第7話


 虎吉とらきちは将棋盤を前にし、あご頬杖ほおづえをついて次の一手を考えていた。

 歳は四十一。歌舞伎かぶき役者と言われれば信じてしまうような涼しげな目元に、引き締まった顔立ちだが、頰に走る傷痕が波乱の人生を思い起こさせる。

 元々、虎吉一家は上州を拠点としていた坂田豊吉さかたとよきちという博徒が起こした小さな組であった。

 そこへ三十前の虎吉が流れ着いてから、組は様変わりした。武術、剣術の心得と、度胸、人を使う才覚だけでなく、機を見るに敏であった虎吉は、たちまちに頭角を現した。

 二年も経たぬうちに周囲の組を傘下に収め、上州でも名の知れた勢力へと成長した。

 豊吉が急死したのちに、虎吉が名実共に組を支配した。豊吉の死を怪しむ者も少なくなかったが、表立って疑念を口にする者はいなかった。

 虎吉の野望はそれだけでは止まらず、江戸へも触手を伸ばし始めた。

 江戸進出の拠点としたのは、谷中やなかの寺である。この寺は元々、不受布施派ふじゅふせはの寺であったが、幕府から邪宗じゃしゅうとして扱われ、宗派を変えることで存続を図ろうとした。しかし、それも上手くいかずに廃寺となったところを、虎吉が手に入れて住まいとしたのである。

 住職を置いてはいるが、虎吉一家以外に檀家だんかはいない。始末した死体を墓地に埋めて隠しているという噂が立ち、堅気かたぎの者は近寄らなかった。

 三十畳の本堂には、虎吉一家の若い者が集まり、丁半博打ちょうはんばくちを楽しんでいる。

 賽子さいころを考案したのは、お釈迦しゃか様という説もあり、寺で賽子博打をするというのはある意味正しい振る舞いなのかもしれない。実際、寺社で賭場とばが開かれることも少なくなかったようだが、町奉行は手が出せず取締りは困難であったという。

 そんな賭場の喧騒けんそうから離れた奥の間で、虎吉は将棋を指している。長い思案の末、空いた角道を辿って角を進めた。

 対局するのは、剃髪ていはつした若い僧侶で、榛摺はりずりの僧衣を身につけている。くっきりとした二皮目、高い鼻梁びりょうで整った顔立ちは、美しい尼僧にそうと見間違えるほどである。駒を取る手付きもしなやかで、色気が漂っている。

 ぱちり、と僧侶が銀を置いた。虎吉が低く唸る。虎吉が僧侶を一瞥いちべつすると、半跏思惟像はんかしいぞうような微笑をたたえていた。

 板張りの廊下をドタドタと足音が近づいて来る。扉が開いて、又三郎またさぶろうと若い衆三人が、虎吉と少し距離を取って座った。

 虎吉は将棋盤を睨んだまま、又三郎に声をかける。

「又三郎、お前ずいぶんと勝手にやってるそうじゃねぇか」

 又三郎は悪びれた様子もなく答える。

「親分、そんなことはありませんぜ。あっしはちゃんと親分のために働いてますから。なあ?」

 又三郎が言うと、後ろの若い衆が一斉にうなずいた。虎吉の声が柔らかい調子に変わる。

「俺はお前のことを買ってたんだ。機転は利くし、下からの信頼も厚い。なにより度胸が良い」

 又三郎は照れ臭そうに首の後ろに手をやって二度撫でた。

 虎吉が僧侶に目配せをすると、僧侶は駒が並べられたままの厚い将棋盤を両手で持って脇へ下がる。そして、もう一つの将棋盤を虎吉の前に置き、再び脇へ下がった。

 虎吉は顎を上げて、又三郎を呼びつけた。

「こっちへ来い。一局どうだ?」

 驚いた様子で、又三郎は顔の前で手を左右に振って拒否をする。

「いえ、あっしはヘボ将棋で、親分と指すような腕はありません」

「大丈夫だ。平十郎がお前の軍師につく」

 僧侶をじろじろと見て、又三郎は下卑げびた笑いを浮かべた。

「この坊主がねえ……。親分は、大層この坊主をお気に入りのようだが……」

 又三郎が振り返ると、若い衆はにやにやと笑い合っている。

 仕方しかたねえと呟きながら、又三郎は座布団の上に座り、将棋盤を前にした。

 面倒くさそうに舌打ちをしながら、駒を並べていく。角と飛車の位置に首を傾げたが、いたずらを思いついた子供のように、もう一つの将棋盤から飛車を取り、二つの飛車を自陣に並べた。

