さだめの唄 -つわものたちは江戸の夢- 第三部

和田 蘇芳

第1話


「旦那様、何やら旦那様の弟だ、とおっしゃる方がおいでになってるのですが……」

 松屋善兵衛まつやぜんべえ大福帳だいふくちょうに視線を落としたまま、算盤そろばんを弾きながら手代てだいの佐吉に答えた。

「佐吉や、何度言ったら分かるんだ。あたしが算盤を弾いている最中は、決して話し掛けるんじゃあない。少し待ちなさい」

 二人の沈黙を遮るように、算盤を弾く音だけが軽快に響いている。

 音が止むと善兵衛は顔を上げた。黒髪が交じる白髪頭を小銀杏髷こいちょうまげで結上げており、三白眼さんぱくがんの鋭い目でぎょろりと佐吉を見据える。

 薄くへの字に曲がった青い唇を開くと、低く冷たい声で問いかけた。

「で、なんだって?」

 すっかり身を固くした佐吉は、恐る恐る口を開く。

「あ、だ、旦那様の弟という人が、おいでになっております」

「弟? あたしには身寄りがないことはお前も知ってるだろう? 帰って貰いなさい」

 松屋善兵衛は、松善を一代で江戸でも有数の蝋燭問屋にした商才溢れる人物である。香りを付けて売り出した蝋燭が大当たりし、色街の花魁おいらんに飛ぶように売れた。

 それだけに親類縁者を名乗る怪しい者がやって来ることも珍しくない。

 立冬りっとうの寒さにもかかわらず、噴き出した額の汗を手で拭いながら佐吉は言葉を続ける。

「それが………。わたしもそう言ったんでございますが、そんなはずはない。竹次郎が来たと伝えろと」

 途端とたんに、善兵衛の表情がけわしくなった。

「竹次郎………」

 善兵衛は呟くと、立ち上がって暖簾のれんの隙間からそっと店頭を覗いた。

 真っ黒に日焼けし薄汚れた男が、並べられた蝋燭を手に取っている。男は蝋燭の匂いを嗅いだり、爪で引っ掻いたりと好き勝手を繰り返していた。

「どうでしょう? ご存知の方でしょうか?」

 善兵衛は冷やかな目で男を睨んだまま、

「いや、知らぬ男だな。いつものたかりのたぐいであろう」

 と、呟いた。

「だが、ああいう男にいつまでも店に居座られると厄介やっかいだ。ちょっと待ちなさい」

 善兵衛はそう言って、大福帳の前に座ると、紙を取りすらすらと筆を走らせる。書き終わると、懐から紙入かみいれを取り出し、小判を三枚包んで佐吉に持たせた。

「これを渡して帰って貰いなさい」

 佐吉は包まれた三両を両手で受け取ると店に戻って、男の側に近寄り包みを渡した。

 男は包みを開いて紙を読むと、小判と紙を懐に入れて店を出て行った。

「旦那様、お帰りになりました」

 善兵衛は大福帳に視線を落としたまま、無言で頷いた。


 それからしばらくして、善兵衛は両国の豊川屋とよかわや駕籠かごで乗り付けた。

 豊川屋は山くじらを食わせる店である。江戸時代、獣肉は禁忌きんきとされていたが、いくつかの店では、鹿や猪の肉を山くじらとして提供し人気を集めていた。浮世絵師、歌川広重うたがわひろしげの名所江戸百景のびくにはし雪中では、付近の山くじらの看板が大きく描かれている。

 猪と葱を八丁味噌はっちょうみそで煮込んだ鍋は、旨味が味噌に溶け出している。食してみると、八丁味噌の色濃さから受ける印象よりもあっさりしていて箸が止まらない。江戸っ子を虜にしたのも納得できる。

 奥に通されると、男が上機嫌で鉄鍋で煮込まれた肉をつついている。

 善兵衛が男に声をかけた。

身綺麗みぎれいになったじゃあないか」

 善兵衛に気付いて男が破顔はがんした。

「貰った金で着物を買って、湯でさっぱりして来たよ。……松兄さん。しばらくぶりだな」

 強張った善兵衛の口角こうかくが上がる。

「竹次郎、あたしのことがよく分かったね」

「おれもびっくりしたよ、まさか兄さんが江戸一番の……」

「竹次郎、ちょっと……」

 と、善兵衛は言いかけた竹次郎の言葉を遮り、懐から一朱金いっしゅきんを取り出して女中に渡した。

「二人っきりで話しをしますから、呼ぶまで来なくていいからね」

 女中は、あい、とうなずいて部屋を出て行った。

 善兵衛はその姿を見届けると、竹次郎に向き直って口を開いた。

「もう十年近くにはなるかね……。別れた時は、あたしは二十五、竹は十五だったか……」

「そうそう。おれはまだまだ世の中のことを何にも知らないガキで……。だから、あんなことになっちまって……。兄さんには、きちんと謝ろうとは思ってたんだ。本当にすまねぇ」

 善兵衛は顔をほころばせた。

 徳利とっくりを持つと、竹次郎の盃に酒を注ぐ。盃を受ける腕から二本の入墨いれずみがちらりと覗いた。

「昔のことだ。そんなことは良いんだよ。お互いすっかりお国の言葉も忘れちまったぐらいだ」

「ちげえねぇ」

 盃の酒を飲み干すと、竹次郎は善兵衛に盃を手渡して酒を注いだ。

 一口酒を飲むと、善兵衛は盃を置いて語りだす。

「あたしも随分ずいぶんとお前を探したんだ。でも、なかなか手掛かりもなく……。商売の都合で、松太郎から善兵衛に名前を変えてから、店の方が上手くいって朝晩なく働いているうちに時が経ってしまった」

