第2話

 目を閉じた竹次郎が、仰向けで寝ている。

 いや、寝ているのではない、死んでいた。

 善兵衛は地面に置かれた提灯ちょうちんをかざして、もう一度辺りを見回した。

 そして、犬の遠吠とおぼえしか聞こえないのを確認すると、しゃがみ込んで竹次郎のふところを念入りに調べ始めた。

 紙入れを取り出し、中を改める。

 ——ない…。

 袂、懐、帯、一通り探してみるが、首を傾げて溜息ためいきいた。

 ——捨てたか、落としたか…。

 紙入れを元に戻そうとして手を止めた。考え直し、紙入れから金を抜き取ると、紙入れを川へと投げ捨てた。

 善兵衛は竹次郎のまぶたに手を置くと、そっと撫でて目を閉じさせる。

 再び辺りを見回した後、竹次郎の死体を水辺まで引きずって、そのまま川へ突き落とした。

 死体は水音をたてると、ぷかりと浮いてゆらりゆらりと流されて行く。

 善兵衛は少し提灯を上げ、死体が流れて行くのを見届けて静かにその場を後にした。


「あー寒い寒い」

 釼一郎けんいちろうかわやで用を足しながら呟いた。

 昨晩の木枯らしから一気に冷え込み、まだ薄暗いうちに目が覚めてしまった。

 寒風にさらされたせいか、元々の猿顔が赤ら顔になって、ますます猿に似ている。

 手水ちょうずで手と顔を洗って庭へ回ると、

「早いな、釼一郎」

 と、声を掛けてきたのは梅幸茶ばいこうちゃつむぎ姿の山田朝右衛門やまだあさえもん吉睦よしむつである。

 初代から四代目までは浅右衛門あさえもんを名乗っていたが、五代目の吉睦から朝右衛門を名乗っている。

 風流人であり、俳号は凌宵堂寛洲しゅんしょうどうかんしゅう

 山田家は代々、御様御用おためしごようと呼ばれる刀の試し斬りを生業なりわいとしており、時には大名からも依頼されるほどである。

 斬首ざんしゅの執行人としての役目も負うようなったが、罪人の死体から作り出した秘伝ひでんの薬を販売し、大変に裕福であった。

「親父様こそ」

 親父と呼ぶが二人は血が繋がっていない。

 小谷釼一郎こたにけんいちろうは十二の頃から山田家に弟子入りし、門人として暮らしていた。いわゆる師匠と弟子関係であるが、釼一郎は親しみを込めて親父様と呼んでいる。

「ふふっ、年のせいか朝が早くなってな」

 と、言う朝右衛門は四十一の初老だが、活力がみなぎり衰えを感じさせない。

 剣の稽古をしても、二十九の釼一郎と互角か、それ以上の腕前であった。

「どうだ? とうそうに効く新しい薬はできそうか?」

 朝右衛門が釼一郎に訊ねる。

 釼一郎は三日前から平河ひらかわ町にある山田朝右衛門の屋敷に泊まり込んで、夜通しで薬の調合をしていた。

 痘そう、天然痘てんねんとうは江戸時代には不治ふじの病であった。朝右衛門は痘そうがこれから流行はやると見ており、新たな薬を作り出そうとしていた。

 釼一郎は剣の腕を認められ、一時は養子として山田家を継ぐ話も出ていたが、二十二の時に医者を志して長崎で学んだ。

 結局、医者にはならなかったが、長崎帰りの蘭学らんがくの知識を頼りにされ、山田家に出入りしている。

「何か牛を使うようですがね……」

「牛の肝か?」

 朝右衛門の目が輝いた。

 漢方かんぽう生薬しょうやくに動物の内臓を使うことは珍しくない。熊の胆や、混元こんげんなどは効き目があるとされて、古くから重宝ちょうほうされていた。

 山田家では人肝丸じんたんがんと呼ぶ、人の肝臓を材料に労咳ろうがいの薬を販売している。労咳に対してどれほどの効き目があるかはわからないが、当時の医術では不治の病に効く薬などあろうはずはなかった。