「親分、あっしはヘボなんで、少し手加減を願います。こんな形で一つ」

 ずうずうしい申し出に、虎吉の表情がだんだんと緩み、高笑いに変わった。

「又三郎、お前らしいな。お前に頼まれたら、嫌とは言いにくい」

「へへっ」

 又三郎は首の後ろを二度撫でた。

「だがなぁ、又三郎。決まりは、決まりだ」

 急に虎吉の声に凄味が入り、又三郎を凝視する。又三郎は思わず視線を逸らした。

「定めた決まりは守るもんだと、そうお前には言い聞かせたはずだ。お前が勝手な真似をしやがるせいで、近ごろは同心どうしんに目をつけられるようになった」

「ええ、すみません。気をつけます」

 又三郎はか細い声になって、しおらしく俯いた。

 いつの間にか僧侶が又三郎の背後に回り、首根っこを掴んで将棋盤に押さえつける。盤上に並べられた駒が、又三郎の頰にめり込んだ。

「なにしやがる!」

 身体を起こそうとするが、又三郎は首を捩ることさえままならない。僧侶は涼しげな表情を崩さぬまま、又三郎の動きを封じている。

 虎吉がもう一つの将棋盤に近寄り片手で持ち上げた。将棋の駒ががらがらと畳に散らばる。

「お前らが決まりを知らねえなら、俺の伝え方が悪いんだろう。……でもな、決まりを知ってて守らない。こりゃぁいけねぇ。お前が悪い」

「お、親分。あっしが悪かった。明日から、……いや、今日から、い、今から心を入れ替える」

 泣き声で必死に助けを求める又三郎を見下ろして、虎吉は冷たく言い放った。

「これはお前一人の問題じゃねえ。若い衆たちもすっかりお前に染まってるじゃねえか」

 虎吉が若い衆をじろりとひと睨みすると、若い衆たちは口を開けたままガタガタと震えて声を発することができない。

 虎吉が将棋盤を振り上げた。

「た、助けてくれぇ!」 

 命乞いに躊躇ちゅうちょせず、虎吉は将棋盤を又三郎の頭に叩きつけた。鈍い音とともに、又三郎の断末魔だんまつまが響き渡る。虎吉は眉一つ動かさずに、再び同じ動作を繰り返した。将棋盤を側に置いて立ち上がり、又三郎をじっと見下ろす。又三郎の身体は小さく痙攣けいれんしている。

「平十郎、成仏させてやってくれ」

 そう言って、虎吉は部屋を出て行った。僧侶はうなずき、手を合わせて又三郎に拝んだ。


 左内さない平河ひらかわ町にある山田朝右衛門やまだあさえもんの屋敷を訪れた。いつものように裏口に回ると煙がもうもうと立ち込めている。釼一郎は七輪しちりんの上に秋刀魚さんまを載せて、渋団扇しぶうちわで忙しく扇いでいる。秋刀魚から立ち上がる脂の臭いが、左内の鼻腔びくうを刺激した。

釼一郎けんいちろう殿、何をやっている?」

「見れば分かるでしょう。サンマを焼いているんです」

 左内はしかめ面で、煙を袖で払う。

「そのような下魚げざかなをよく食べる気になるな」

 秋刀魚は今でこそ秋の味覚の代表格だが、江戸時代は鯛のような淡白な白身魚が好まれた。脂が多い魚は不人気であり、秋刀魚やいわしは下魚扱いであった。ちなみに鮪のトロは脂が多く、足が早かったので猫も見向きもしない、という意味で猫またぎと言われていたほど不人気であった。

「これがね、大根おろしと一緒にやると旨いんですよ」

 釼一郎は満面の笑みを浮かべながらこんがり焼けた秋刀魚一尾を皿に載せ、大根おろしを脇に添えて左内に差し出した。左内は顔を背けながら、釼一郎に問いかける。

「遠慮しておく。それより、用とはなんだ? まさかサンマを食わすために呼んだわけでもあるまい」

「サンマも用の一つですよ。まあ騙されたと思って食べて御覧ごらんなさいな。一度食べたら殿様だって忘れられない味なんですから」

 釼一郎は秋刀魚の背中を箸で割って身をほぐすと、大根おろしをひとつまみして、左内の口元に近付けた。

「わかったわかった。食してみるから」

 と、釼一郎から皿と箸を受け取って口へ運んだ。釼一郎はじっと左内が咀嚼そしゃくするのを眺めている。

「うむ、まあ食えぬことはないな」

 そう言いながら左内は箸で秋刀魚をほぐし始める。釼一郎はにやにやしながら言った。

「気に入っていただけたようで何より。そうそう、もう一つの用というのがあるのです。蝋燭問屋ろうそくどんや松善まつぜんに一緒についてきてくれませんか? 儂らじゃ門前払いを食っちまう」

「なぜ、松善なのだ?」

 左内は箸を置かずに訊ねる。

 小伝馬町こでんまちょうで松善に目を止めた釼一郎は、人相書きで聞き込みを行なった。すると松善の小僧が怪しい男、竹次郎を覚えていたのである。 

「竹次郎は、店の中で蝋燭を弄り回していたそうです。土左衛門になった竹次郎の爪先に残っていた蝋燭は、その時のものでしょう」

「なるほど」 

 左内は納得した。釼一郎は言葉を続ける。

「竹次郎は善兵衛の弟だと名乗ったそうです」

 思わず左内は持っていた箸を落とした。  

「なに? では、松屋善兵衛が竹次郎の兄か?」

「店の者には知らぬ男だと言ったそうです。ところが、紙に包んで金を渡したそうで、けちな善兵衛が珍しいこともあるもんだと店の者も話をしていたそうです」

「うむむ、紙……。女中が見つけたという紙か?」

「おそらく……。まだ確かなことではありませんが、少し善兵衛に話しを訊いてみたい」

「わかった、なんとかいたそう」

 左内は大きく首肯した。思い出したように、屈みこんで落とした箸を拾った。

「箸を落としてしまった。すまぬが、取り替えてくれぬか」

 釼一郎はにんまりとしながら、箸を受け取った。

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