第15話


 その日は、朝から気持ちのよい冬晴れの日だったが、夜になって冷え込みも激しくなった。暮れ五つの雲一つない空に大星が白く輝いている。闇夜に響く犬の遠吠えに混じって、ピィーと按摩あんまの笛が聞こえる。

 首を傾げ、左内は右手で肩をさすった。

「だいぶお疲れのご様子ですね」

 明五郎が左内に声をかける。

 左内は奉行の小田切おだぎりに呼ばれ、松善を調べるなと上から暗に釘を刺されたことを告げられていた。小田切は突っぱねたらしいが、早川金次郎が何者かに襲われて以来、奉行所の中にも緊張感が漂っていた。

 左内の身を案じた釼一郎が警護をつけるように勧め、明五郎がひと時も離れず守っている。

「なかなか松善の尻尾が掴めなくてな」

 左内はため息を吐いた。少しでも手掛かりを見つけようと、奉行所に遅くまで残って調べている。

 今の証拠では有数の大店おおだなである松善を締め上げることは難しい。虎吉一家と組んで、商売敵を追い込むなど悪事の影が見えるが決め手がないのだ。

 明五郎も気を張り詰めている。いつ虎吉一家の手の者が襲ってくるか分からないだけに油断が出来ない。恋煩こいわずらいもえたのか、目の奥にすっかり輝きが戻っていた。

 提灯を持った男達が通り過ぎた。店の番頭ばんとう手代てだいといったところであろう。

 入れ替わるように、按摩が杖を頼りに近付いてくる。明五郎は警戒した。だが、殺気さっきは感じられない。

 その後ろから草履ぞうりの音が近付いてくる。

 町娘まちむすめが一人、按摩を抜きさって来ると、明五郎と左内の脇を通り過ぎて行く。

 ——こんな時分じぶんに娘が一人…。

 明五郎が刀の柄に手をかけた。少しでも、怪しい動きを見逃すわけにはいかない。

 横目で見送った時、横道から飛び出して来た男が、町娘とぶつかった。町娘は悲鳴を上げて、地面に倒れ込んだ。

「危ねえじゃねえか!」

 男は捨て台詞せりふを吐いて走り去って行く。

「大丈夫か?」

 思わず明五郎が、町娘に駆け寄ろうとする。

 左内の脳裏に、金次郎が言った末期まつごの言葉が蘇った。

「明五郎殿、近寄るな! 罠かもしれぬ!」

 明五郎は戸惑とまどった。女が倒れているのを見過ごすことにはためらいがある。女を気にしつつも、視線を左内に向けた。

 いつの間にか、左内の側に按摩が近付いている。

「左内様!」

 明五郎が左内に注意を呼びかける。

 左内が後退あとずさった。その時、閉じていた按摩の目が、かっと開いた。恐ろしいまでの殺気。按摩が杖を掲げた。杖の先には鋭い刃が見える。仕込しこみ杖だ。

 左内は腰の刀に手をかけるが動きが悪い。明五郎は小刀を按摩に投げつける。按摩はひらりとそれをかわす。倒れていた町娘が跳ね起きて、短刀を引き抜いた。

 ——女は後だ。

 按摩の動きからみて、町娘の相手をすると間に合わない。明五郎が按摩に向かって飛び込んでいく。按摩が勝利を確信し、不敵ふてきな笑みを浮かべた。明五郎の剣より、一瞬速く按摩の仕込み杖の切っ先が左内の胸に突き刺さった。

 左内は自分の胸に視線を落とした。

 仕込み杖を握った按摩の表情から笑みが消え、目を見開いて後退りをした。

 明五郎がその隙を見逃す筈がなかった。明五郎が振るった井上真改いのうえしんかいが、按摩の右の手首を切り落とす。振り返りざまに、そのままの勢いで背後に迫った女を斬り上げた。女が断末魔だんまつま血飛沫ちしぶきをあげる。

「平十郎!」

 按摩が叫んだ。町娘はゆっくりと崩れ落ちて行く。明五郎は再び按摩に振り返る。按摩は既に大きく距離をとっていた。明五郎が近付こうとすると、按摩は素早い動きで退がり、背を向けて逃走して行った。

 明五郎はそれを追わず、左内に声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 左内は羽織はおりに開いた胸の穴を明五郎に見せる。中には胸当てを身に付けていた。

