第二章 飢え⑧
「家はこの近く?」
少し歩いていると、村上さんからそんな世間話が振られる。
「この道をまっすぐ行って、三番目の通りを左に曲がったところに我が家があります」
後ろを指さして言うと、村上さんが驚いたような声を上げた。
「それは申し訳ないことをしちゃったね……。本当に無理しなくていいからね」
心配そうに声をかけてくれる彼女に感謝しながらも、私は小さく首を横に振る。
「私が行きたかったから行くんです。だから、気にしないでください」
「そう言われちゃうと、こちらとしては何も言えないや……」
少し申し訳ない気がしたけれど、今は少しだけでも彼女と話したいと思った、私のわがままを通してもらおう。
店に着くと、村上さんが鍵を使って扉を開く。すると、前回同様、扉の上に備え付けられたドアベルが、からころと楽しそうに鳴る。
「お邪魔します……?」
私が小さく呟くと、村上さんがぷっと吹き出した。
「店に入るときにお邪魔しますって言う人を見るのは初めてだ」
その言葉に私の頬が恥ずかしさのせいで熱くなる。
「まあまあ。適当に座ってて。今珈琲を淹れるから」
村上さんはそれだけ言い残すと、カウンターに入って行き、エプロンを身に着ける。そして、珈琲豆をミルの中に入れると、ごりごりと重い音を立てて豆を挽き始める。上の取っ手を回すたびに部屋中を漂う、珈琲の香ばしい香りが強くなっていく。
「そこに座られると、ちょっと恥ずかしいな」
私がその匂いに釣られるようにカウンター席に座ると、村上さんがはにかみながらそう呟いた。
扉に掛けられた看板には【OPEN】と書かれており、外から見ると【CLOSE】と書かれているのであろう。そのおかげで、今この空間には私と村上さんだけしかいなかった。
「店。開けなくていいんですか?」
ぼんやりと尋ねると、村上さんは手を止めてちらりと扉の方を見やる。
「あぁ、今日は週に一回の定休日だから。じゃないと豆なんて買いに行けないよ」
村上さんはそう言って笑うと、私の前に、ソーサーに乗せられた高そうな珈琲カップをことりと置く。珈琲カップからは暖かそうな湯気が立ち上り、私の身体を珈琲の香りが満たす。
「ブルー・マウンテン。この店じゃ一番美味しい珈琲だよ。ささ。冷めないうちに飲んで」
村上さんがそう急かすので、私は恐る恐るカップに口をつける。口に流れ込んだ珈琲は強い香りにも関わらず、あっさりとしていて飲みやすかった。
「……美味しい」
自然と溢れ出した言葉に、村上さんは嬉しそうに微笑む。
「それはね。うちの店で一番いい豆なんだ。値段はちょっと張るけど、焙煎が浅いから、体調が悪くても飲みやすいと思うよ。私も詳しくないからそれ以上は言えないけどね」
私はその言葉に思わずぎょっとしてしまう。そんな高級な豆で淹れられた珈琲を飲んでいるのか。
「えっ……あの……いくらでしょうか……」
私の言葉の何が面白かったのか、村上さんは大きな声で笑い出した。私はどうして今彼女がそんなに笑っているのか理解できず、ただ、茫然と彼女が落ち着くのを見守ることしかできなかった。
「ごめんごめん。なんか言動がいちいち面白くて」
村上さんはそう言って謝るが、笑いながら言っているせいで、本心から謝っているようには感じられない。だが、それでも悪気は無いことは分かるので、怒るに怒れないでいた。
なんだか楓とのやりとりを思い出してしまい、私も少し可笑しくなって笑ってしまった。
彼女は数度深呼吸をして呼吸を整えると、自分用に珈琲を淹れたマグカップを持って私の隣に座った。微かに漂う香水の香りが、少し大人びた香りのように思えて、彼女が私より年上なのだと改めて実感する。
「そういえば名前、聞いてなかったよね?」
村上さんがマグカップの縁をなぞりながら尋ねた。
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