第14話


 左内は駆け続けていた。

 すそをまくって尻端折しりはしょりし、息の切れるのも構わず駆けて行く。

 日の出にはまだ間がありそうで、東の空は薄明かりの雲を帯びている。

 早朝ためか人通りはなく、妨げる物は吠え付く野良犬か、土ぼこりを含んだ空っ風であった。

 八丁堀はっちょうぼりの町奉行所組屋敷から、楓川かえでがわにかかる新場橋しんばばしを渡り、呉服ごふく町を通り抜けて、呉服橋門内にある北町奉行所に入った。

 畳の上に寝かされた金次郎は、青白い顔をして横たわっていた。

 枕元には総髪で、濃茶色に染めた十徳じっとく姿の医者が座っている。

 枕元ににじり寄って、左内が金次郎の様子を確かめる。

 弱々しい息がかすかに聞こえる。左内と医者の目が合うと、医者は静かに首を左右に振りながら言った。

「血が流れ過ぎておる……。儂の手ではどうすることもできん」 

 唇を噛み締めて、左内は自らの膝を強く掴んだ。

 金次郎がうっすらと目を開けた。

「さ、左内殿……。……やはり、罠だった……ようだ……」

「金次郎殿、もう喋るな」

 左内は金次郎の肩に手を置いて優しく声をかけた。それでも金次郎は、必死に左内に伝えようする。唇を動かすが言葉にならなかった。

 その言葉をなんとか聞き取ろうと、左内は金次郎の口元に耳を近づけた。

「女に……、女に気をつけろ……」

「女?」

 左内が繰り返した言葉に金次郎は小さくうなずき、そして静かに目を閉じた。

「き、金次郎殿!」

 金次郎は左内の呼びかけに答えず、静かに息を引き取った。

 

 左内は金次郎の亡骸なきがらを検死した後、同心仲間と、金次郎の死について語っていた。金次郎を襲った者を捕らえること、それが金次郎の供養になると思っていた。

「誰が金次郎殿を襲ったのだ?」

 左内の問いかけに、昨晩から夜番をしていた若い同心が答えた。この同心は、金次郎に心酔しており、信用に足る男であると、左内は考えていた。

「金次郎殿が虎吉一家と松屋善兵衛と繋がっているという話を掴んだそうです」

「うむ、それは聞いていた」

「赤坂でその者と会い、その後で松善で働いていたという男と会う手筈になっていたそうです。ですから、紀伊国坂きのくにざかを通ったようです」

「行方をくらましている佐吉かもしれないと言っていたな。だが、紀伊国坂で待ち伏せていたのだから、それも罠だったかもしれぬな」

 若い同心が首肯しゅこうする。

「ええ、金次郎殿もそのお考えのようでした」

 左内は検死の見立てを若い同心に語った。

「左胸と背中に傷があった。左胸の傷は心の臓には届いておらぬが、走ったことで傷が開き、血が多く流れたことが命取りになったに違いない」

 悔しさをにじませて、若い同心が下唇を噛んだ。

「逃げる途中駕籠かごを拾って奉行所にたどり着いたようであるはありますが……」

「腕の立つ金次郎殿を斬った……。まず後ろから斬りつけたのかもしれぬな。その後、胸を突いた……。相当の腕前であろうか?」

 左内が若い同心に訊ねる。

「いえ、金次郎殿はそうやすやすと背後を取られるような男ではありませぬ。敵は二人、もしくは三人……」

「段取りの良さと言い、金次郎殿を襲った手筈と言い、おそらく虎吉一家の仕業であろうか」

「ええ、拙者もそう思います」

「すまぬが、金次郎殿が赤坂であった者を探してもらえぬか?」

「わかりました。必ずや、金次郎殿の恨みを晴らしとうございます」

 若い同心は力強くうなずいた。

 しかし、金次郎が話を付けていたという人物は、とうとうわからずじまいであった。

 金次郎が殺されたことにより、警戒して姿をくらませたのか、それとも始めから金次郎を始末するための罠だったのか。

 油断ならない状況に、左内は奉行に相談し、釼一郎との連携を一層強めることにした。

 

 さっきまで騒がしかった寺子屋てらこやは、子供たちが帰った途端に火の消えたようになった。

 この寺子屋で教える御池格之進みいけかくのしんは、散らかった書き損じの半紙を拾い丁寧にしわを伸ばしている。

 なにしろ紙が貴重な時代である。全てが真っ黒になるまで、何度も何度も上から書き直すのべきなのだが、幼き子供らは丸めるのが楽しいらしい。

 格之進はそんな子供を叱らず、やりたいようにさせている。そのためか、教わる子供たちも格之進によく懐き、寺子屋は大変に繁盛していた。

 だからと言って暮らし向きは楽ではない。借金の利息を返すのがやっとで、日々の暮らしは爪に火を灯すように質素倹約しっそけんやくに努めている。

 苗字帯刀みょうじたいとうを許された多摩たまの大庄屋に、次男として生まれた格之進は、幼き頃から文武両道で品格を備えた人物であった。

 多摩郡の農民は、自衛のために剣術を習う者が多かった。多摩に剣を教えにやって来ていた近藤内蔵之助こんどうくらのすけなる剣客に格之進は弟子入りした。

 この近藤内蔵之助こそが、天然理心流てんねんりしんりゅうの創始者であった。格之進は弟子の中でも頭角を現し、三十前で免許を授けられたのだが、妻の病気が悪化してしまい、志半ばで剣の道を退くことになった。

