第8話


 釼一郎けんいちろう左内さないは、松屋善兵衛まつやぜんべえと対面していた。普通、大店おおだなの客間は書画や、器、花などが華美かびに飾られていることが多いが、松善の客間は調度品も簡素な物である。掃除が行き届いているが、畳も随分と年季の入った様子である。

「ご用というのは何でございますか」

 善兵衛は静かに口を開いた。

「単刀直入に聞こう。竹次郎という男を知っておるか?」

 左内はそう言いながら、懐から人相書きを取り出し、畳の上に広げた。善兵衛は人相書きを手に取り一瞥いちべつし答える。

「いや、存じ上げませんな」

 釼一郎は目の前に座る商人の一挙一動を観察しているが、表情からは感情を読み取れない。

「そうか。この店の者が、蝋燭ろうそくにいたずらをする男を覚えておってな。お主が金を出して返したと言っておったそうだが」

 左内の問いかけに、善兵衛は首を傾げる。

「さて、そんなこともありましたか。そういうやからは多いものですから、細かくは覚えておりませぬが、この男がどうかしましたか?」

「うむ。首を絞めて殺されておったので下手人げしゅにんを探しておるのだが、何か覚えてはおらぬか?」

「申し訳ありません。先ほども申しました通り、いちいちは覚えておりませぬので」

 ながやかに答える善兵衛であるが、言葉は常に冷淡である。

「そうか。お主らは豊川屋で一緒に山くじらを食う仲なのではないのか?」

「覚えがありませぬな。強請ゆすりたかりを生業なりわいとする輩と話をする必要もありませぬ」

 左内は少し間を取って切り込んだ。

「では、生き別れた弟であれば不思議もあるまい?」

 その問いかけに対しても善兵衛に動揺は見られず、落ち着いた様子のまま口角こうかくを上げて答える。

「全くの人違いでありましょうな。残念ながら私には縁者はおりませぬ。店の者で知っている人がいれば届け出るように申し付けておきましょう」

 善兵衛は奥へ声をかけ、手代てだいを呼んだ。左内がちらりと釼一郎を見ると、釼一郎はゆっくりと頭を振った。


 左内は蕎麦そばを前にし、口を真一文字に結んだまま終始無言である。箸で一本の蕎麦を掴むと、つゆも付けずにすっと口に入れる。目を閉じてしっかりと味を確かめた後、今度はひとつまみの蕎麦を箸で取る。蕎麦の先に一分程のつゆを付けたかと思うと、一気に蕎麦をすする。一連の動作をじっと眺めていた釼一郎が我慢出来ずに声をかけた。

「そんな少しばかりのつゆで美味いんですかね?」

 左内は鼻で笑う。

「本当の蕎麦っくいというのは、こういう者だ。お主のようにつゆを付け過ぎては、本当の蕎麦の味が分からぬ。特にこの新蕎麦の風味が死んでしまう」

「そんなもんですかね。きっと死ぬ間際まぎわになって、つゆをもっと付けておけば良かったと後悔しますよ」

「そんな訳はない。それより、善兵衛はどうであった?」

 憤慨ふんがいした様子で、左内は話題を変える。

「いやー、あれはたぬき、いや、きつねですね。全く腹の底が分からない」

 蕎麦を手繰たぐりながら、釼一郎は苦り切った顔つきをする。

「やはり人違いではないのか?」

「いや、あの日善兵衛は夜更よふけに酒を飲んで帰って来たらしいのです。珍しいことなので、店の者が覚えておりました」

「ふうむ。怪しいのは間違いないな。だが、善兵衛は相当の力を持っておる。大名だいみょう旗本はたもととも繋がっているようでもあるから、そう簡単には手出しが出来ぬぞ」

「ええ」

 うなずきながら、釼一郎は蕎麦湯を手元に引き寄せ蕎麦猪口ちょこに注ぐ。左内は最後の蕎麦をすすって釼一郎に問い掛けた。

「お主、これからどうする?」

「そうですね。江戸に出て来てからの善兵衛の動きを洗い直そうと思っています。日本橋に長崎屋源右衛門ながさきやげんえもんという薬種問屋やくしゅどんやがあります。善兵衛は肥前ひぜんの生まれで商人。源右衛門殿ならなにかわかるかもしれません」

 と、釼一郎が答えた時、暖簾のれんを潜って見すぼらしい男が入ってきた。きょろきょろと周囲を見回していたが、蕎麦を運ぶ娘を見かけて声を掛ける。

屑屋くずやでございます。屑はありませんか?」

 屑屋とは廃品回収屋のようなものである。江戸の町は実に無駄のない社会であった。欠けた茶碗や古紙など、家庭から出たごみを集め再利用していた。珍しいものでは、抜け落ちた女性の髪の毛を拾い集め、かもじつまり、付け毛として売り歩くおちゃないという商いもあったそうである。

