第9話

 薬研堀やげんぼり不動院ふどういんは、江戸三大不動の一つとされ、門前の茶屋も大いに賑わっている。その中に若い男ばかりを集める水茶屋みずちゃや井瀬いせ屋があった。鼻の下が伸びきった男たちの視線の先には、梅鼠うめねずみの着物にセイラツ縞の前垂まえだれをかけた看板娘、おさとがまめまめしく働いている。

 島田髷しまだまげに挿したびらびらかんざしが、おさとの動きに合わせてゆらゆらと揺れた。

 男たちは、湯茶をすすり水腹を押さえながら、おさとの柳腰を舐め回すように眺めている。

 家康公が徳川幕府を江戸に開いた当初、江戸市中に住む男は女の倍近くだったという。築城や街づくり、日比谷入江の埋め立てなど、工事に携わる男手が必要だったからであろう。

 しかし、時代が下るに連れて、徐々にその差は無くなり、江戸時代が終わる頃には、男女の数はほぼ同じになっていたようである。

 とはいえ、全ての男が皆、伴侶はんりょに巡り合うはずもなく、多くの者が吉原や岡場所などで遊女を買っていたが、花魁おいらんほどの高嶺たかねの花になると、五両、十両といった大金が必要だった。

 それに比べると、茶屋で働く娘たちは会いに行ける美女、といったところであろう。

 谷中やなか笠森かさもり稲荷いなりの境内にある鍵屋のおせん、浅草あさくさ随身ずいじん門前の難波屋なにわやのおきた、そして両国薬研堀の高島おひさなどの看板娘が、絵師、喜多川歌麿きたがわうたまろの手によって錦絵にしきえになるほど人気だった。

 釼一郎けんいちろう明五郎あきごろうも井瀬屋で茶を飲んでいた。だが、釼一郎が盗み見るのはおさとではない。蝋燭問屋、松善まつぜん手代てだい佐吉さきちである。佐吉は三杯目の茶を口にしながら、おさとに話しかけようと機会をうかがっている様子であった。

 釼一郎は佐吉から目を離し、明五郎に話しかけた。

「だいぶ入れ込んでますね」

 ところが、明五郎の返事はない。明五郎の視線は、おさとに注がれていた。

「明五郎さん!」

 と、声を張り、釼一郎が名を呼ぶと、明五郎がビクッとして我に返った。

「は、はい。なんでしょう」 

「なんでしょうじゃありませんよ。明五郎さんまで惚れちまってどうするんですか」 

「……い、今、おさとさんと目が合った」

 呆れたように、釼一郎は首を左右に振った。

 その時、佐吉に若い男が近寄って行った。本多髷ほんだまげ紅鼠べにねずみ鮫小紋さめこもんを着て、いかにも若旦那という出で立ちである。紅鼠の若旦那はちらりと釼一郎に視線を送った。そして、そのまま佐吉に声をかける。

「これはこれは、松善の佐吉さんじゃありませんか?」

 おさとに見とれていた佐吉は我に返って、若旦那を見た。だが、佐吉には見覚えのない男であった。

「……あ、あの?」

 困惑した佐吉は、探るように言葉を発した。

「お忘れですか? 天乃屋あまのや時二郎ときじろうですよ。……まあ、無理ないか。最後に蝋燭を仕入れに行ったのもずいぶんと前になりますからね」

 佐吉は愛想笑いを浮かべ、慌てて挨拶をする。

「あ、ああ、天乃屋の時二郎さま、これはご無沙汰をしております」

「どうです? 商いは? 飽きずにやってますか?」

「ええ、お陰様で……」

 話し込む二人を釼一郎が、盗み見ている。

 おさとが奥へ引っ込んで目が覚めたのか、明五郎が釼一郎に小声で語りかけた。

蕎介きょうすけさん、上手くやりましたね」

 蕎介は手代の佐吉に近づくために粋な若旦那に扮していた。馬子まごにも衣装というが、髷を鯔背いなせから本多に変えて、仕立ての良い着物を身にまとっているせいか、すっかり佐吉は信じきっているようである。

「後は蕎介さんに任せましょう」


 「左内殿、ちょっと相談したいことがある」

 林左内はやしさない同心どうしん仲間の早川金次郎はやかわきんじろうに呼び止められ、奉行所の書庫に招きいれられた。金次郎は素早く左右を確認し戸を閉める。

 ただならぬ様子を察して、左内は声を落としてたずねた。

「どうしたのだ?」

「うむ、信用できるお主にだけは耳に入れておこうと思ってな」

 金次郎は北町奉行の土佐守、小田切おだぎり直年なおとしから命じられ虎吉一家の動きを探っている。金次郎は江戸の裏稼業にもつてがあり、そういった者から虎吉一家や松善に関する噂話や、内輪話が集まるようになっている。

香具師やし辰巳四郎たつみしろうが、何者かに殺されたのは知っているか?」

 辰巳四郎は、馬喰町ばくろちょう周辺を縄張りにする香具師の元締めである。義理人情に厚く弱気を助ける親分と評判で、物売りたちから信頼されていた。

「うむ、小耳には挟んだ」

「どうやら、心の臓を一突きで仕留められたらしい」

「まことか? その手口、虎吉の手下か……」

 金次郎は無言でうなずいた。

 浅草のとりの市に出かけた辰巳四郎は、賑わっている人混みの中で、何者かに刺されたらしい。子分も辰巳を囲むように歩いていたはずなのだが、一瞬の隙を突かれ、いつ刺されたのかも気づかなかったのだという。

 沽券こけんに関わるからなのか、表立っての死因は伏せられているが、虎吉一家の仕業であることは辰巳の子分たちも掴んでいるという。

「確かなことではないが、小伝馬町こでんまの蝋燭問屋、松善が虎吉一家と繋がっているようなのだ」

「松善?」

 思わず声が大きくなった左内は、慌てて口を押さえる。金次郎は驚いた様子で左内に訊ねる。

「松善を知っているのか?」

「うむ、別の殺しで追っていた」

 左内は手短に、両国橋での土左衛門の件を話した。金次郎は思案した様子で右手で鬢を撫でながらつぶやいた。

「そうか……。その土左衛門が松屋善兵衛となにか繋がりがあるかもしれんな。善兵衛はその名に反して、悪どいことをやっている」

 松善を営む善兵衛は、蝋燭問屋としては新参者だが、江戸でも一、二を争うほどの大店おおだなに成り上がっていた。

 表向きは香り付き蝋燭など工夫凝らし、商才が優れているとの評判ではあるが、裏では思い通りにならない商売敵を虎吉一家に頼み、嫌がらせや脅し、時には殺しで追い落としを図っているらしい。

 しかし、幕府の要職に松善と虎吉の息のかかった者がいるようで、奉行所も簡単には手が出せないでいる。

「お主、くれぐれも気をつけろよ」

 左内は金次郎の左胸をポンポンと叩いた。

「大丈夫、油断はせぬ」 

 金次郎は北町奉行所でも五本の指に入ろうという剣の腕である。しかし、不意打ちとなれば話は別である。いつ襲ってくるかわからぬ敵ほど恐ろしいものはない。

「だが、与力か同心の中にも通じている者がいるかもしれん」

 金次郎は眉間に皺を寄せて低く唸った。


 赤坂にある花やどは、元々、通人の豪商などが利用する宿屋であったが、質素倹約に厳しい寛政かんせいの改革をきっかけに傾き、なんとか営業を続けていたのを虎吉が買取り、四季折々の風情ふぜいを楽しむ料亭として蘇らせていた。

