第9話
男たちは、湯茶を
家康公が徳川幕府を江戸に開いた当初、江戸市中に住む男は女の倍近くだったという。築城や街づくり、日比谷入江の埋め立てなど、工事に携わる男手が必要だったからであろう。
しかし、時代が下るに連れて、徐々にその差は無くなり、江戸時代が終わる頃には、男女の数はほぼ同じになっていたようである。
とはいえ、全ての男が皆、
それに比べると、茶屋で働く娘たちは会いに行ける美女、といったところであろう。
釼一郎は佐吉から目を離し、明五郎に話しかけた。
「だいぶ入れ込んでますね」
ところが、明五郎の返事はない。明五郎の視線は、おさとに注がれていた。
「明五郎さん!」
と、声を張り、釼一郎が名を呼ぶと、明五郎がビクッとして我に返った。
「は、はい。なんでしょう」
「なんでしょうじゃありませんよ。明五郎さんまで惚れちまってどうするんですか」
「……い、今、おさとさんと目が合った」
呆れたように、釼一郎は首を左右に振った。
その時、佐吉に若い男が近寄って行った。
「これはこれは、松善の佐吉さんじゃありませんか?」
おさとに見とれていた佐吉は我に返って、若旦那を見た。だが、佐吉には見覚えのない男であった。
「……あ、あの?」
困惑した佐吉は、探るように言葉を発した。
「お忘れですか?
佐吉は愛想笑いを浮かべ、慌てて挨拶をする。
「あ、ああ、天乃屋の時二郎さま、これはご無沙汰をしております」
「どうです? 商いは? 飽きずにやってますか?」
「ええ、お陰様で……」
話し込む二人を釼一郎が、盗み見ている。
おさとが奥へ引っ込んで目が覚めたのか、明五郎が釼一郎に小声で語りかけた。
「
蕎介は手代の佐吉に近づくために粋な若旦那に扮していた。
「後は蕎介さんに任せましょう」
「左内殿、ちょっと相談したいことがある」
ただならぬ様子を察して、左内は声を落として
「どうしたのだ?」
「うむ、信用できるお主にだけは耳に入れておこうと思ってな」
金次郎は北町奉行の土佐守、
「
辰巳四郎は、
「うむ、小耳には挟んだ」
「どうやら、心の臓を一突きで仕留められたらしい」
「まことか? その手口、虎吉の手下か……」
金次郎は無言でうなずいた。
浅草の
「確かなことではないが、
「松善?」
思わず声が大きくなった左内は、慌てて口を押さえる。金次郎は驚いた様子で左内に訊ねる。
「松善を知っているのか?」
「うむ、別の殺しで追っていた」
左内は手短に、両国橋での土左衛門の件を話した。金次郎は思案した様子で右手で鬢を撫でながらつぶやいた。
「そうか……。その土左衛門が松屋善兵衛となにか繋がりがあるかもしれんな。善兵衛はその名に反して、悪どいことをやっている」
松善を営む善兵衛は、蝋燭問屋としては新参者だが、江戸でも一、二を争うほどの
表向きは香り付き蝋燭など工夫凝らし、商才が優れているとの評判ではあるが、裏では思い通りにならない商売敵を虎吉一家に頼み、嫌がらせや脅し、時には殺しで追い落としを図っているらしい。
しかし、幕府の要職に松善と虎吉の息のかかった者がいるようで、奉行所も簡単には手が出せないでいる。
「お主、くれぐれも気をつけろよ」
左内は金次郎の左胸をポンポンと叩いた。
「大丈夫、油断はせぬ」
金次郎は北町奉行所でも五本の指に入ろうという剣の腕である。しかし、不意打ちとなれば話は別である。いつ襲ってくるかわからぬ敵ほど恐ろしいものはない。
「だが、与力か同心の中にも通じている者がいるかもしれん」
金次郎は眉間に皺を寄せて低く唸った。
赤坂にある花やどは、元々、通人の豪商などが利用する宿屋であったが、質素倹約に厳しい
文化の時代になって商人達の懐事情も良くなり、近頃では以前にも増して客の目と舌を楽しませている。
花やどの名物料理は卵料理である。とりわけ花やどの
それもそのはずで、花やどの金糸卵は金粉入りで、数々の料理を飾っている。
江戸時代の卵料理を記した
卵の白身を取り、半紙にて漉し、金箔のふり粉をすこし宛入レ
とある。庶民には贅沢品である卵に、さらに金箔を使って豪奢な演出を行うわけである。
善兵衛は金糸卵を口に含むと眉をひそめた。
「どうしました? お口に合いませんかな?」
虎吉が
「いやいやそうではございません。商売人として、金を食すということがどうにも受け入れられないもので。大変美味でございます」
声を立てて虎吉は笑った。上州を取り仕切る親分とは思えないような穏やかな笑い声である。
善兵衛も虎吉の恐ろしさは充分に知っている。
威勢のいい男でも、虎吉の本性を知る者は借りてきた猫のように大人しくなってしまう。
「まあ、
虎吉が銚子を差し出すと、善兵衛は盃を手に持った。紺の
「
虎吉は微に入り細に入り、心配りを欠かさない。相手の嗜好をどこからか調べ、心を掴むのだ、善兵衛は虎吉に生まれについて語ったことはない。店の者にも語った覚えもなかった。それでも肥前生まれの善兵衛について調べているという事をほのめかしているのである。
「なるほど、結構な物です」
「ところで、今日のお話というのは?」
当然、虎吉としても善兵衛が奉行所に目をつけられているのは承知しているであろう。
「北町奉行所の動きをご存知ですかな?」
「存じております。近ごろは、色々と嗅ぎ回っているようですな」
「うちの店にも同心が来ました。言いがかりをつけられ、困っております」
そう言いながらも、善兵衛の表情に変化は見られない。酒を飲み干したのを見届け、善兵衛は銚子を手に取ると、虎吉の盃に酌をする。
「天下の松善さんが手を回せば、同心の一人二人なぞ赤子の手を捻るようなものでしょう」
虎吉が微笑んだ。
「すでに回したのですが、奉行はどうにも堅物で……。赤松様にも頼んでみましたが懐柔は難しいようで弱っております」
小田切直年は評判が良く、幕府からの信頼も厚い。盗賊の
虎吉は善兵衛に注がれた酒を飲み干した。
「わかりました。なんとかしましょう」
善兵衛と虎吉は言わば持ちつ持たれつ、
虎吉も善兵衛のことを買っている。
銭べえ、松銭などと陰口を叩くものもいるが、使う時は使う男、銭を活かす男なのである。ただ
勝機と見るや一万両の大金も
「
善兵衛の冷たく青い唇がわずかに開いた。
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