第4話

 明五郎は土壇どだんに据えられた死体を前に、焦りを感じていた。明五郎は呼吸を整えようと息を吸った。ところが、どうしても丹田たんでんに溜めることができずに、浅い呼吸を繰り返してしまう。

 周囲には朝右衛門とその弟子がずらりと並び、明五郎の試し斬りを見守っている。

 山田家で行われる刀剣の試し斬りは、罪人の死体を使う。そのために、朝右衛門は千住せんじゅにある小塚原刑場こづかはらけいじょうに、藁葺わらぶき屋根の小屋、据物すえもの稽古場所を用意したのである。

 死体のどの部位をどういう形で切断できたかによって、刀剣の切れ味が評価される。

 記録では、七体重ねた死体を切った七ツ胴の兼房かねふさがあったという。

 今回は堀川國弘ほりかわ くにひろの銘がある二尺五寸五分の太刀。棒樋ぼうひがあり、不動明王ふどうみょうおうが掘られている。弟子の作かもしれないが、國弘本人の作といえるほど遜色そんしょくない出来で、持ち主から切れ味を確かめたいと依頼があった。

 銘刀での初めての据物斬りに、明五郎はますます力が入っていく。

 だが、呼吸が整わないからといって、いつまでも時を稼ぐわけにはいかない。

 意を決すると、両拳りょうこぶしをピタリとつけ、太刀の柄を強く握った。大きく太刀を振りかぶると、肘の間を開く。足の間を一尺五寸に開き、深く息を吸い込み腹を張った。

 切り込む先の死体に目当てを定めた時、明五郎は妙な感覚に陥った。昨日までは人であったそれが、刀の試し斬りの据え物として存在している。

 首斬りとして朝右衛門に弟子入りして以来、罪人を斬る、命を奪うことは、何度も繰り返してきた。

 罪人に同情し、時には涙しながらり行ったこともある。いまだに慣れているわけではないが、なさねばならぬことであり、せめて苦しまずにあの世に送ってやろうと日々鍛錬を積んでいる。

 不思議なことなのだが、明五郎にとって死体に刀を入れることの方が、命を奪うことよりもむべきことのように思えた。

 急に明五郎の目の前が霞がかったように白くなった。刀を振り下ろせば手が届くはずの死体が遥か遠くにあるように感じる。

 寒風が明五郎の頰をさっと撫でていった。

 明五郎は我に返ると、空に視線を移した。鼠色ねずみいろの雲が重く頭上を覆っている。

 柄を持つてのひらにぐっと力を入れる。まさに太刀が動きだそうとする時であった。

「待て!」

 朝右衛門の鋭い声が響いた。明五郎は硬直して、息を飲み込む。

 立ち上がった、朝右衛門は明五郎を厳しく戒めた。

「お主には迷いがある。それでは、太刀の力を引き出すことはできぬ」

 朝右衛門は傍らに控えていた弟子の権之助ごんのすけに視線をやった。権之助は無言でうなずき、明五郎の方へ歩んで行く。

 呆然ぼうぜんとしながらも、明五郎は権之助と代わった。

 権之助はやすやすと呼吸を整え、上体を反らしながら、太刀を大きく構えた。ゆっくり半眼を開き、細く長く息を吐く。そして、再び息を深く吸い込むと、丹田に息を溜め、太刀を一気に振り下ろした。

 切っ先が大きく弧を描く。それは一筋の光となり、死体に吸い込まれていく。

 太刀は死体を真っ二つに切断し、土壇まで到達した。

 周囲の弟子から感嘆の声が漏れる。明五郎は自分の不甲斐ふがいなさを恥じ、唇を強く噛んだ。


 次の日の昼過ぎ、釼一郎は元気のない明五郎を連れ、舟松町から舟に乗って石川島の人足寄場にやって来た。

 石川島は隅田川の河口に浮かぶ、佃島の北にある島である。石川氏の先祖が怪力の持ち主で、誰も持ち上げることが出来なかった異国の鎧を片手で持ち上げたことから、この島を拝領したそうである。

 数日の寒さも和らぎ、穏やかな潮風が心地良い。青雲が映る海の上には、多くの舟を浮かべている。旬の白魚しらうお漁であろう。

「どうです? 気晴しには良いでしょう?」

 石川島に向かう舟の中で、釼一郎は明五郎に話しかけた。下を向いたまま明五郎は、釼一郎に応える。

「……なぜ拙者せっしゃはいつもこうなのでしょう。つまらないことでつまずいてしまう……」

 そう言って、明五郎は頭を抱えた。釼一郎は明五郎の肩に手を置いた。

「生きてるうちには誰だってつまずくもんですよ」

「そうでしょうか?」

 明五郎の言葉には生気がない。

「そうですよ。まあ、明五郎さんの気質だ。くよくよするな、気にするなと言っても無理でしょうよ」

「……はい」

「つまずいたり、転んだりしても気にしないで上を向いて歩く人もいれば、つまずく前から下を向いて歩く人もいる。そんなにつまずくことが嫌なら、杖をついて歩けばいいじゃないですかね」