「うむ。さんざん、奴に殺された死体を見ていたからな。あばら骨に囲まれた心の臓をひと突き。よほど腕に覚えがあったに違いない」

「なるほど、腕が確かだからこそ備えることができたのですね。しかし、危なかった」

「うむ、腕を落とされてもひるまず逃げる。恐ろしい使い手だった」

 左内はそう言いながら、倒れている町娘の側にしゃがみ込んだ。

「……女ではない、男だな」


 虎吉は銀の無垢むくの煙管を手で弄びながら、左内の暗殺失敗の報告にじっと耳を傾けている。

「それで平十郎はどうした?」

 手下てしたは自分のしくじりでもないのに、胃が締め付けられるように痛んだ。

「……平十郎は、明五郎という剣士にやられて……。死にました」 

 一瞬、虎吉が鬼の形相ぎょうそうになった。手に持った銀の煙管がぐにゃりと曲がる。

 手下は思わず小さな悲鳴を上げて、口を塞いだ。

 虎吉は、しばらく宙を眺めていたが、咳払いを一つして、普段通りの様子に戻った。

 左内をただの同心と侮っていた虎吉は、平九郎と平十郎がしくじったことを受けて考えを改めた。

 奉行所には虎吉一家が仕掛けたことは勘付かれているであろう。これから警戒が強くなるに違いない。それよりも左内を助けているという、明五郎と釼一郎という剣士の存在が気になっていた。


 雲一つない夜空に青白い月が浮かび、一帯を明るく照らしている。浅草川沿いの川原を覆う枯れたあし寒風かんぷうが撫でて行った。

 その風を切り裂くように、かけ声が響き、やがて止まった。

 仁王立におうだちの御池格之進みいけかくのしんの身体からは、白い湯気が立ち上っていた。右手には二の腕ぐらいの太さ、三尺半ほどの木剣ぼっけんが握られている。

 剣の道を諦めた今でも、格之進は剣の稽古けいこを欠かすことはない。剣で身を立てるわけではない。刺客しかくとして生きていくためでもない。

 格之進の相手は、昨日までの己である。自らの残像と対峙たいじし、自らを超えることだけが格之進生きがいなのである。

 だが、この日はいつもにも増して、並々ならぬ緊張感を持って木剣を振るっていた。

 格之進は天然理心流てんねんりしんりゅうの開祖、近藤内蔵之助こんどうくらのすけがこの晩秋に亡くなったことを知った。門下の一人が、わざわざ探して知らせてくれたのだが、格之進はただ一言礼を述べただけであった。

 理由はどうあれ、金のために人を殺めている格之進は、内蔵之助の墓前ぼぜんとむらうことははばかられたのである。

 格之進が内蔵之助をしのぶためにできることは、ただ剣を振るうことであった。

 息を整え、青眼せいがんに構えた時であった。エッホ、エッホと駕籠が近づいて来る。

 格之進が目を細め、その方向を凝視した。駕籠が止まって、人の声が聞こえる。格之進は木剣を地面に置く代わりに、側の大小を手に取り、音の方へ向き直った。

 葦原あしはらの中から姿を見せたのは虎吉であった。後ろには二人の浪人を従えている。

「御池先生、やはりここでしたか」

「虎吉親分自らいらっしゃるとは、一体どうなされた」

 もし、虎吉が敵であったら、思わず刀を抜いてしまいそうな、独特の気をまとっていた。

「今度の仕事だけは何がなんでも受けてもらおうと思いまして」

「いくら親分の頼みであろうとも、罪亡き者を斬りたくはない」

 格之進は素っ気なく答える。

「相変わらずですな。ではどうです? もし、狙う男が効かぬ労咳ろうがいの薬を高く売りつけている男だとしたら」

 格之進の顔色が変わった。虎吉が不敵な笑みを浮かべる。

人肝丸じんたんがんという、労咳の薬です。奥方のご病気の際に、御池先生もお使いになったでしょう?」

 格之進は無言でうなずいた。

「ずいぶんと法外ほうがいな値をつけて、阿漕あこぎな商売をやっているそうですよ。それに元々は、罪人の肝だ。人の肝で効き目のない薬を売りつける。どうです? こいつは罪じゃあありませんか?」 

