第四章 君がいた④

 彼女との思い出話に耳を傾けていると、楓がふと何かを思いついたかのように「あっ」と小さく声を上げた。


「ねえ、私にも百合の血を飲ませてよ」


その言葉に驚いていると、楓が真剣な表情をして「お願い」と強い思いを込めた口調で続けた。


「いいけ、ど……どうし、て?」


 思わず出た質問に、楓は小さく微笑んだ。


「百合が消えたとしても、百合を私の中に残しておきたいの。例え、私から百合の記憶が消えてしまったとしても。せめて血だけは、百合を、覚えておきたいの」


 私は楓の申し出を了承すると、自分の歯で自分の指先を噛む。


 しばらくすると、私の指先からじわじわと血が滲み始める。楓はそれを確認すると、ゆっくりと私の指先を口に含んだ。そして、少しの間私の指先を舌で転がすと、ゆっくりと口から離した。


「ごめんね痛い思いをさせて……」


 私は無言で首を左右に振る。いつもしていたことと逆のことをするのは、何だか変な感じがしたけれど、それでも、そんな些細なことが幸せに思えた。


「……どう?」


 そんな質問に、楓は少し悪戯っぽく笑いながら「私の血と同じ味がする」と言った。


 その言葉に、思わず吹き出してしまう。吸血鬼だろうが人間だろうが、血は同じ味らしい。私の味わう血の味と、楓の味わう血の味は感じ方が違うだけで、きっと同じ血が流れている。


 楓が顔を上げると、急に青ざめた顔になった。その視線の先を確認しなくても分かってしまう。そこにあるのは私が毎朝お世話になっていた目覚まし時計。その針は止まることはせず、ただ、チクタクと、仕事を全うするかのように時を淡々と刻み続けてきた。


 時間は止まらない。願わなくても、明日が来てしまうように。望んでいないのに、いつか止んでしまう雨が降り始めるように。


「――嫌ッ!」


 楓は拒絶するかのように叫ぶと、怯えたような、それでいて今にも泣き出してしまいそうな顔で私を見た。


「嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ッ! 嫌だッ‼︎」


 彼女はヒステリックに叫びながら私を抱きしめる。


「嫌だよ……。私、百合と離れたくない! せっかく……せっかく百合とお互いの気持ちを確認し合ったのにッ!」


 そう言って私にすがりついて泣き叫ぶ楓の頭を私はゆっくりと撫でる。


 楓の頭から一度手を離し、そして、私は自分の左手の中指からいつも着けていた髑髏のリングをそっと外した。


ふと楓の後ろに視線を向けると、私が立っていた。あの湖で会ったときからずっと同じ、ぼろぼろの布きれを身に纏っている、私の心。


「本当にいいの?」


 そう口の形だけで彼女が尋ねるから。


「いいの」


 そっと、小さな声で答える。楓には、聞こえないような本当に本当に小さな声で。


「そっか」


 彼女は少しだけ寂しそうな声音で呟くと、今度は朗らかな笑みを浮かべる。


「私が良いならそれでいいんだ。だって、他でもない、自分が決めたことだから」


 そう言った彼女の顔はさっぱりとしていて、安心しきっていた。そして、うっすらと、徐々に彼女の姿が闇に溶けていく。


 きっと、彼女は私の吸血鬼としての部分だったのだろう。だから、ずっと私に生きるように訴え続けてきたのだろう。


 心配かけてごめんね。不安だったんだよね。私がずっとずっと迷っていたから、貴女も怖かったんだよね。


 もう、大丈夫。私は私から離れないよ。ずっと一緒。


 ――だって、私は吸血鬼なんだから。


 存在を確かめるようにデザインされた髑髏の部分を指でなぞる。大切な思いがたっぷりと詰まった、そのリングを今も私にすがりついて泣き叫んでいる楓の手の甲にそっと落とした。楓は驚いたように私とリングを見比べる。


「これ……百合が大切にしてるリングじゃ……」


 確かにこのリングは、私がバイトをして初めて貰った給料で買ったものだ。当時のお小遣いじゃ到底買える金額ではなく、何ヶ月もバイトしてやっと買えたのだった。


「こんなの……こんなの貰えないよ!」


 楓が拒みながらリングを返そうとするが、私は静かに首を左右に振った。


「だか、らこそ……私、は……楓に、持っ……てて、欲しい、の」


 楓はリングを強く握りしめ、そして幾筋もの涙の筋を光らせながら何度も頷いた。彼女の頬から溢れた涙が、今まで見たどの涙よりも綺麗だと思った。


 私はそれを見届けると、軽くなった左手で楓の頬に触れる。


 彼女に触れたその手が――少し透けていた。


 楓もそのことに気が付いたのか、まるで手放さないとでも言いたげに、私の手をぎゅっと握りしめた。


 もう時間がない。だから私は、君に、精一杯の感謝を、伝えよう。


「あり、がとう……。愛、してる、よ。かえ、で……」


 私のその言葉を聞くと、楓は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、精一杯の笑顔で私に言葉を紡いだ。その笑顔がたまらなく愛おしくて、少しだけ吸血鬼として産まれた自分を呪ったけれど。でも、きっと吸血鬼だったから、私は楓のことを愛したんだ。そう思ったら、これで良かったのかもなんて。


 ――あーでも、やっぱり悔しいなあ。悔しいと思ってしまうな。願うことならずっと君と一緒にいたかった。君の腕の中に抱かれていたかった。いいや、そんな多くは望まない。ただ、これからも君と一緒に笑っていたかった。


 君とこれから先の未来を一緒に歩むことができないのは、悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくてたまらないけれど。それでも、そんな風に思える人を、心から愛せて良かったって思うんだ。だって、それは紛れもない本心だから。私は、なんて幸せな吸血鬼なんだろう。


「そんなの私こそだよ。ありがとう百合。世界で一番。愛してる」


 私はその言葉を聞きとどめると、ゆっくりと、瞳を閉じた。今受け取ったばかりの大切な宝物を、宝石箱の一番上に、一番目立つ場所に仕舞うように。


 私が生まれて初めて愛し。そして、世界で最も愛した人。


 ――ありがとう。

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