第11話

 日も暮れかかると、吉原へ続く日本堤にほんづづみは祭りのような人だかりである。ぞろぞろと道を行く男たちは、時折ときおり吹く寒風も負けずに、楽しそうに談笑している。

 馴染みの顔を思い浮かべているのか鼻の下を伸ばしている者、懐が寂しいから冷やかして回ろうと相談している者たち。

 稲株いなかぶが並ぶ田に囲まれてはいるが、宵闇よいやみに光輝く吉原は、男たちにとってはまさに極楽ごくらくである。

 だが、女にとっては苦界くがいであり、お歯黒溝はぐろどぶと呼ばれる堀に隔てられ、外の世界を知らぬまま一生を終える遊女も少なくなかった。

 華やかな衣装に身を包んだ花魁おいらんは、世の女にとっても憧れのまとであり、時代時代の流行を生み出す象徴でもあったが、その光の影では、幾多いくたの名も無き遊女が血の涙を流していたのだろう。

 釼一郎たちは駕籠かごで日本堤を通り、見返り柳から五十間道ごじっけんみちへ入る。大門おおもんの前で駕籠を降りると、一行は有頂天うちょうてんで大門をくぐった。

 なかの町から真っ直ぐに伸びる道の両側には、張見世はりみせがずらりと立ち並び、列をなした提灯からの光が周辺を照らしている。

 遊女が見世へ出た時に奏でる見世清搔みせすががきの音が、あちらこちらから絶間なく聞こえてくる。

 馴染みの引手茶屋ひきてぢゃやで、釼一郎は女将おかみに声をかける。しばらくすると、浦里花魁が迎えにやって来て佐野鎚さのづちへと向かう。幅の広い梯子段はしごだんを上がって、引付座敷ひきつけざしきで宴会を始めた。

 『なり』が良くないと女郎たちに持てないからと、蕎介は若旦那風のまま。そのせいかいつもより遊女が至れり尽くせりの世話をしている。

 吉原に通い初めたころの明五郎は、落ち着かない様子で酒を飲んでいたのだが、今ではすっかり馴染んで若い振袖新造ふりそでしんぞとの話に口元が緩んでいた。

 すると皺の寄った遣り手婆やりてばばが、明五郎の隣に座った。

「明五郎さん、随分とご無沙汰ぶさただと思ったら、みなみの水をたいそうお気に入りだったんですってねぇ」

「……南?」

 わけがわからず、明五郎はきょとんとしている。

 ピンときた蕎介が、盃の酒を飲み干して言った。

 「へへっ、明五郎さん品川のことですよ」

 吉原を北国ほっこくと呼ぶのに対して、品川を南と呼んだ。吉原は幕府公認の遊廓ゆうかくだが、品川はあくまでも私娼ししょうであり、吉原とは一線を画していた。

 後ろめたいのか、明五郎は言葉を濁して視線を外す。

「あ、いや……。そういうわけでは……」

「へへっ、今度は薬研堀やげんぼりの茶が気に入ったようですがね」

 蕎介がにやける。

 隣で酌をしていた新造が、すまし顔で明五郎の膝をつねる。

「明五郎さまはあちこちの女を泣かせるお人でありんすか?」

「いやいや、とんでもない……。むしろ、泣かされる方で……」

「そうですよ。一度惚れたらぞっこん惚れる男なんですから。こないだだって、品川の……。まあ、この話はいいか……」

 意味ありげに言葉を飲み込んで、蕎介は盃に口をつける。

 蕎介の隣に座った年増としまの花魁が、続きを聞き出そうと蕎介に身を寄せる。

「なんでありんすか? 最後まで聞かせておくんなんし」

 我が意を得たりとばかりに、蕎介は花魁にそっと耳打ちをして続きを聞かせた。花魁は明五郎をチラチラと見ながら、声を立てて笑う。

 明五郎の隣に座る新造は赤らめた顔を両袖で隠して呟いた。

「明五郎さまが一途いちずなお人なら、あちきのみさおを……」

「えっ?」

 明五郎は新造の顔を凝視して聞き返す。

「恥ずかしい……。野暮やぼはなさりんすな」

 新造は照れ隠しに、明五郎を小突く。明五郎も真っ赤になって、首筋に手をやる。

 そんな明五郎を見ながら、釼一郎は溜め息を吐いた。

「こりゃ、またのぼせ上がりそうだ」

 

 八つの拍子木ひょうしぎが鳴り響き、大引おおびけとなってそれぞれの敵娼あいかたと床入りとなる。

 夜になっての冷え込みは激しく、釼一郎は浦里と、肌を合わせながら暖め合っていた。

 釼一郎が渡した松善の蝋燭がほのかに二人を照らし、白檀びゃくだんの香りが部屋中に漂っている。

 浦里は突然、クスクスと笑い出した。

「どうしたんです?」

 釼一郎は身体を離して、浦里に問いかけた。浦里は口元に赤い長襦袢ながじゅばんの袖を当てて語り始める。

「蕎介さんのことを思い出しました」

 釼一郎と二人きりの時に、浦里はくるわ言葉を遣わないことがある。

 廓では廓言葉、ありんす言葉と呼ばれる、独特な言葉遣いがある。田舎から売られて来たなまりを隠すために、遊女が仕込まれる言葉であった。

 浦里が廓言葉を遣わないのは、遊女ではなかった本当の自分を知って欲しいという思いがあるのかもしれないし、そんな一面を垣間見せることで男の気持ちを操りたいのかもしれない。