 善兵衛はもう一つの盃を手に取り、竹次郎に渡して酒を注ぐ。

「なんだか、おればかり飲んじまってるな」

「気にすることはない。あたしは、酒は舐める程度だからね。好きにやっとくれ」

「じゃあ、遠慮なく」

 そう言って、竹次郎は盃を飲み干す。その盃を善兵衛は再び酒で満たした。

「この山くじらってのは、旨いもんだね」

「おまえは肉が好きだったことを思い出してね」

「よく覚えてくれていたなあ。江戸へ来て肉なぞ食ったのは初めてだ」

 善兵衛も上機嫌になって、盃を手に取り、薄い唇につけてちびりと飲んだ。

「竹、お前はどうしてたんだ」

「江戸に出れば、兄さんも見つかると思ってやって来たものの、金の使い方もろくにわからねえ。すっかり一文無しになっちまって、拾ってもらった人足場で長いこと働いたよ……」

 言葉を詰まらせた竹次郎は、唾を飲み込んだ。

「それが先月のことだ。たまたま松善の前を通ったら、兄さんの姿があるじゃねえか。どんなに時が経っても、身形みなりが変わっても、たった一人の兄さんだ。忘れるわけがねぇ」

 声を震わせながら、竹次郎はうつむき加減で涙をこらえる。

 善兵衛は神妙な面持ちになって、目頭めがしらを押さえた。

「そうか。苦労を掛けたな」

 竹次郎は首を振った。

「いやいや、元はと言えばおれが蒔いた種だ。過ぎたことは良いんだ」

 竹次郎は居住まいを正した。

「……で、これからの相談なんだが、おれを兄さんの奉公人として雇ってくれないか。いや、なにも番頭にしてくれって言ってるわけじゃないんだ。商売のいろはを教えてもらいてぇ。兄さんの言うことは何でもする。弟ととは思わなくていい」

 善兵衛の口角が上がった。

「竹、なにを言ってるんだ。願ってもないことだよ。他にはない兄弟じゃないか、あたしの右腕として働いておくれ」

「ほ、本当かい」

 二人はしっかりと手を取り合って、涙を流した。


 女中に見送られながら、善兵衛と竹次郎は豊川屋の暖簾のれんをくぐって表へ出た。

 時刻は暮れ四つをわずかに過ぎた頃だが、空は厚い雲が覆っており星も見えない。

 竹次郎は上機嫌で千鳥足ちどりあしである。善兵衛は肩を抱いて、竹次郎を支えた。左手には、豊川屋で渡された提灯をぶら下げている。

「兄さん、すっかりご馳走になっちまって」

「今晩はうちに泊まればいい。駕籠で帰ろうとも思ったが、お前がそんなに酔ってちゃ、揺れる駕籠の中で粗相そそうをするだろう。酔い醒ましに両国橋を歩いて帰ろうじゃないか。酔いが醒めたら、辻駕籠を拾えばいい」

「……うん。すまねぇ」

 うなだれた竹次郎は、何度も何度も謝った。

 二人が寄り添って歩くと、やがて両国橋に差しかかった。

 両国橋は江戸名所図会めいしょずえに『浅草川の末、吉川町と本所本町の間に架す』とある。浅草川とは、隅田川の別名であるが、昔はこの隅田川が下総しもうさ国と武蔵むさし国の国境くにざかいであった。

 それがために当初は大橋と呼ばれていた橋が、二つの国に架かる橋として両国橋と呼ばれるようになったという。

 死者十万人とも言われる明暦めいれきの大火をきっかけに、幕府は過密した江戸の都市人口を分散させ、広小路や火除ひよけ地を作る対策を行った。

 隅田川の対岸の本所を開発するに辺り、深川と江戸市中を結ぶ両国橋が架けられたのである。

 ところが空いた土地があれば、黙っていないのが商売人である。

 屋台が出る、茶屋が出る、芝居小屋が立ち並ぶ。と、いつの間にか両岸は大変な賑わいを見せた。

 特に夏場は涼を求めての人出が多く、舟と店の灯りが水面を覆い隠し、陸と変わらぬほどであったと言う。

 ただ、あくまでも幕府非公認であるので、役人が煩くなると店も芝居小屋もすっかりと姿を隠してしまう。

 この日も十日前までの賑いが嘘のように、閑散とした広小路を木枯らしが吹き抜けて行く。

 冷え込んだ夜には、出掛ける者も少ないのであろう。両国橋を渡る人影は見えない。

 突然の寒さに冬の風物詩である夜鷹蕎麦も支度したくが間に合わぬのか、売り声すらも聞こえてこなかった。

 善兵衛と竹次郎は、そろそろと両国橋を渡って行く。

 鼻息もため息も荒い竹次郎を見兼ねて、善兵衛が声をかけた。

「おい、ちょいと休もうか?」

 橋の西、吉川町側にある船着場に降りると、竹次郎をしゃがませて背中をさする。

「調子に乗って飲み過ぎるからだ。ここですっかり出しなさい」

 善兵衛の言葉に、竹次郎は口をだらし無く開けて、苦しそうに唸りだした。

 ゆっくりと提灯を掲げ、善兵衛は左右を見渡した。

 仮設小屋のむしろが山積みに置かれている。船宿に戻っているのか、川面かわもには一艘いっそうの船影もなかった。

 懐から組紐くみひもを引き出した善兵衛は、左手に三回、右手に二回巻き付けてぐっと握り締める。その組紐を竹次郎の首にそうっと巻き、背中に足を掛けて一気に引いた。


 

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