第三章 私の答え⑮
先生がいる間は不思議なもので、空腹を感じることはなかった。
話していると意識が分散するからだろうか。私の胃袋はもう音を立てることはなく、ただ刺すようにきりきりと痛み続けていた。その痛みに、強く歯を食いしばる。楓の魂を求め続けるこの身体はもはや私の言うことを聞こうとはしなかった。相変わらず楓から漂う匂いが私の鼻孔をくすぐり、彼女の身体に流れる血を想像するだけで口にはよだれが溢れた。その度に別の事を考えようと努力するが、その何かを考えようとする度に両親や、姉の顔が浮かんで来る。
「ごめ、んな……さい」
ベットの上で呟く言葉は自分以外の誰の耳にも届かずに消えていく。私はその虚しさから逃げるように目を強くつむるが、そうすることで浮かんでくるのはまた楓のことだった。
――いつになれば私は開放されるの?
私はもう既に答えが出ている質問を自分の中にぽとりと落とす。一人になってからもう何度この質問を自問自答したか分からない。
吸血鬼の血のせいなのだろうか。今までだと空腹と気が狂いそうな程の絶望で気を失うように眠ることができたが、今度はもう眠ることすらできなくなっていた。
「今いいか」
扉越しに父のくぐもった声が聞こえた。私は声を出そうと口を開くが、漏れ出てきた声は小さく掠れ、父の耳に届くかは怪しかった。しばらくすると、父は「開けるぞ」と言ってゆっくりと扉を開いた。いつの間にかすっかり日が沈んでいて。真っ暗になった部屋に、うっすらと廊下の光が道のように入り込んでくる。
「すっかり痩せこけちまって」
父はそう言いながら私を優しく抱きしめる。
「俺たちが吸血鬼だったばかりに、お前にまでつらい思いをさせてごめんな」
――ごめんな、ごめんな、ごめんな。
それから、そう何度も耳元で呟く父の声が徐々に涙声に変わる。私は父の背中に腕を回すと、父は今よりも強い力で私を抱きしめる。
「おと、さん。苦し……いよ……」
私の声ではっとなったのか、父が私から離れる。廊下から漏れ出た光が逆光で、父の顔は良く見えなかったが、それでも泣いていることだけは分かった。
滅多に涙を見せない父が泣いていた。最後に泣いていたのはいつだっけと考えるが、もうあまり働かない頭では、思い出すことは難しくなっていた。
昔から不器用で、嘘が下手くそで。そのくせ真面目で正直で。そして誰よりも優しかった父。今でもクリスマスに「私が欲しかったプレゼントと違う!」と父に言って困らせたことを覚えている。それでも、父は次の日に「サンタさんからだよ」と困ったような笑みを浮かべながら、私が欲しがっていたプレゼントを渡してくれたっけ。
「どうした?」
そのことを思い出していつの間にか笑っていたのだろう。父が不思議そうな顔をして私に尋ねる。
父は思っていたことがすぐに顔に出るため、顔の見えないこんな状況でも父が今どんな表情を浮かべているか容易に想像できた。私はもうすぐ十八年も父と過ごしてきたことになるのだ。分からないはずはない。
私は父の質問に抱擁をもって返事をする。心配ないよ。ごめんね。そんな思いを、いっぱい込めて。
「貴方が泣くなんて珍しいわね」
ぱちりとスイッチを押す音がしたかと思うと、電気が点くのと一緒にそんな声が聞こえてきた。声が聞こえてきた方に視線を向けると、目の周りを真っ赤に腫らした母が扉の近くに血を持って立っていた。
「これ。さっき買ってきたばっかりの新鮮な血よ。こんなの気休めにしかならないだろうけど……」
私は母から血を受け取ると、一気に飲み干した。口から少しこぼれたそれを、母は愛おしそうに拭いてくれた。相変わらず空腹感は収まらなかったが、それでも、胃の痛みは少しだけましになった気がした。
「私たちからしたら、やっぱり生きて欲しい。それでも百合が決めたことだからね。私達は何も言わないって、お父さんと決めたの」
そう言って笑う母の顔には、疲労の色が濃く現れていた。
「お、かあ……さん」
口から溢れた言葉を聞き止めると、今度は母が私を抱きしめた。
「貴女は私たちの子どもだから。それだけは、忘れないで」
自然と私の顔に笑みが浮かぶ。そして、同じタイミングで私の頬に涙が伝う。二人はそんな私を見てもう一度強く抱きしめると、私の部屋から出て行った。
友達とかクラスの子たちが親がウザイとよく言っていたが、私は一度もそんなふうに思ったことはなかった。そりゃ私だって吸血鬼と言えどもやはり年頃の女の子だ。親と喧嘩することだってある。お姉ちゃんとはしょっちゅうだ。
それでも、私は家族が好きだから。
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