第13話

 遠くから拍子木ひょうしぎを打ちながら、夜番が火の用心を唱える声が聴こえてくる。

 松善の手代、佐吉は足音を忍ばせながら、松善の土蔵どぞうに近づいて行く。

 佐吉は薬研堀の茶屋通いで金がなくなり、店の金に手をつけるか、金目の物を盗もうかと考えるようになっていた。

 十二の丁稚でっちから長きに渡って奉公してきたが、茶屋酒ちゃやざけが腹に染み込んだ佐吉は、これから何年も奉公を続けることに嫌気がさしていた。

 なにより、善兵衛の小言に辟易へきえきしていた。そもそも茶屋にはまったきっかけも、善兵衛の呪縛じゅばくから逃れんとするためではなかったか。

 ここ数日の間、佐吉は天乃屋あまのやの若旦那に話した観音像のことを考えていた。わざわざ土蔵を建てて、仕舞い込むほどである。よっぽどの価値があるに違いない。

 善兵衛は蝋燭問屋の寄合で帰りが遅い。松善の三つある蔵のうち、二つの蔵の鍵は善兵衛が留守なら番頭が預かることになっている。だが、観音像が隠されている蔵の鍵は、善兵衛が首から下げて肌身離さず持ち歩くのが常であった。

 ところが、この日は忘れたのか、落としたのか、善兵衛の着替えを片付けた際に、土蔵の鍵が転がり出てきたのである。

 棚から牡丹餅ぼたもちのような状況に、佐吉は居ても立っても居られなくなり、土蔵に忍び込むことにした。

 自分に言い聞かせるように、独り言を呟く。

「あれほど熱心に崇めてるんだ、百両、いや、五百両にもなるかもしれねぇ」

 善兵衛がいない間は、店の者が命の洗濯をする貴重な時である。飯をゆっくり食べる者、風呂でじっくり身体を休める者、それぞれが思い思いに過ごしており、土蔵に近寄ってくる心配はなかった。

 土蔵の戸前とまえに立ち、手燭てしょくの火を近づけて、錠前じょうまえを触って確かめる。頑丈な作りで、簡単には壊せそうになかった。

 佐吉は左右に目を光らせた。

人気はなく、静まりかえっている。一段と冷え込んできて吐く息が白くなった。

 一つ咳払いをする。

「ふん、あのケチべえの下で働いて幾ら稼げるってんだ。暖簾のれん分けしてもらえるまで何十年かかるかわからねぇ」

 佐吉は後ろめたさを払拭するために、善兵衛への愚痴を口にしながら、土蔵の鍵を差し込んだ。

 鍵はぴたりと錠前に合った。恐る恐る回すとカチリ、と音がして鍵が開く。はやる気持ちを抑えながら、忍び足で土蔵の中に入った。

 佐吉の親類にも蔵持がおり、丁稚奉公でっちぼうこうをする前には何度か蔵に入ったことがある。その蔵は、ねずみ住処すみかになっており、鼠の小便の臭いが染み付いていたが、ここは白檀びゃくだんの蝋燭も置いているのだろうか、部屋中を高貴な香りが包んでいる。

 手燭をゆっくりと動かしながら、土蔵内を見回した。明かり取りもないため、昼でも夜でも暗闇が蔵の中を支配している。

 佐吉は手燭を掲げた。中央の台座の上に、観音像が置かれている。目を凝らすと、元は白磁はくじ製のようだが、白色が濁って時代がついている様子である。

 像は幼子を抱え、慈愛じあいに満ちた優しい表情を浮かべている。

 佐吉は観音像に触れようと手を伸ばした。


「それは罠ではないか?」

 険しい顔になって、林左内は思わず口にした。早川金次郎も声を落としながら答える。

「拙者もそう怪しんでいる……」

 早川金次郎の話では、この後二人の内通者と会うことになっていた。

 一人は、赤坂にある花やどの店の者である。花やどは虎吉の息がかかった料亭であるため、金次郎も当初はいぶかしんでいたのだが、この機会を逃しては後悔することになると思い直したのである。

 もう一人は、松善で働いていたという男で、四ツ谷辺りで隠れており、奉行所に命を守って欲しいとのことであった。

「松善の佐吉という手代の行方がわからなくなっている。その佐吉ではないかと考えている」

 左内も佐吉が居なくなったという話を、蕎介から得ていた。

 店の金が無くなっており、佐吉が盗んで逐電ちくでんしたらしい。しかし、松善は奉行所に届けておらず、内内うちうちで済ませようとしていることから、善兵衛にも後ろめたいことがあるのかもしれない。