「……杖?」

 明五郎はゆっくり顔を上げると、釼一郎は微笑みをたたえた。

「転ばぬ先の杖と言うじゃないですか。備えあれば憂いなし。出来る限りの備えをしておく。その方が明五郎さんには向いてそうだ」

「なるほど……。釼一郎さんはどうしているのですか?」

「儂? そうだねえ、儂は転ばないように歩くことは、無理だと諦めているのかもしれませんね」

 明五郎は釼一郎の言葉をじっと待った。

「儂は、転ばないように備えるのでなく、転んだ時にはどう起きるかに重きを置いて生きている。すぐに立ち上がるように受け身を取るのか、拾える物がないか探すとか。ほら、転んでもただでは起きない、と言うじゃないですか」

「……なんとなく言わんとすることはわかります」

 明五郎は感心したようにうなずいた。

「お、久しぶりに儂の言うことを素直に聞きましたね」

 釼一郎がにやりとすると、明五郎はクスッと笑った。

「釼一郎さんの言葉でも、万に一つは役に立つことがありますからね」

 からからと釼一郎が笑う。

「言いますねぇ。そうそう、もう据物斬りで一つ役に立つことを教えてあげましょう」

「なんです? それは?」

 明五郎が勢いよく釼一郎にすり寄って膝詰めしたので、舟が揺れ水しぶきが上がる。

「お客さん! 舟の中では大人しくしといてくださいよ!」

 船頭が声をかけてくると、明五郎は恥ずかしそうにすまぬ、と謝った。

「昨日のことでも、親父様は明五郎さんに愛想をつかしているわけではないんですよ。むしろ高く買っている」

「え? そうなのですか?」

 明五郎は釼一郎の意外な言葉に驚いた。

「そうですよ。据物斬りと言っても元は人の身体。物のように粗末に扱うより、明五郎さんのように迷う心があって然るべきだと、親父様も言ってました」

「……迷う心」

「昔ね、筋の良い兄弟子の中で、山田家の養子になった人がいたんです。ああ、そうそう。権之助の兄、実の兄です」

「権之助殿の兄上……」

 明五郎は据物斬りでの、権之助の見事な太刀筋を思い出した。剣の腕は明五郎の方が上かもしれないが、据物斬りでは権之助の方が数段上である。権之助の兄ならば、腕も相当良かったのであろう。

「親父様も大変に可愛がっていたのですが、据物斬りに立ち会った際、煙管きせるを咥えて見物してしまった。親父様は大変に怒り、離縁したそうです」

「離縁ですか……」

「親父様は亡骸なきがらを軽んじる心が許せなかったんでしょう。小原塚の稽古場所も、粗末に扱われている死体を大切に扱うように親父様が長谷川様へ願い出たのです」

「……そうだったんですか」

 明五郎は深くうなずいた。

「首斬りだってそうだ。罪人だから、悪人だからと、粗末そまつに首を刎ねていい訳じゃないでしょう」

「……はい」

 明五郎は小さく首肯した。

「ひょっとしたら、後の世では評判の上がる人物もいるのかもしれない。親父様が句をやるのも伊達だて粋狂すいきょうじゃない。たとえ罪人であっても、敬いの心を忘れないためなのでしょう」

 三代目浅右衛門吉継よしつぐが俳句を学んだのも、最後を迎える罪人が詠む辞世の句を解するためだったと言われている。教養のある罪人の面目を傷つけることは恥ずべきであるという思い。死出の旅へと送る彼らなりの供養くようなのかもしれない。

「明五郎さんも決して今の心持ちを忘れないでくださいよ」

「肝に命じます」 

 明五郎は力強くうなずいた。突然、釼一郎が声を上げて指差した。

「ほら、明五郎さん、富士のお山!」

 明五郎が振り返って西を眺めれば、遥か遠くに富士の山が顔をのぞかせている。

「これは見事ですね」

 明五郎も感嘆の声を上げた。釼一郎は船頭に声をかける。

「船頭さん、水の上から見る富士は格別ですね」

「へ、へぇ」

 首斬りの話を聞いたからなのだろう。先ほどまで威勢の良かった船頭の顔からは、血の気が失せていた。

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