 文化の時代になって商人達の懐事情も良くなり、近頃では以前にも増して客の目と舌を楽しませている。

 花やどの名物料理は卵料理である。とりわけ花やどの金糸卵きんしたまごは評判であった。

 それもそのはずで、花やどの金糸卵は金粉入りで、数々の料理を飾っている。

 江戸時代の卵料理を記した万宝料理秘密箱まんぽうりょうりひみつばこによると、金糸卵の作り方は、

 卵の白身を取り、半紙にて漉し、金箔のふり粉をすこし宛入レ

 とある。庶民には贅沢品である卵に、さらに金箔を使って豪奢な演出を行うわけである。

 善兵衛は金糸卵を口に含むと眉をひそめた。

「どうしました? お口に合いませんかな?」

 虎吉が怪訝けげんな表情を浮かべる。善兵衛は慌てて否定する。

「いやいやそうではございません。商売人として、金を食すということがどうにも受け入れられないもので。大変美味でございます」

 声を立てて虎吉は笑った。上州を取り仕切る親分とは思えないような穏やかな笑い声である。

 善兵衛も虎吉の恐ろしさは充分に知っている。

 威勢のいい男でも、虎吉の本性を知る者は借りてきた猫のように大人しくなってしまう。

「まあ、一献いっこん

 虎吉が銚子を差し出すと、善兵衛は盃を手に持った。紺の唐草紋からくさもんが美しく染め付けられている。盃はふわりと軽く手に収まった。あまりの軽さに驚きながらも、銚子から流れ出る酒を受けた。

卵殻手らんかくでという盃ですな。みかわち焼き、平戸焼きとも言われる器です」

 虎吉は微に入り細に入り、心配りを欠かさない。相手の嗜好をどこからか調べ、心を掴むのだ、善兵衛は虎吉に生まれについて語ったことはない。店の者にも語った覚えもなかった。それでも肥前生まれの善兵衛について調べているという事をほのめかしているのである。

「なるほど、結構な物です」

「ところで、今日のお話というのは?」

 当然、虎吉としても善兵衛が奉行所に目をつけられているのは承知しているであろう。

「北町奉行所の動きをご存知ですかな?」

「存じております。近ごろは、色々と嗅ぎ回っているようですな」

「うちの店にも同心が来ました。言いがかりをつけられ、困っております」

 そう言いながらも、善兵衛の表情に変化は見られない。酒を飲み干したのを見届け、善兵衛は銚子を手に取ると、虎吉の盃に酌をする。

「天下の松善さんが手を回せば、同心の一人二人なぞ赤子の手を捻るようなものでしょう」

 虎吉が微笑んだ。

「すでに回したのですが、奉行はどうにも堅物で……。赤松様にも頼んでみましたが懐柔は難しいようで弱っております」

 小田切直年は評判が良く、幕府からの信頼も厚い。盗賊の鬼坊主清吉おにぼうずせいきちを裁いたことで、広く名を知られている。

 虎吉は善兵衛に注がれた酒を飲み干した。

「わかりました。なんとかしましょう」

 善兵衛と虎吉は言わば持ちつ持たれつ、唇歯輔車しんしほしゃと言えるほどの関係がある。松善が江戸一と評される蝋燭問屋になったのが虎吉一家のお陰なら、虎吉が金に糸目をつけずに敵対する組と張り合えるのも松善のお陰なのである。

 虎吉も善兵衛のことを買っている。

 銭べえ、松銭などと陰口を叩くものもいるが、使う時は使う男、銭を活かす男なのである。ただけちなだけの男が、一代で身上を築き上げることなど出来まい。  

 勝機と見るや一万両の大金も躊躇ちゅうちょせずに動かすのである。かと言って、財力を笠に着ることもない。虎吉も善兵衛には協力を惜しまない。

甲賀こうが者の流れを組む腕利きが居ます。万に一つも仕損じることはありますまい。それで、同心の名は?」

 善兵衛の冷たく青い唇がわずかに開いた。

 

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