第三章 私の答え⑪

 誰かがコンコンと遠慮がちに扉をノックする音が部屋中に響く。そして、扉越しに、くぐもった声で母が「今大丈夫?」と尋ねた。私はベッドに座ると、「大丈夫だよ」と返事をした。


 母がゆっくりと部屋に入ってくる。そして、私の姿を確認すると、さっと近づいてきて強く抱きしめた。


「どうしたの、お母さん?」


 私は母の背中にゆっくりと手を回すと、できる限りゆっくりと彼女の背中を撫でる。母が無言で泣いているのが分かった。これでは私が母親みたいではないか。


「……大丈夫よね?」


 やっと絞り出したであろうその声は触れば壊れてしまうのではないかと思えるほど震えていて、私の心をちくりと刺した。あぁ、やっぱり先生は分かってたのか。


 私は何も答えずに母の背中をゆっくりと撫で続ける。母はこんなにも私のことを心配してくれている。そのことが私の心をじわじわと溶かして行く。その溶け出して来たものが涙に変わると、私の頬を伝って母の肩を濡らした。


「ごめんなさいね。お母さん、心配性だから……」


 もう一度ぎゅっと抱きしめて私から離れると、にっこりと微笑んだ。


「百合は優しい子だから、きっと悩むことは凄く多いと思う。それで、貴方がどちらを選んでも、お母さんもお父さんも。それにお姉ちゃんだって否定しないわ」


 そう言って涙を拭うと、母は「それが私たち吸血鬼だものね」と弱々しく笑った。それから静かに立ち上がると、母はそのまま何も言わず、私の部屋から出て行ってしまった。


「――ごめんね」


 母の出て行った扉に向かってぽつり呟くと、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。


 私はどうすれば良いのだろうか。そう誰かに尋ねたところで誰も私にアドバイスをくれたりはしない。今もしここで神様が現れて全てを解決してくれるような助言をくれたなら、それは神様ではなく私が生み出した妄想だ。


 そんなことを考えていると、私の胃袋がぐぅと鳴った。あの薬も完全に時間切れなんだなと考えると、私は乾いた笑いを上げることしかできなかった。


 だが、そんな笑いは長くは続かなかった。それは笑いに疲れたとかではなく、吐き気から来る物だった。私は何も食べていないはずなのに、胃袋から何かが逆流するような感覚があり、それを押し込むように空気を何度も飲み込んだ。


 息が切れ、まるで激しい運動をした後のように汗が後から後から噴き出して来る。


「――ッ」


 何か言おうとしても口から空気が漏れるだけで、それは形にはならなかった。


 すがれるはずのものは何もないはずなのに、私はゆっくりと右手を宙に伸ばした。必死に何かを掴むかのように、虚空に向けて必死に手を伸ばす。当然そこには何もなく、私の手はむなしく空を切る。


 胃の中で何かが暴れているような、そんな不快感が私の胃袋を襲う。その何かから逃げるかのようにベッドの上をのたうち回る。横向きになり、左腕で自分の腹部を殴る。何度も何度も腹部を殴り続ける。


 私の左手に着けられた髑髏のリングが私の腹部に当たる度に、一瞬だが鈍い痛みが私を襲う。しかし、その一瞬の痛みは私をこの苦しみから解放するわけではなく、不快感を忘れるためのその場しのぎにしかならなかった。


 ――助けてたすけて助けて助けてタスケテ。


 何かに祈るように頭の中でその言葉を連呼する。


 どうして私がこんなに苦しまなければならないの?

 私が吸血鬼だから?

 私がただの人間ではないから?

 私は少量の血を飲まなければ生きていけないだけ。それ以外は人間と何も変わりないのに。

 ――どうしてどうしてどうして。

 どうして私たち吸血鬼だけがこんなに苦しまなければならないんだ。

 どうして神様は私を普通の人間にしてくれなかったんだ。

 どうして私にはこの選択肢しかないんだ。


 頭の中を様々な疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。


「あっ……あっ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 私は何にぶつければいいのか分からないこの苦しみを叫び声として吐きだした。それでも足りず、苦しみは涙となって私の目から溢れ出した。


「もう……」


 自分でも分かるくらい私の声は情けなく掠れていた。


「もう……嫌だよ……」


 涙と共に絞り出した私の声は暗闇に溶けて消えた。そして、私の意識もまた、暗闇の中へと沈んでいった。

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