第三章 私の答え⑧

 スパイシーな香りが私の胃袋を刺激する。今日の夕飯はカレーなのだろうかと思い目を開くと、燃えるような朱色をした夕焼けが鉄格子越しに私を照らした。


「そっか……私、意識を失って…」


 鉛のように重い身体を無理矢理起こすと、扉にもたれるように立っている、白衣を身に着けた人物が視界のすみに映った。その人物は私の視線に気が付くと、カレーを食べる手を止めてこちらを見た。


「あぁ、やっと起きたのか」


 私は何故彼女がここにいるのか分からず、なんと言おうかと迷っている間に、先生が言葉を続けた。


「君の友人二人には君が体調不良で帰ったと言っておいたよ。まあ、もうそろそろ薬の効果が切れる頃だとは踏んでいたから、予想の範囲内のことだがね」


 先生は退屈そうに言うと、表情一つ変えずにカレーを一口分乗せたスプーンを差し出した。そして、付け加えるように「コンビニのカレーだがね。だが、この粉っぽいチープな味がなかなかクセになるんだ」と言った。


 私は最初は断ろうとしたが、無意識のうちにスプーンをくわえ込んでいた。安っぽいコンビニのカレーのはずなのに、涙があふれるほど美味しかった。


 私のそんな様子を見て、先生は「美味しいかい?」と優しく尋ねる。私が何度も無言で頷くと、先生はそっと私の頭を撫でてくれた。


「君を見ていると昔の自分を見ているような気がするよ」


 先生は私の横に腰掛けると、まるで寝る前の子どもに、お伽話を聞かせる親のようにゆっくりと話し始めた。


「自分もね。昔はここの生徒だったんだ」


 私が驚いて先生を見るが、彼女は私のそんな反応を気にした様子もなく言葉を続けた。


「自分も空腹が限界に近づくにつれてここを訪れたものだよ。ここはまるで鳥籠のようだと思はないかい?」


 先生のその言葉に、私は弱々しく頷く。それを見ると先生は「本当に君は」と言って、喉の奥でくつくつ笑った。


「何故か分からないけどね。自分はここに来ると籠に押し込まれた鳥のように感じたし、同時にもしかしたらここから抜け出せるんじゃないかとも考えた」


 先生は途端に悲しそうな表情をすると「まあ、無理だったんだがね」と続けた。


「ちょっとだけ自分の昔話を聞いてくれるかな?」


 ぎこちなく笑う彼女の表情はどこか痛々しく見えた。


「私で、良ければ……」


 その言葉に安心したようで、先生は胸に溜まっていた息を吐き出した。


「自分の初めて愛した人間と出会ったのは、私の祖父母が営む孤児院でだった」


「孤児院……?」


「あぁ。自分は父親を知らないんだ。顔も見たことがない。それに、母は研究職に就いていることもあって、家に帰って来ることの方が珍しかったぐらいさ。だから、孤児院を営む祖父母に預けられることとなった。別にそれ自体は恨んではいない。そこでの思い出は今でも自分を支えてくれるものだしね。それでも……」


 先生はそこで一瞬苦しそうな表情を浮かべる。この話は彼女にとって、話したくないことなのかもしれない。それでも、話そうとしてくれている。先生の悩みや苦しみが、私のヒントになるかもしれないと信じて。


「それでも、痛いんだ」


 はっきりとした声が、私の鼓膜を揺らした。強く見えた先生の、弱さだと。吸血鬼だからこそ分かる、痛みだと、思った。


「物心つく前から一緒に育ったんだ。何をするにしても一緒。一緒に遊んで、一緒にお昼寝して、一緒にご飯を食べ、そして、一つの布団で眠った。姉妹のようだと、よく言われたよ」


 先生の頬にひとしずくの涙が伝い、そして、空を彩る淡い朱色を映した。

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