくわかりませんが、良い庭だってことはわかります」

「ほう、それは嬉しいな」

 そう言いながら、朝右衛門は銚子に入った酒を、蕎介の盃に注いだ。

 蕎介は礼を述べながら一口飲んだ。

「おっ、こりゃ?」

 驚いたように蕎介は、盃から口を離す。

「ふふっ、蕎介さんはやはりくだり酒を好まれるかな? これは奥多摩おくたまの酒だ。珍しいであろう?」

「ええ、でも、ちょいとこれは……」

「うむ、先だって奥多摩に旅することがあって、その地で飲んだ時には、なんとも言えぬ味わいだったのだが、こうして江戸まで運んでくると、やはり下り酒には勝てぬようだ。だが、そのうちには江戸の地廻じまわりの酒も、下り酒に劣らぬ酒になると思うて、こうして楽しみに飲んでおるのだ」

「へぇ……。なるほど……。今度、奥多摩へ旅した時は、その地廻り酒も飲んでみたいですね」

 感心したようにうなずいて、蕎介は盃を干した。

「付き合せてすまぬな。口直しといってはなんだが、下り酒を用意しよう。それから、松茸はお好きかな?」

「松茸? まあ、松茸飯は食いますがね」

 朝右衛門は、奥へ向かって手を叩く。

「これ、すまぬが下り酒と、松茸を用意してくれ」

 しばらくすると、朝右衛門の前には、新しい銚子と、松茸の乗った皿と七輪しちりんが置かれた。

 松茸を手で裂いて、炭火が起こった七輪に松茸を乗せる。

 すぐに芳しい松茸の香りが、七輪から立ち上ってくる。

「蕎介さん、松茸飯もいいが、松茸は焼きが格別だぞ。みりん醤油に、酢橘すだちを絞ったつけだれで味付けしておる。そのまま召し上がれ」

 朝右衛門から松茸の皿を受け取った蕎介は、鼻の穴をヒクヒクさせる。

「はあー、こりゃいい香りだ。あっしがいつも食ってる傘の開いた松茸とは月とスッポンですよ。では、一つ」

 松茸を口に入れると、目を閉じて、ゆっくりと咀嚼そしゃくする。

「うんうん、これはいいですね」

「下り酒もあるぞ」

 朝右衛門は蕎介の食べっぷりを見て、嬉しそうに酒も勧める。

「こりゃ、極楽ごくらくだ」

 蕎介はすっかり上機嫌である。

「お主の働きに、釼一郎はいつも感心しておるぞ」

「いや、そんな……」

 蕎介は照れくさそうに頭をかくと、朝右衛門に酌をしながら訊ねた。

「そうだ、ちょっとお訊きしたいことがあったんですがね」

「ん? なんだ?」

「前から気になってたんです。釼一郎さんと、明五郎さんどちらが強いんですか?」

 酒を飲み干した朝右衛門は、目を細めて答える。

「ふふ、なかなか面白いことを訊くな。剣の腕では、明五郎に分があろう」

「へぇー、そうなんですか。釼一郎さんの剣の腕もなかなかのものでしょう」

「うむ、釼一郎も決して引けは取らん。だが、竹刀や木刀を持った道場での試合であれば、明五郎の剣が有利であると思う」

 感心したように、蕎介は何度もうなずいた。

「だが、生き死にの場では、釼一郎が十中八九じゅっちゅうはっく勝つであろう。いや、万に一つも明五郎は勝てぬ」

「そりゃ、どうして?」

 蕎介は身を乗り出した。

「明五郎は、勝てぬとわかっていても戦いに臨む。だが、釼一郎は勝てなければ戦わぬ」

「ははぁ、釼一郎さんはずるいんですね」

 朝右衛門は微笑を浮かべる。

「ずるい……。ちと違うかな。三十六計逃げるにかずという。どんな策略よりも勝てる見込みがない時には、逃げるが上策なのだ」

「へへぇ、でも逃げられない時もあるでしょう? そん時はどうするんです?」 

「その時こそ、釼一郎の真価が問われる時であろうな。兵は詭道きどうなりという。虚と見せかけて実。実と見せかけて虚。戦では虚実を巧みに操る者が生き残る。そんな戦いができるのは、弟子の中でも釼一郎ただ一人だ」

「なるほど……。ずるじゃなくて、ずる賢いんですかねぇ」

「ふふ、まあそうだな。……一つ弱味があるとすれば、妙な情けをかけることがある。そういう情けが時に命取りになることもあるのだ。近頃、釼一郎と明五郎のことを嗅ぎ回っている者がいると聞く。油断は禁物だな」

「へぇ、あっしも気をつけます」

 蕎介は神妙な面持ちで相槌あいづちを打った。

 いつの間にか、影が長く伸びて夕暮れが迫っていた。

「釼一郎さん、遅いですね」

「そうだな。渋谷村の方へ行ったようであるから、遅くなったらあちらに泊まるかもしれんな……」

 そう言って、朝右衛門は赤く染まった西の空に視線を移した。

 

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