 忙しいところに声を掛けられて、娘は屑屋を激しく叱りつける。

「ちょいと! 裏へ回ってくださいな」

 どうやら、新しく屑屋を始めた男らしく、勝手が分からないのであろう。何度も頭を下げながら、再び表に出て行った。

 釼一郎の視線はじっと屑屋の跡を追い掛けていたが、突然立ち上がった。左内が驚いて声を掛ける。

「どうした釼一郎殿?」

「良いことを思いつきました! 銭、ここへ置いときます」

 言い終わらないうちに、風のように暖簾を揺らして出て行った。


「この紙です」

 そう言って、蕎介は釼一郎に紙を手渡した。蕎介きょうすけは釼一郎の頼みで、豊川屋に出入りする屑屋を片っ端から調べていた。

 豊川屋で女中が捨てた紙は、下男によって屑屋に売られていた。上等な紙であったため、屑屋も取って置いたのであろう。丁寧にしわが伸ばされていた。

 その紙を手に入れて、意気揚々いきようようと山田家の屋敷へ訪れた蕎介であった。

 釼一郎は行灯あんどんの側に蕎介から受け取った紙を近づけ、書かれた文字を読んだ。

 ——竹 この金でなりを良くして両国豊川屋へ行け 松——

「でかしましたね! 蕎介さん! 松屋善兵衛は竹次郎に金を渡し、豊川屋で山くじらを食ったんですね!」

 明五郎は嬉しそうにはしゃいでいる。

 しかし、釼一郎の表情は険しい。

「これだけでは、善兵衛はしらを切るでしょうね」

 豊川屋の女中に善兵衛の顔を見てもらうのもいいかもしれない。だが、善兵衛に人違いだと言い張られることは目に見えている。

「もっと松屋善兵衛の周りを探りましょうか?」

 蕎介が釼一郎と明五郎の顔を見回した。釼一郎も首肯しゅこうする。

「それはいいですね。店の者からもっと善兵衛の話が聞ければ良いのですが……」

「任せてください。上手くやりますよ」

 蕎介は胸を張る。その時、釼一郎が思い出したように言った。

「そう言えば……。紙に書かれていたのは、おらんだ仮名がなではありませんでしたね」

 明五郎も首を傾げた。

「確かに……。そうすると、『おら』という言葉も他の意味なのでしょうか?」

「うーん……」

 三人は腕組みをして唸った。 


 次の日、釼一郎は日本橋の長崎屋を訪ね、当主の源右衛門に挨拶をしていた。

 長崎屋は薬種問屋だけでなく、オランダ商館長しょうかんちょうが江戸へ参府さんぷする際の定宿となっている。

 この時代、外国との貿易は朝鮮国、琉球りゅうきゅう国、しん朝、そしてオランダに限られていた。朝鮮国は対馬つしま藩、琉球国は薩摩さつま藩が仲介する形で取引を行っていたが、オランダは長崎奉行が監督し、長崎の出島でじまを拠点にして行われていた。

 商館長が将軍へ珍しい品物の献上と、御礼参りを行うために、出島から江戸やって来るのである。

 オランダとの交易も、江戸の初めほどの旨味がなくなっていたため、四年から五年に一度になり、通詞つうしのみが参府していた。

 それでも長崎屋には、日本の知識人たちがこぞって訪れる。

 なにしろ国を閉ざし、外界との交流を絶っているのである。異国に興味がある者にとって、異国人や、普段から異国人と接している通詞からの話は、新しい知識を増やすまたとない機会であった。

 医学を学ぶために長崎で暮らした釼一郎にとっても、新しい異国の話は金を払ってでも欲しいものであった。釼一郎がまめに長崎屋に通うのは、薬種の仕入れだけでなく、異国の見聞けんぶんを仕入れるためでもあった。 

「源右衛門様、ずいぶんとご無沙汰ぶさたでございます」

「いやいや、無沙汰は互いです。この度はどうしました」

 源右衛門は物腰柔らかではあるが、才気に溢れる人物である。

「一つお願いがあって参ったのです。蝋燭問屋、松屋善兵衛をご存知でしょうか」

「もちろん、承知しております。少し粗い商売をしているようですな。ま、お茶を一つ」

 そう言いながら、源右衛門は釼一郎に煎茶せんちゃを勧めた。煎茶の脇には、茶菓子のカステラが添えられている。

 ありとあらゆる商売の話は、源右衛門のところへ入って来る。表の話も裏の話もしっかり握ることが、商売の種でもあった。

 釼一郎は出されたお茶を啜ってから口を開いた。 

「この善兵衛という男、肥前国の生まれだそうでして、生まれを少し探っていただきたいのです」 

「ほう、それはどうして?」

 その問いに釼一郎はすぐには答えなかった。カステラを手に取り、一口齧かじっており、再びお茶を啜る。釼一郎の口の中で、カステラの風味と、煎茶の苦味が調和される。この日出されたカステラは、普段江戸で食べられているさっぱりしたカステラと違って、長崎で食したことのあるしっとりして甘いカステラであった。カステラの味は、長崎の日々を懐かしく思い起させた。

 釼一郎は至福しふくの気分を充分に味わった後で、もう一度お茶を啜って話を続ける。

「善兵衛の弟らしき者が、何者かに殺されましてね。それを調べているのです。ことと次第によっては、松善の勢いをぐこともできるかと」

 源右衛門はたもとに手を入れ、腕組みをして目を閉じた。考えがまとまったのか、すぐにまぶたを開けた。

「松善さんのところは、仲間内でも話に上がってきてましてね。このまま許しておいて良いものか、と……。わかりました。調べてみましょう」

「ありがとうございます。礼は必ず……」

「いやいや、構いません。こちらにも関係がある話です」

「助かります」

 釼一郎は礼を述べると、カステラの残りを口に入れた。

 

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