 ゆっくりと釼一郎は頭を振った。

「肝ではないようです。まだはっきりとはわかりません」

「そうか、あまりこんを詰めてもいかん。少し休むと良い」

「はい、そうします」

 返事にうなずきながら、朝右衛門は思い出したように言った。

「そうだ、面白い本を手に入れてな」

「なんです? それは」

西洋紀聞せいようきぶんだ。南蛮なんばん人やエウロパの詳しいことが書かれているぞ」

 西洋紀聞は新井白石あらいはくせき公が、宣教師せんきょうしシドッチに聞き取りをした情報が記述されている。

 貿易をする国を阿蘭陀おらんだに制限した、いわゆる鎖国さこくの江戸時代においては、世界の様子を知る貴重な本であり、この頃広く読まれるようになっていた。

「本当ですか? それは読みたいですね」

「貸してやるから後で来なさい」

 そう言って、朝右衛門はその場を立ち去った。

 すると、四つ目垣の向こうに人影が見えた。そっと木戸を開け、こそこそと入って来る。

 目を凝らして見た釼一郎は、にやりとした。辺りを見回す男は本木明五郎もときあきごろうである。

「昨日はお楽しみだったようで」

 釼一郎が声をかける。明五郎は驚いた表情を見せたが、照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。

「はは、気付かれてしまいましたか」

「仕事の後ですからね。女も抱きたくなるでしょうよ」

「やはり血にのぼせる、と言いますか……」

 本木明五郎は古河こが生まれの浪人であったが、困っていたところを釼一郎に助けられたことから、すっかり仲がよくなっている。

 朝右衛門に腕と真面目な性格を買われ、山田家の首切り役人の仕事を手伝っていた。

 しかし、いくら咎人とがにんとはいえ直接恨みもない人を斬るのは楽でない。

 山田家の面々も同じようで、仕事の後は朝まで飲めや歌えの宴をもよおす。近所からは恨みを抱いて死んでいった者の幽霊ゆうれい除けに騒いでいると噂されていた。

 明五郎は騒ぎを抜け出し、駕籠かごを使って品川の遊郭ゆうかくへと向かったのを釼一郎は知っていた。

「おそめでしたかね? 明五郎さんのお気に入りは」

「はあ……」

「最近熱が上がり過ぎじゃないですか。ほどほどにしないと、ろくなことになりませんよ」

「まあ……」

 首に手を当てて左右に傾げながら、明五郎は何ともはっきりしない態度を続けている。

「この前の紋日もんぴには、大層な金を用立てたこと、ちゃんと耳に入ってますよ」

 紋日というのは、季節の節目に遊郭で定められた日で、遊女が身銭みぜにを切って盛大に祝う日である。身銭といっても、多くは客が貢いだ金であることは言うまでもない。

 さらに移り替えという、あわせと、単衣ひとえが替る春秋の衣替えの時期は遊女も必死になる。いつまでも移り替えが出来ないと、客のつかない女、人気のない女と周囲に知らせることになるからである。