 格之進はなにも答えない。

「もう一つ、この仕事を受けてくれりゃあ、先生の借金を棒引きにしましょう。それだけじゃあない。娘さんを苦界くがいから足抜きさせましょう」

 思いがけない言葉に、格之進の表情が変わる。

「そ、それは本当か」

「この虎吉、嘘はつかねぇ」

 そう言いながら、懐に手を入れて二枚の紙を取り出し、格之進に掲げて見せる。一枚は娘の証文、もう一枚は借金の証文である。

 しばらくの沈黙の後、格之進は口を開いた。

「……わかった。引き受けよう」

 虎吉は大きくうなずくと、証文の紙を引き裂いた。

「どうです。これで、先生の娘は助かった。その代わり、先生が仕事をするまではお歯黒溝はぐろどぶからは出さねぇ。それで構いませんね?」

「わかった」

 虎吉はちらりと、二人の浪人に視線を移す。

「今度の仕事は、こちらの薬師寺やくしじ先生と、石堂いしどう先生とやってください」

 薬師寺は着流きながしに、大小を落し差しにしている。赤ら顔で口が大きく、目がぎょろっとした。いかにも一癖ありそうな人相である。

 一方の石堂は、野袴のばかまを履き、色白で頬の痩けた皮肉そうな顔立ちである。

 首を横に振りながら、格之進は返答する。

身共みどもは一人でやります」

「敵を舐めてもらっちゃ困ります。今までの相手とは訳が違う。確実に仕留めてもらわなきゃ困る。だからこっちも破格の条件を出していますんで」

 虎吉の傍に控えていた薬師寺が、足を進めて歩み出てくる。

「どこの流派だ?」

 薬師寺はまるで喧嘩でも売るように、不躾ぶしつけに格之進に問いかける。格之進はまるで意に介さぬ様子で言った。

「天然理心流で稽古を積んでおりました」

 二人の剣客が顔を見合わせる。薬師寺が首を傾げながら石堂に問うた。

「知っておるか?」

 石堂は少し考えて、記憶を辿りながら返答する。

「うむ、近藤某が、創始した剣だとは存じておるが……」

「強いのか?」

「知らぬ。……が、百姓ひゃくしょう相手に剣を教えていたと聞いている。侍の剣ではないのであろう」

 そう言いながら、石堂は様子をうかがうように横目で格之進を眺める。しかし、格之進は顔色一つ変えない。

「足手まといになると困るが……」

「そうだな、剣の腕を見ぬことには、なんとも言えぬな」

 浪人たちは、品定めするように格之進を見た。

「なら、試してみますか?」

 普段ならこのような挑発に乗る格之進ではない。だが、この日は天然理心流の強さを知らしめてやりたくなった。

「ちょいと待ちな先生方。黙って聞いていりゃ、勝手に話を進めやがって。同士討ちをするために、先生方を集めたわけじゃねえ」

 虎吉の凄味すごみに、浪人二人はたじたじとなった。が、薬師寺が不満そうに口を開く。

「拙者は香取神道かとりしんとう流、石堂殿は小野派一刀流だ。我らのように確かな剣を習得した者と、そうでない者が組んで戦うことはできん」

 虎吉は鼻で笑った。

幾多いくたの死闘を見てきた俺だ。多少、剣をかじったぐらいのあんたら二人じゃ、御池先生にとてもかなわねえことはわかっている。その御池先生と、互角かそれ以上の腕前を持ってるのが今度の相手。それも二人だ」

「う……。しかし、我らとて死闘はくぐり抜けている」

 石堂が食い下がる。

「わかっちゃいねぇな。俺が力量を見て仕事を差配さはいしてるんだ。勝てて当たり前なんだよ。その俺が、組んで仕事をしろと言ってるんだ。わからねぇか?」

 罵倒ばとうされた薬師寺は、頭に血が上ったのか腰の刀に手をかけた。

「おっと、抜くか? 抜いてもいいぜ。ここで抜くようなら、てめえは自分の力量もわからねぇ愚か者ということだ」

 薬師寺はつかを握る手にぐっと力を入れたが、思い直したのか手を離した。

 虎吉の右手が素早く動いた次の瞬間、薬師寺の首筋に刀身がピタリ、と止まった。

 構えていなかったとはいえ、格之進でさえ身動きの取れないわずかな間であった。どの流派かわからないが、虎吉が習得している抜刀ばっとう術の腕前は、かなりのものであることは確かだった。

「命拾いをしたね。薬師寺先生」

 固まったように動けない薬師寺に声をかけると、虎吉は刀をさやに納めた。

「いいか先生方、俺の言う通りにしてりゃいい。余計な真似をすると、首と胴が別々の道を歩むことになるぜ」

 虎吉がうそぶいた。

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