 釼一郎もどちらか計りかねているが、それもまた浦里の魅力なのである。 

 浦里はさる武家の落とし子だったという噂もあり、どこか品のある雰囲気をまとっている。

 遊里に売られる前の幼き日々の思い出を、釼一郎にも楽しそうに語ることがある。しかし、詳しいことは何一つ話さなかったし、釼一郎も聞き出そうとするほど無粋ぶすいでなかった。

「蕎介さんは、高尾太夫たかおだゆうにあやかろうと、お大尽の若旦那に化けていらっしゃったんでしょう?」

 古くは花魁の中でも最高の女が太夫たゆうを名乗り、大名を振ると言われるほどに高値の花であった。

 ところが、五代目高尾太夫は、紺屋こんの染物職人、紺屋九兵衛に嫁いだと伝えられている。職人が一途に思い続けて絶世の美女を嫁にする、庶民に夢を見させる物語である。

 釼一郎はひとしきり笑った後、蕎介のために弁解する。

「いやいや、違う違う。蕎介さんは儂のために働いてくれていましてね……」

 訳を聞き、浦里も誤解をした自らを恥じた。

「まあ、そうだったのですね。蕎介さんに謝らないと……。花魁たちに言いふらしてしまったんです」

「そうかい? ……まあ、気にすることはありませんよ。蕎介さんは『なり』や金の力を借りず、心意気で女を落とすらしいですからね」

 二人は声を揃えて笑い、抱き合ったままごろりと上下が入れ替わった。

 浦里が釼一郎を見下ろして言った。

「ねえ、釼さん……あちきの、……あちきの年季ねんきがあけたら、女房にしてくれる?」

 その言葉は初めて浦里の口から釼一郎に投げかけられた問いであった。

 もちろん釼一郎とて、それが遊女たちの決まり文句であることは知っている。

 他の馴染み客には幾度となく口にしてきた台詞に違いなく、男からは承知した、と返すのが約束ごとであろう。

 だが、釼一郎は浦里を見上げながら、いつになく冷たい調子で答えた。

「儂は所帯しょたいを持つ気はない」

 思いがけない釼一郎の言葉に、浦里は一旦顔を伏せ、ふうっと吐息をもらし釼一郎に身を預ける。

「釼さん、ここは夢を見る場所。夢が覚めるようなことを言わないでおくんなんし」

 釼一郎は浦里の重みを感じながら、抱き締めて優しい声で語りかけた。

「浦里花魁なら商売も上手くやりそうだ。儂じゃなくても、一途な良い旦那が見つかりますよ」

 浦里はふふふっと笑った。

「そう、きっと一途な良い男を見つけて、あちきの手で江戸一の男に仕上げてみせる。そん時に、釼さんはきっと悔しがるんだ」

 そう言いながら、浦里は釼一郎の耳たぶを甘噛みした。

「あっ、そうだ」

 浦里は小さな声で呟き、また身体を起こす。枕元に置いてあった本の山から一冊取り、釼一郎に渡した。

「この本」 

 釼一郎は本を手に取り、起き上がって蝋燭の灯りで表紙を見る。

西洋記聞せいようきぶんか。儂も親父様に借りたまま、まだ読んでませんよ。よく手に入りましたね」

「ええ、馴染みに書物問屋の旦那がいましてね。西洋の本はないかとお願いをしておりました。エウロパから来た男の話ですよ」

 女が好む絵草紙えぞうしよりも、浦里は古典や歴史書などの硬い本をよく読んだ。特に蘭癖と言えるほどにオランダ、西洋の話に飢えており、長崎に住んでオランダ医学を学んだ釼一郎から話を聞きたがるのである。

 浦里は鏡台から出した古い西洋の地図を手に取り、釼一郎に指し示した。

「ほら、この辺りがエウロパ。日本はここ。ああ、いつの日か西洋を旅してみたい」

 幼子のように浦里は無邪気にはしゃいだ。無論、日本から出ることは御法度ごはっとだが、吉原から出られぬ身にはどちらも同じことであった。お歯黒溝に四方を囲まれた二万八六〇〇坪の世界が、今の浦里にとっては全てなのである。

 釼一郎はそっと浦里の手を取った。

「年季があけたら、二人で日本を出るってのはどうです? とう天竺てんじくを周り、西洋へ向かう」

 浦里は釼一郎の手を両手で握る。瞳は涙に潤んで今にも溢れそうであった。

「いい! 釼さんの夢物語、とってもいい!」

 釼一郎は二度うなずいて、そっと唇を浦里の唇に重ねた。

 

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