第三章 私の答え⑬

 もうどれくらいの間そうしていたか分からないが、がちゃりと扉が開く音がして、目を薄く開いた。扉の方に目を向けると、白い服装をした人物が部屋に入ってきた。そして、すぐそばまで来ると、どこか寂しげな声音で声をかけた。


「久しぶりだね。と、言っても金曜日以来か」


 ぼんやりとした頭で記憶の糸をたぐり寄せ、白い服装の人物が高城先生であることを理解する。そうか。白い服は白衣だったんだ。


「……今、何曜日です、か?」


 先生は目を細くすると「日曜日だよ」と独り言のように答えた。


「日曜、日……ですか」


 あぁ、きっとバンドメンバーはお怒りだ。そう思うと苦笑いが浮かんでくる。


「驚いた。まだ笑えるとは思わなかったよ」


 先生は本当に驚いたような声で言うと、私の頬に優しく触れた。


「本当に君には驚かされる。今までも君のような子は何人かいたが、ここまで我慢した子を見るのは君が初めてだ」


 先生はそう言いながら、私の身体をゆっくりと抱き起こした。


「女の子がそんな格好じゃダメじゃないか」


 先生はどこか優しい笑みを浮かべると、私の部屋に来るときに一緒に持って来たのであろう水の入った洗面器から、水で濡らしたタオルを取り出してきつく絞る。水面に滴る水滴の音色が、優しく鼓膜を揺らす。先生はそのタオルをゆっくりと私の乱れた髪の毛に当てると、優しく拭いてくれた。


「金曜日から一度も風呂に入っていないんじゃないか? そんなことでは意中の人は振り向いてくれないよ」


その言葉に、私はまた苦笑を浮かべる。


「よかったら身体。拭くよ?」


 私が無言で頷くと、先生は私から服を脱がせていく。小さな子どものようにその手の動きに従うしかなかった。スタイルの良い先生に、自分の身体を見せることは普段なら嫌だっただろうが、そんな恥ずかしさを覚える余裕すら、今の自分にはありはしなかった。


「そう言えばこんな話があるんだ」


 先生が私の背中を拭きながら、静かな湖面に石を落とすようにポツリとそんな言葉をこぼした。


「吸血鬼が初めて愛した人間の魂を喰らわなければどうなるかってことは何度も聞いて、嫌でも記憶に残っていると思う。でもね、この話には実は続きがあると言われているんだ」


「――え?」


 私が驚いて声を上げるが、先生はお構いなしに言葉を続ける。


「吸血鬼が魂を喰らわなければ、魂を喰らわなかった者たちは記憶を失ってもう一度この世界に帰って来るって話さ」


 先生は拭いていたタオルを洗面器の水に浸けると「まあ、どのみち消滅してしまうと、周りは何も分からなくなるのだがね」と言って笑った。


「誰が言い出したのかは分からないし、最愛の人間を食べたくないと願った吸血鬼の、慰めの方便かもしれない」


 それは優しい嘘。できることならば、騙されたい甘い言葉。


「それでも」


 先生はそこで言葉を句切ると、ためらいがちにだが、強い意志を込めた、ハッキリとした言葉を紡いでいく。


「それでも、もし本当にこの世界に帰ってきたら自分の所に来るといい。家族として迎え入れてあげよう」


 彼女はそう言ってタオルを強く絞った。ぼたぼたとタオルから落ちる水の音だけが部屋に響いた。


「まあ、自分の所に来られたら。だがね」


 なんとなく先生の言ったことを想像してみる。記憶をなくした私が両親の所に戻っても、きっと向こうも私のことなど記憶からすっかり消えているので何も分からないはずだ。なら先生の所に行った方が私としても楽ではないか? いや、でも先生も私を忘れてるんじゃ……。


 先生は私の考えを読み取ったのか、少しだけ得意げな表情を浮かべた。

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