第三章 私の答え⑦

 教室に入ると、私の遅刻に先生が驚いたような声を上げる。


「なんだ。高西が遅刻とは珍しいな」


 私は「寝坊しまして」と言いながらできるだけ明るく笑う。先生は少し怪訝そうな顔をしたが「そうか」と独り言のように呟くと、私に自分の席に着くように促す。


自分の席に辿り着くと、横に座っている柚子が小声で「大丈夫?」と尋ねてきた。私はできる限り明るく「大丈夫だよ」と答えると、彼女はまだ心配そうな表情を浮かべたまま「そう?」と呟いて黒板の方を向いてしまった。それは私に気を使ってくれたからか、私から興味を失ってしまったからかは分からないが、私としても助かる。授業の準備ができなければこの場所に来た意味がない。


 しかし、いざ鞄を開くと準備が昨日のままだった。学校に来るまで気が付かないなんて私はなんと抜けているのだろうか。


 四時間目以降は昨日と授業が被っているので問題ないのだが、この授業は週に一度しかないため、教科書を忘れると非常に痛い。時間があれば他のクラスの友達に借りに行けるのだが、今日は遅刻してきたのでそんなこともできずにいた。遅刻しても何一つ良いことがないではないか。私はそう思うと、溜息を一つ吐く。


 何もかもを忘れて暇だったので、授業を受けてますアピールをするためにルーズリーフを机の上に並べると、途端にすることがなくなってしまった。


 寝たふりをするのもなーと思い、左手を机に置くと、コンと軽い音がした。驚いてあたりを見渡すが、それが私の身に着けている髑髏のリングと机が当たった音だと分かり、すっかり拍子抜けしてしまう。


 なんとなしに黒板の方を向くと、最前列でちらちらとこちらを見ている人物に気が付く。それが楓だと気が付くのに時間はいらなかった。飴玉の効果が薄れてきたのか、匂いでも分かるというのに、あの席に座っているのが彼女でないのなら私はどうしていいのか分からない。私と視線が合うと、楓が目だけで心配だと訴えてくる。私も視線だけで大丈夫だと答えると、楓はそれでも何か言いたそうな顔でこちらを見続けていた。


「おい荒木。後ろばっかり見てないでちゃんと授業を聞きなさい」


「……すみません」


 先生に注意されると、楓は大人しく前を向いた。私の横では柚子が楽しそうに笑いを堪えている。普段真面目で怒られることがない楓が注意されるのが珍しくて、少し可笑しかったのだろうか。


 授業が終わると、楓が次の授業の用意そっちのけでこちらに近づいてきた。


「ねえ、どうしたの?」


 楓が近づいたことにより、今までよりもぐっと私の胃袋を刺激する匂いが強くなった。私は息を止めながら短く「気にしないで」とだけ答えた。


 二人はそれ以上詮索してこようとはせず、駅前にできた新しいケーキ屋の話や、最近潰れた服屋についてなどたわいもない話をし始めた。私はたまに「へー」とか「それでそれで」と続きを促す役目に徹したため、長い間息を吸い込む必要がなかった。


 昼休みは「気分が悪いから」とだけ言い残して、私は屋上へと続く階段に向かった。


 保健室に向かっても良かったのだが、今は新鮮な空気に触れたかった。


 私たちの学校は屋上には入れないのだが、変わりに外が見える非常用階段が屋上に入る扉の横に設置されている。私はそこを開くと、壁に背を預けながらぺたりと地面に座り込んだ。コンクリートの冷たさが、布越しに伝わってくる。


 その場所は生徒の自殺を防止するためだろうか、まるで覆い被さるように鉄格子が階段全体を包み込んでいる。なけなしのデザインなのだろう、上部がアーチを描いていた。正面を見ると、非常用ハシゴをかけるためなのだろうか、鉄格子を四角く切り取られた場所が数カ所見て取れた。


 私はそんな鉄格子を眺めて、まるで鳥籠のようだと思った。それはアーチ状の部分から見える隙間に、透き通るような冷たい青色をした空が見えるからだろうか。


 最後にここに訪れたのはいつ頃だったかと考えるが、思い出すことはできそうになかった。それほど昔だったかと思うと不思議と笑みがこぼれた。前に来たときも、私はここを鳥籠のようだと思ったのだろうか。過去の自分に尋ねようにも、私にはタイムマシンも、過去に手紙を送る術も持ち合わせてはいない。吸血鬼であったとしても、ほとんど人間と代わりはしないのだから。


 そのまま鉄格子を眺めていると、なぜか胸がざわついた。


 最近、ここに来てはいない。けれども最近、どこかで見たような気がする。


 そして、解き放ってはいけない何かを、解き放ってしまったような――。


 遠くから聞こえるチャイムの音で私の意識が現実に引き戻される。どうやら、ボーッとし過ぎたらしい。私は急いで立ち上がろうとするが、急に視界が暗くなり、貧血のときのように足下がふらついた。咄嗟に壁にもたれ掛かったが、そのままずるずると座り込んでしまう。息が荒くなる。薬が切れてしまったのだろうか。私はお腹を抱えたままハッと乾いた笑いを吐き出すと、そこで意識を失った。

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