第三章 私の答え⑤

「実はね。この日まではよく百合のことを意地悪されてたのよ」


「お姉ちゃんが……?」


 全然想像することができなかった。些細なことで喧嘩をすることはあっても、物心ついた頃から姉に暴力を振るわれたり、理不尽な要求をされたことはない。それは姉が大人しい性格であるからだと思っていたが、どうやらそうではないらしかった。


「この日はね、百合のわがままに付き合ってあげたかったんだけど、ちょうどお客様がみえてたのよね。だから、渋るお姉ちゃんに頼み込んで一緒に行ってもらったの。そしたらね、」


 母は何かを思い出したのか、喉の奥でくつくつと楽しそうに笑う。続きが気になった私はせがむように母の袖を引っ張った。


「そしたら、お姉ちゃんが大泣きして帰ってきたの」


「どうしてお姉ちゃんが?」


「泣きながら話してくれたから、はっきりとは分からないんだけどね。ほら、スーパーに行く途中に大きな犬を飼ってらっしゃるお宅があるじゃない? もう今は老いちゃって吠えることはないんだけど、昔は前を通るだけで吠えるような犬だったのね」


 お使いや、友人の家に遊びに行く途中に何度も見たその犬を思い出す。確かに、昔はよく吠えていた記憶があるが、今は前を通ってもしんどそうに顔をもたげるだけで吠えることはなかった。何度か撫でた、毛並みの柔らかさを、ふと思い出す。そうだ。確か――


「撫でようとして、吠えられたんだ……私……」


「覚えてるの?」


 その言葉に、私は首を横に振る。


「思い出したの。ぼんやりと、だけど」


 姉が止めるのも聞かず、幼い頃の私は犬に向かって手を伸ばした。その時は不思議と吠えることはせず、無意識に私は大丈夫だと思っていたんだ。


 あと少しで手が届く。でも、その時だった。


 一際、大きな声で吠えた。驚いて尻餅を着いてしまった私に、姉が急いで駆け寄って来てくれて。それから――。


「アタシの妹に何するんだーって……」


 繰り返すように呟いた姉の言葉に、胸がぽかぽかと温かくなるような気がした。


「そうだったの……」


 母が優しい手付きで写真の縁をなぞる。


「お姉ちゃんが、わんちゃんに百合が虐められたーって大泣きして帰ってくるわ、虐められたはずの百合はけろっとしているわでもう可笑しくって。それで、お母さんもお客様も笑っちゃったのよねぇ」


 そこの部分はもう覚えてはいなかったけれど、それでも、今では姉が叫んだ言葉ははっきりと思い出せる。


「お姉ちゃんね。その日からずっと、私が妹を守るんだって。あの子、お父さんに似て不器用だから。かっこいいところばっかり百合に見せようとするのよね。悩み事は全部自分で抱え込んで。でも、百合のこととなると誰よりも心配性で」


 母はそこで言葉を区切ると、ふっと悲しげに微笑んだ。


「だから、百合に弱いところを見せないために、あの子は一人で解決したんだと思う。私たちに相談すれば百合が聞いちゃうかもしれない。心配かけちゃうかもしれないって思ったんでしょうね」


 私のために、精一杯強がっているお姉ちゃんの姿を思う。そういえば、私の相談にはいつも乗ってくれるけれど、姉が相談してきたことは一度もない。それは、かっこいい姉であろうとする、彼女なりのプライドなのかもしれない。


「あっ、そうだ。お姉ちゃんがいつも使ってるブックカバー。分かる?」


 使い古され、所々ぼろぼろになった花柄のブックカバーを思い出す。あれがどうしたというのだろうか。


「あれね、誰がプレゼントしたか知ってる?」


「ううん、知らない」


 正直に答えると、母は悪戯を思いついた子どものように笑った。


「あれね、百合が渡したものなのよ」


「へっ?」


 思いもよらなかった答えに、私は間の抜けた返事をしてしまう。


「百合が小学校に上がったばっかりだった時かなあ。お姉ちゃんの誕生日プレゼントにって、それまで溜めてたお小遣い全部使って買ったのよ」


 覚えていなかった。だから、毎回私が尋ねると、口をへの字に曲げて少し寂しそうな表情をしていたのかと申し訳なくなった。


「お姉ちゃんに、謝らなきゃ」


 涙とともに溢れ出した言葉を、母は抱きしめることで受け止めてくれる。お姉ちゃんはなんて言うだろうか。そう考えると、少しだけ気恥ずかしい思いが心に浮かんだ。


 ピンポーンと軽い音が家中に響き、チャイムの音色が来客が訪れたことを告げる。母は私に優しくにっこりと笑いかけると、来客に会うために玄関へと向かう。


 遠くで二人の話し声が聞こえる。きっと時間的に楓だろう。昨日は早退してしまったこともあり、彼女には心配ばかりかけてしまっている。


 母が帰ってくる頃には気分も大分落ち着き、私はもそもそと食パンを頬張っていた。すっかり冷めてしまった食パンは少し堅くなっていて食べにくかったが、それでもなんとか完食することができた。あの飴玉の効果は絶大で、私の体力も少なからず回復していることが分かる。


 それに楓の近づくことが匂いで分かりづらくなったのも、抑制作用が働いたからかもしれない。


「楓ちゃん。先に行ってもらったから」


 その言葉に無言で頷く。今日はどうしようか。そんな疑問が頭に浮かぶが、すぐに答えが決まる。あの先生に会いに行かなければ。聞くことは山ほどあるのだから。

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