年季ねんきが明けたら、一緒になろうと約束をしておりまして……」

 釼一郎は苦々しい顔をしながら、

「よしなさい。傾城けいせいまことなし。遊女は誰にでもそう言ってるんですよ」

「そうでしょうか……」

 明五郎も薄々感じているようだが、信じたいという気持ちが捨てられないらしい。

 たまねたように、釼一郎が言葉を続ける。

「黙っちゃいられませんね。あのお染はね、心中しんじゅうをしたんですよ」

「え? 心中?」

 口を開けたまま、明五郎は何度も目をまたたかせた。

 江戸の頃は、好き合った男女が一緒になることは容易ではなかった。結ばれない男女が、来世で一緒になろうと連れ合って死ぬ心中は美しい死にざまとされていたのである。

 元禄げんろく時代には、近松門左衛門ちかまつもんざえもん曽根崎心中そねざきしんじゅうなどの心中物が大当りし、大いに流行った。

 手を焼いた幕府ばくふは心中物を禁じ、心中を試みる者には重い罰を与えた。それでも心中に憧れる者は少なくなかった。

 釼一郎は溜息を吐いた。

「心中と言っても、相手の男を桟橋さんばしから突き落としただけで、自分は死のうともしちゃいない」

「本当ですか? それは?」

「そうだよ。それで意趣返しに男がお染の髪を剃って尼さんにしたとかで、大騒ぎだったんですから」

「……」

 明五郎は絶句して、顔を引きつらせている。

 見兼ねた釼一郎は明五郎の肩を叩いてなぐさめた。

「まあ、落ち込んでないで朝風呂へ行きましょう」

「はひ……」

 すっかり意気消沈いきしょうちんした明五郎は弱々しく返事をした。


 ほこりっぽい土地柄のせいか、江戸ッ子はとにかく風呂が好きである。

 だが、火の不始末があれば死罪にもなり、燃料となる木材も高い。そうなると庶民の家には内風呂はほとんどなく、湯屋ゆや繁盛はんじょうすることになる。

 江戸時代の風呂の多くは混浴こんよくである。風紀が乱れるということで寛政かんせい三年に禁止されたが、有耶無耶うやむやになって混浴に戻すところも多かった。

 風呂場はむんとした熱に包まれ、真っ白な湯気がもうもうと立ち込めている。朝風呂を楽しむ年寄りと、昨晩の女遊びを自慢げに語る男達で賑わっていた。

 お染に相当入れ上げていたのであろう。明五郎は生気なく湯煙ゆえんを見つめる。

 釼一郎も二十ぐらいの頃には、遊女に散々煮湯にえゆまされたので気持ちも分かる。

 ただ、明五郎も二十七になる男である。同情をしてあげたいが内心呆れる気持ちの方も強い。

 ——こりゃ当分使い物にならないね。

 釼一郎が呟いたのを聞いたか聞かずか、明五郎の目は空中を彷徨さまよい、魂が抜けたようにぼんやりと釼一郎を眺める。

「明五郎さん、のぼせないでくださいよ」

 心ここにあらずといった様子の明五郎は、釼一郎の声に二度うなずくとふらふらと湯から上がって行った。

 入れ違いに入ってきたのは、蕎介きょうすけである。

 元々は、岡っ引きをしながら内藤新宿ないとうしんじゅく仕切しき剛三ごうぞう親分の下で働いていた。人情味がある性格で、岡っ引きをしながら山田家の雑事も手伝っている。

 頭を鯔背いなせ銀杏いちょうに結い上げた神田産まれの江戸っ子だが、気っきっぷの良さは怪しいものである。

 蕎介の挨拶にも明五郎は生返事なまへんじで通り過ぎて行く。蕎介は首を傾げて見送ると、三度掛け湯をして湯舟ゆぶねに入って来る。

「どうしたんですか? ありゃあ?」

 やれやれといった様子で、釼一郎が大きく溜息を吐いて答える。

「女だよ。女。品川の女にコロッといってね」

 嬉しさでニヤつくのをごまかすように、蕎介は顔をバシャッと洗った。

「蕎介さんね。顔からニヤつきが消えてませんよ」

 釼一郎が呆れるが、蕎介は意に介さない。

「へへ。だって面白いじゃありませんか。あの堅物が」

「普通の女ならねえ。あのお染はなかなかに食えない女ですからね」

「ああ、お染って心中の? こりゃいいや!」

 今度は隠そうともせずに蕎介は大声で笑う。隣の男が迷惑そうに横目で見ている。

 周囲の空気を読んだ釼一郎は話を変えた。

「それより、蕎介さんがここの風呂に来るなんて珍しいね」

「ああ! そうそう。用があって釼一郎さんを呼びに来たんですよ。屋敷行ったら湯へ行ったってましたんで」

「お? 何か面白いことがありましたか?」

 釼一郎が身を乗り出した。

 とにかく事件に首を突っ込みたくなる性分しょうぶんなのである。薬の調合が進まない今、とにかく頭を切り替えたいのかもしれない。

「面白いかどうかは知りませんが、左内さないさんが釼一郎さんを捜してましてね。今朝上がった土左衛門どざえもんのことで」

 湯をすくい上げ、肩にかけながら釼一郎は首を傾げる。

「土左衛門? 土左衛門なんざ珍しくもないでしょう?」

 江戸は張り巡らされた水路、運河うんがの町である。

 水に落ちて死ぬ者も少なくなかったようで、将軍の舟遊びの最中に土左衛門が流れ着き、猫の死骸とごまかそうとした逸話いつわも残っている。

「それがね。首に絞められた痕があるそうで。物盗りのようですが、どうも左内さんが腑に落ちないところがあるってんですよ」

「……殺しか」

 釼一郎は頭の上に置いた手拭いを取り顔の汗を拭った。


 

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