「もしそうなら、一時でも早く佐吉を会わねばならぬな」

「うむ、虎穴こけつに入らずんば虎子こじを得ず、だ」

 左内が不安げに金次郎を見つめる。

「金次郎、お主一人で大丈夫なのか?」

「大丈夫だ。こういう時には下手に人数を増やすと警戒され、話が進まなくなる。だが、もしもの時は、後を頼んだぞ」

 左内は金次郎に悲壮ひそうな覚悟を感じた。 

  

 提灯を下げた早川金次郎は、紀伊国きのくに坂を急ぎ足で登っていた。日がとっぷりと暮れて、時折、雲間から月が顔を覗かせている。

 この坂は西側に紀州藩きしゅうはん上屋敷があったことから、紀伊国坂の名がついたとされる。東側には弁慶濠べんけいぼりと呼ばれる深く広いほりがあって、それに沿って堤が高く立ち、その上が庭地になっている。道の左右に濠と屋敷の塀が長く続くため、人家や店がなくどこか寂しい。そのためか、日が沈んでからこの坂を行き来する人は少なく、わざわざ回り道をしていた。

 だが、剣の腕に覚えがある金次郎は、あまり意に介さない。

 またこの日は、最初に会った花やどの店の者から、虎吉と松屋善兵衛が花やどで親しくしているという手がかりを得て、気が大きくなっていた。

 店の者に会うまでは、金次郎も警戒していたのだが、それは杞憂きゆうだったようで、これからも動きを知らせてくれるとのことであった。

 いつの間にか雲はすっぽりと月を隠し、坂は闇に包まれている。

 金次郎が坂の途中まで登ってくると、振袖ふりそで姿の女中が一人、地に伏して唸っていた。紀伊国坂のような人気のない場所で、夜更けに女が一人でいること自体が珍しい。  

 金次郎も最初は物の怪のたぐいであるかと怪訝けげんに思った。

 しかし、提灯を掲げてみると、尋常ではない様子である。金次郎は近寄って、倒れている女中に声をかける。

「いかがなされた?」

 年の頃は二十ぐらいであろうか。身形みなりもしっかりしているが、息も絶え絶えで、答えるのもやっとだった。胸の辺りが赤く染まっている。

「……駕籠かごが……、駕籠が襲われて……」

 野盗やとうの類に襲われたのか、傍に駕籠が投げ捨てられている。提灯を掲げて周囲を見回すが、他に人影はなかった。駕籠かきも逃げたのか、斬られたのか……。

「とにかく、ここでは危ない。拙者せっしゃがお助けいたそう」

 女中は弱々しくうなずいた。

 金次郎は助け起こそうと、提灯を傍に置いて女中の身体に手を回した。振袖も、襦袢も真っ赤で、一刻を争う様子である。

 その時、金次郎は違和感をいだいた。多くの血が流れているはずであるのに血の匂いがしなかった。

 金次郎が手を離そうとした瞬間、左胸に激しい痛みを感じた。金次郎は身をよじりながら、女中を突き飛ばす。女中の手には短刀が握られていた。

——くっ、罠だったか……。

 女中が短刀を振りかぶった。

 金次郎が抜刀ばっとうして鋭くぎ払うと、女中の振袖を切り裂いた。

 同時に金次郎の背中が何者かに斬られた。金次郎は激痛によろめいたが、振り向きざまに、一刀を振り下ろす。背後にいた男は、その太刀筋を下がってかわした。

——こんなところで死ぬわけにはいかん。

 金次郎が地面に置いた提灯を蹴飛ばすと、辺りは一瞬で漆黒しっこくに塗り潰された。 

 金次郎は闇雲に刀を二度振るった。太刀は風切り音を鳴らすが、手応えはない。

「平十郎! 奴は手負いの獣だ。下手に近づくと斬られるぞ」

 暗闇の中で男が叫んだ。

 金次郎はよろけながら、もと来た道を一目散に下って行った。

 月が雲から顔を出し、再び薄明るく照らし始める。女中姿の平十郎に、黒装束くろしょうぞくの平九郎が近寄って優しく声をかけた。  

「斬られてはおらぬか?」

 平十郎は島田髷しまだまげの頭を小さく縦に振った。

「はい……、ですが、心の臓は外しました」

 平九郎は片膝をついて、下り坂に残された血を確かめた。

「構わぬ。これだけ血を流せば生きてはおられぬだろう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る