 それから向島むこうじま三囲みめぐり神社裏に寺子屋を開き、ほそぼそと生計を立てている。

 妻が他界して以来の男やもめだが、三十五になった今では、身の回りのことから教える子供の世話まで卒なくこなす。

 格之進は読み書き算盤そろばんを中心に、論語や唐詩選とうしせんなど、漢文も教えている。

 朗々とぎんじる漢詩は、意味はわからぬ子供たちにも響くものがあるようで、いつもは落ち着きのない子でさえ、聞き入ってしまうほどだった。

「御池先生!」

 表から格之進を呼ぶ声が聞こえる。格之進は呼びかけに応えずに、半紙の皺を伸ばし続けている。

「御池先生! 御池先生!」

 格之進を呼ぶ声が一段と大きくなった。格之進は諦めたように返答する。

「どうぞお入りください」

「なんだ、居るじゃありませんか。上がりますよ」

 そう言って、若い男がずかずかと上がりこんでくる。男は、虎吉の手下で借金取りでもある。

 格之進は借金取りの顔を見ずに話かけた。

「まだ、期日は来ておらぬはずだが」

 借金取りは勝手に座布団を敷いて、その上に胡座あぐらをかいた。

「いやいや、今日は催促さいそくじゃねえ。いい儲け話がありましてね」

 そう言いながら、借金取りは懐に手を入れる。さえぎるように格之進は右手を挙げた。

「いや、その話は聞かないでおこう」

「え? どうして? 手付けに二十五両あるんですがね」

 借金取りは目を丸くする。

「金の問題ではない。先日の虎吉親分から始末を頼まれた件、あれは悪人などではなかったではないか」

 借金取りはとぼけるように目を逸らす。

「あれぇ? そうでしたかねえ? あっしは悪人だって聞いてたんですが、違いましたかね?」

 借金取りは煙草たばこ入れと煙管きせるを取り出し、悪びれる様子もなく煙草盆を催促する。

「先生、煙草盆を一つ! 火をどっさり入れて」

 格之進は咳払いをして立ち上がり、奥から火入れを載せた煙草盆持ってくると、借金取りの前に差し出した。

 煙管に葉を詰める借金取りに、格之進は責めるように言った。

「惚けてもらっては困る。拙者は悪人なら、ということで仕事を受けておるのだ。無闇むやみ殺生せっしょうをする気にはならん。……とにかく、今回は聞かないでおこう」

「いや、今度こそは……」

「……しつこい。断ると言ったら断る」

 借金取りは煙管をくわえて、一服吸うと煙をくゆらせた。

「先生、そんなに仕事を選り好みしてちゃ、借金なんざいつになっても返せませんぜ。娘さん、おきぬさんでしたっけね? そろそろ客を取らなきゃならねえ年になってきたんでしょう?」

 格之進は口を真一文字に結び、眉間に皺を寄せた。

「罪無き者を斬って金を作っても、おきぬは喜ぶまい。人が苦しむより、自らを犠牲ぎせいにする娘だ。きっとわかってくれる」

 格之進が三十の時、妻が労咳ろうがいにかかった。妻思いの格之進と、母思いのおきぬはあらゆる手を尽くしたが、なにしろ不治ふじの病である。二年の看病の甲斐かいなく亡くなった。しかし、苦しみはそれで終わりではなかった。

 この二年の間、わらにもすがる思いで妻に与えた高価な薬。この薬の代金を工面くめんするために、借金が大きく膨らんだ。初めのうちは多摩の兄にも助けてもらったのだが、度重なる借用の申し出のために、いつしか疎遠になって今では縁も切れている。

 悪いことに、虎吉一家の手下があきなう高利貸しにも金を借りてしまい、雪だるま式に借金が膨らんでいった。

 格之進はその借金を減らすために、虎吉一家から殺しの仕事を請負うけおうようになったのだが、それでも間に合わず、孝行娘のおきぬは女郎じょろう屋に身を売ったのだった。

「そんなもんですかねえ。まあ、気が変わったらまた報せてください。仕事はありますから。あっしも、おきぬさんの身請みうけをお手伝いしますから。ね、あっしは、御池先生の味方なんですから」

 借金取りは、灰吹はいふきにカツンと煙管を叩いて灰を落とした。煙管を袋に入れて懐に仕舞うと立ち上がる。

「さあ、油売ってるわけにもいかねえ。じゃあ、晦日みそかにまた来ますから。銭の方、よろしくお願いしますよ」

 格之進は無言で借金取りの背中を見送った。戸が閉まったのを見届けると、杜甫とほの春望を口ずさんだ。格之進の声は憂いを帯びて低く響く。

 恨別鳥驚心

 と吟じたところで、目を閉じ天を仰いだ。

 

 僧衣に身を包んだ平十郎は、虎吉が着物に袖を通すのを手伝った後で、そっと肩に手を置いた。

 その手に虎吉が手を重ね、優しく言った。

「危険な目に合わせてすまなねえな。腕の立つ剣士に仕事を頼んだのだが、これがまた融通の効かぬ男で断られてしまった」

 平十郎は澄んだ目で、虎吉を見つめて答える。

「大丈夫。兄がおります」

「ああ、お前ら兄弟の働きは俺もありがたいと思っている。この仕事が終わったら、兄の平九郎にも礼をせねばならんな。どこか屋敷を構えてやろう」

「ありがとうございます。私も兄も、親分が居なければきっと野垂のたれ死んでいたでしょう」

 そう言って、平十郎は虎吉の背中にそっと頬を寄せた。


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