第2話
目を閉じた竹次郎が、仰向けで寝ている。
いや、寝ているのではない、死んでいた。
善兵衛は地面に置かれた
そして、犬の
紙入れを取り出し、中を改める。
——ない…。
袂、懐、帯、一通り探してみるが、首を傾げて
——捨てたか、落としたか…。
紙入れを元に戻そうとして手を止めた。考え直し、紙入れから金を抜き取ると、紙入れを川へと投げ捨てた。
善兵衛は竹次郎の
再び辺りを見回した後、竹次郎の死体を水辺まで引きずって、そのまま川へ突き落とした。
死体は水音をたてると、ぷかりと浮いてゆらりゆらりと流されて行く。
善兵衛は少し提灯を上げ、死体が流れて行くのを見届けて静かにその場を後にした。
「あー寒い寒い」
昨晩の木枯らしから一気に冷え込み、まだ薄暗いうちに目が覚めてしまった。
寒風に
「早いな、釼一郎」
と、声を掛けてきたのは
初代から四代目までは
風流人であり、俳号は
山田家は代々、
「親父様こそ」
親父と呼ぶが二人は血が繋がっていない。
「ふふっ、年のせいか朝が早くなってな」
と、言う朝右衛門は四十一の初老だが、活力が
剣の稽古をしても、二十九の釼一郎と互角か、それ以上の腕前であった。
「どうだ?
朝右衛門が釼一郎に訊ねる。
釼一郎は三日前から
痘そう、
釼一郎は剣の腕を認められ、一時は養子として山田家を継ぐ話も出ていたが、二十二の時に医者を志して長崎で学んだ。
結局、医者にはならなかったが、長崎帰りの
「何か牛を使うようですがね……」
「牛の肝か?」
朝右衛門の目が輝いた。
山田家では
ゆっくりと釼一郎は頭を振った。
「肝ではないようです。まだはっきりとはわかりません」
「そうか、あまり
「はい、そうします」
返事にうなずきながら、朝右衛門は思い出したように言った。
「そうだ、面白い本を手に入れてな」
「なんです? それは」
「
西洋紀聞は
貿易をする国を
「本当ですか? それは読みたいですね」
「貸してやるから後で来なさい」
そう言って、朝右衛門はその場を立ち去った。
すると、四つ目垣の向こうに人影が見えた。そっと木戸を開け、こそこそと入って来る。
目を凝らして見た釼一郎は、にやりとした。辺りを見回す男は
「昨日はお楽しみだったようで」
釼一郎が声をかける。明五郎は驚いた表情を見せたが、照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
「はは、気付かれてしまいましたか」
「仕事の後ですからね。女も抱きたくなるでしょうよ」
「やはり血にのぼせる、と言いますか……」
本木明五郎は
朝右衛門に腕と真面目な性格を買われ、山田家の首切り役人の仕事を手伝っていた。
しかし、いくら
山田家の面々も同じようで、仕事の後は朝まで飲めや歌えの宴を
明五郎は騒ぎを抜け出し、
「お
「はあ……」
「最近熱が上がり過ぎじゃないですか。ほどほどにしないと、ろくなことになりませんよ」
「まあ……」
首に手を当てて左右に傾げながら、明五郎は何ともはっきりしない態度を続けている。
「この前の
紋日というのは、季節の節目に遊郭で定められた日で、遊女が
さらに移り替えという、
「
釼一郎は苦々しい顔をしながら、
「よしなさい。
「そうでしょうか……」
明五郎も薄々感じているようだが、信じたいという気持ちが捨てられないらしい。
「黙っちゃいられませんね。あのお染はね、
「え? 心中?」
口を開けたまま、明五郎は何度も目を
江戸の頃は、好き合った男女が一緒になることは容易ではなかった。結ばれない男女が、来世で一緒になろうと連れ合って死ぬ心中は美しい死に
手を焼いた
釼一郎は溜息を吐いた。
「心中と言っても、相手の男を
「本当ですか? それは?」
「そうだよ。それで意趣返しに男がお染の髪を剃って尼さんにしたとかで、大騒ぎだったんですから」
「……」
明五郎は絶句して、顔を引きつらせている。
見兼ねた釼一郎は明五郎の肩を叩いて
「まあ、落ち込んでないで朝風呂へ行きましょう」
「はひ……」
すっかり
だが、火の不始末があれば死罪にもなり、燃料となる木材も高い。そうなると庶民の家には内風呂はほとんどなく、
江戸時代の風呂の多くは
風呂場はむんとした熱に包まれ、真っ白な湯気がもうもうと立ち込めている。朝風呂を楽しむ年寄りと、昨晩の女遊びを自慢げに語る男達で賑わっていた。
お染に相当入れ上げていたのであろう。明五郎は生気なく
釼一郎も二十ぐらいの頃には、遊女に
ただ、明五郎も二十七になる男である。同情をしてあげたいが内心呆れる気持ちの方も強い。
——こりゃ当分使い物にならないね。
釼一郎が呟いたのを聞いたか聞かずか、明五郎の目は空中を
「明五郎さん、のぼせないでくださいよ」
心ここにあらずといった様子の明五郎は、釼一郎の声に二度うなずくとふらふらと湯から上がって行った。
入れ違いに入ってきたのは、
元々は、岡っ引きをしながら
頭を
蕎介の挨拶にも明五郎は
「どうしたんですか? ありゃあ?」
やれやれといった様子で、釼一郎が大きく溜息を吐いて答える。
「女だよ。女。品川の女にコロッといってね」
嬉しさでニヤつくのをごまかすように、蕎介は顔をバシャッと洗った。
「蕎介さんね。顔からニヤつきが消えてませんよ」
釼一郎が呆れるが、蕎介は意に介さない。
「へへ。だって面白いじゃありませんか。あの堅物が」
「普通の女ならねえ。あのお染はなかなかに食えない女ですからね」
「ああ、お染って心中の? こりゃいいや!」
今度は隠そうともせずに蕎介は大声で笑う。隣の男が迷惑そうに横目で見ている。
周囲の空気を読んだ釼一郎は話を変えた。
「それより、蕎介さんがここの風呂に来るなんて珍しいね」
「ああ! そうそう。用があって釼一郎さんを呼びに来たんですよ。屋敷行ったら湯へ行ったってましたんで」
「お? 何か面白いことがありましたか?」
釼一郎が身を乗り出した。
とにかく事件に首を突っ込みたくなる
「面白いかどうかは知りませんが、
湯をすくい上げ、肩にかけながら釼一郎は首を傾げる。
「土左衛門? 土左衛門なんざ珍しくもないでしょう?」
江戸は張り巡らされた水路、
水に落ちて死ぬ者も少なくなかったようで、将軍の舟遊びの最中に土左衛門が流れ着き、猫の死骸とごまかそうとした
「それがね。首に絞められた痕があるそうで。物盗りのようですが、どうも左内さんが腑に落ちないところがあるってんですよ」
「……殺しか」
釼一郎は頭の上に置いた手拭いを取り顔の汗を拭った。
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