第7話
歳は四十一。
元々、虎吉一家は上州を拠点としていた
そこへ三十前の虎吉が流れ着いてから、組は様変わりした。武術、剣術の心得と、度胸、人を使う才覚だけでなく、機を見るに敏であった虎吉は、たちまちに頭角を現した。
二年も経たぬうちに周囲の組を傘下に収め、上州でも名の知れた勢力へと成長した。
豊吉が急死したのちに、虎吉が名実共に組を支配した。豊吉の死を怪しむ者も少なくなかったが、表立って疑念を口にする者はいなかった。
虎吉の野望はそれだけでは止まらず、江戸へも触手を伸ばし始めた。
江戸進出の拠点としたのは、
住職を置いてはいるが、虎吉一家以外に
三十畳の本堂には、虎吉一家の若い者が集まり、
そんな賭場の
対局するのは、
ぱちり、と僧侶が銀を置いた。虎吉が低く唸る。虎吉が僧侶を
板張りの廊下をドタドタと足音が近づいて来る。扉が開いて、
虎吉は将棋盤を睨んだまま、又三郎に声をかける。
「又三郎、お前ずいぶんと勝手にやってるそうじゃねぇか」
又三郎は悪びれた様子もなく答える。
「親分、そんなことはありませんぜ。あっしはちゃんと親分のために働いてますから。なあ?」
又三郎が言うと、後ろの若い衆が一斉にうなずいた。虎吉の声が柔らかい調子に変わる。
「俺はお前のことを買ってたんだ。機転は利くし、下からの信頼も厚い。なにより度胸が良い」
又三郎は照れ臭そうに首の後ろに手をやって二度撫でた。
虎吉が僧侶に目配せをすると、僧侶は駒が並べられたままの厚い将棋盤を両手で持って脇へ下がる。そして、もう一つの将棋盤を虎吉の前に置き、再び脇へ下がった。
虎吉は顎を上げて、又三郎を呼びつけた。
「こっちへ来い。一局どうだ?」
驚いた様子で、又三郎は顔の前で手を左右に振って拒否をする。
「いえ、あっしはヘボ将棋で、親分と指すような腕はありません」
「大丈夫だ。平十郎がお前の軍師につく」
僧侶をじろじろと見て、又三郎は
「この坊主がねえ……。親分は、大層この坊主をお気に入りのようだが……」
又三郎が振り返ると、若い衆はにやにやと笑い合っている。
面倒くさそうに舌打ちをしながら、駒を並べていく。角と飛車の位置に首を傾げたが、いたずらを思いついた子供のように、もう一つの将棋盤から飛車を取り、二つの飛車を自陣に並べた。
「親分、あっしはヘボなんで、少し手加減を願います。こんな形で一つ」
ずうずうしい申し出に、虎吉の表情がだんだんと緩み、高笑いに変わった。
「又三郎、お前らしいな。お前に頼まれたら、嫌とは言いにくい」
「へへっ」
又三郎は首の後ろを二度撫でた。
「だがなぁ、又三郎。決まりは、決まりだ」
急に虎吉の声に凄味が入り、又三郎を凝視する。又三郎は思わず視線を逸らした。
「定めた決まりは守るもんだと、そうお前には言い聞かせたはずだ。お前が勝手な真似をしやがるせいで、近ごろは
「ええ、すみません。気をつけます」
又三郎はか細い声になって、しおらしく俯いた。
いつの間にか僧侶が又三郎の背後に回り、首根っこを掴んで将棋盤に押さえつける。盤上に並べられた駒が、又三郎の頰にめり込んだ。
「なにしやがる!」
身体を起こそうとするが、又三郎は首を捩ることさえままならない。僧侶は涼しげな表情を崩さぬまま、又三郎の動きを封じている。
虎吉がもう一つの将棋盤に近寄り片手で持ち上げた。将棋の駒ががらがらと畳に散らばる。
「お前らが決まりを知らねえなら、俺の伝え方が悪いんだろう。……でもな、決まりを知ってて守らない。こりゃぁいけねぇ。お前が悪い」
「お、親分。あっしが悪かった。明日から、……いや、今日から、い、今から心を入れ替える」
泣き声で必死に助けを求める又三郎を見下ろして、虎吉は冷たく言い放った。
「これはお前一人の問題じゃねえ。若い衆たちもすっかりお前に染まってるじゃねえか」
虎吉が若い衆をじろりとひと睨みすると、若い衆たちは口を開けたままガタガタと震えて声を発することができない。
虎吉が将棋盤を振り上げた。
「た、助けてくれぇ!」
命乞いに
「平十郎、成仏させてやってくれ」
そう言って、虎吉は部屋を出て行った。僧侶はうなずき、手を合わせて又三郎に拝んだ。
「
「見れば分かるでしょう。サンマを焼いているんです」
左内はしかめ面で、煙を袖で払う。
「そのような
秋刀魚は今でこそ秋の味覚の代表格だが、江戸時代は鯛のような淡白な白身魚が好まれた。脂が多い魚は不人気であり、秋刀魚や
「これがね、大根おろしと一緒にやると旨いんですよ」
釼一郎は満面の笑みを浮かべながらこんがり焼けた秋刀魚一尾を皿に載せ、大根おろしを脇に添えて左内に差し出した。左内は顔を背けながら、釼一郎に問いかける。
「遠慮しておく。それより、用とはなんだ? まさかサンマを食わすために呼んだわけでもあるまい」
「サンマも用の一つですよ。まあ騙されたと思って食べて
釼一郎は秋刀魚の背中を箸で割って身をほぐすと、大根おろしをひとつまみして、左内の口元に近付けた。
「わかったわかった。食してみるから」
と、釼一郎から皿と箸を受け取って口へ運んだ。釼一郎はじっと左内が
「うむ、まあ食えぬことはないな」
そう言いながら左内は箸で秋刀魚をほぐし始める。釼一郎はにやにやしながら言った。
「気に入っていただけたようで何より。そうそう、もう一つの用というのがあるのです。
「なぜ、松善なのだ?」
左内は箸を置かずに訊ねる。
「竹次郎は、店の中で蝋燭を弄り回していたそうです。土左衛門になった竹次郎の爪先に残っていた蝋燭は、その時のものでしょう」
「なるほど」
左内は納得した。釼一郎は言葉を続ける。
「竹次郎は善兵衛の弟だと名乗ったそうです」
思わず左内は持っていた箸を落とした。
「なに? では、松屋善兵衛が竹次郎の兄か?」
「店の者には知らぬ男だと言ったそうです。ところが、紙に包んで金を渡したそうで、
「うむむ、紙……。女中が見つけたという紙か?」
「おそらく……。まだ確かなことではありませんが、少し善兵衛に話しを訊いてみたい」
「わかった、なんとかいたそう」
左内は大きく首肯した。思い出したように、屈みこんで落とした箸を拾った。
「箸を落としてしまった。すまぬが、取り替えてくれぬか」
釼一郎はにんまりとしながら、箸を受け取った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます