第二章 飢え⑦
私は自分か楓かを選ばなければならない。私か彼女のどちらか一方が生き残るために。
特別な匂いはやはり楓から漂ってきているのだろう。紙に書かれている匂いと、私が嗅ぎ取っているこの匂いは嫌でも一致してしまっている。初めて愛した人間が楓なのを、否定しようにも否定する材料はなかった。血は嘘を吐けないのだから。
それにしても魂を喰らうとは良く言ったものだ。
『魂を食べる』ではそこまで重みを感じることはできないが、『魂を喰らう』なら少々大げさな感じはしても、私がこれからしようとしている行為を表すのにこれほど的確な言葉はないように思う。そんなことを考えながら私が目を閉じると、空腹からか私の胃袋がきりきりと痛んだ。
結局、そのまま六限目の授業を受けずに家に帰ることになった。
別れ際、先生は念を押すようにもう一度飴玉の説明をすると、後は机に向かってしまい、目を合わすことはなかった。
とぼとぼと下を向いて歩きながら自宅を目指す。春の地面には所々に小さな雑草が名前も分からない花を咲かせている。
ふと、この時間に一人で帰ることが初めてであることに気が付いた。
学校の関係でこの時間に帰ることになったとしても、そこには必ず楓や柚子がいた。そして、早退したこと自体が初めてだったことに気がつくと、自らの身体の頑丈さに苦笑いが浮かぶ。
「――あれ?」
突然、前から聞いたことのある声が私の鼓膜を震わせる。どこか気怠げで、耳ざわりの良い声。
驚いて顔を上げると、先日訪れた喫茶店の店員さんが驚いた顔で立っていた。
格好はあのときの制服とは違い、胸元がざっくりと開いた黒のトップスに、黄色のスキニー。そして上と同じ黒色のトップス。アクセサリーは必要最低限といった具合。まるでミツバチのような出で立ちだが、不思議と彼女の雰囲気によく似合っていた。
「あっ……えっと……」
私は悪戯が見つかった子どものように思わずどぎまぎとしてしまう。正式な届けを出しているので別に悪いことなどしていないのだが、それでも、今の状況を見られるとやはり変な緊張が身体を巡る。
「この前うちのお店に来てくれてました……よね?」
彼女は私を見て不安げに尋ねる。私は何か言葉を発しようとしたが、何を言えばいいのか分からず、ただ何度も頷くことしかできなかった。
彼女はそんな私の様子を見て、肯定と受け取ってくれたようで、安堵の溜息を洩らした。
「合ってて良かったです……ってなんか堅苦しいね。ため口でもいい?」
「別に大丈夫ですけど……」
呟くような声だったが、それでも彼女はほっと安心したように、にっこりと笑いかけた。
「それじゃあ、ため口で」
彼女の言葉で私も少しだけだが、気持ちが軽くなるような気がした。
「えっと……確か村上さん……?」
私がなんとか名前を思い出して尋ねると、彼女は驚いたように目を大きく見開いた。
「へぇ。まさか覚えられてるとは思わなかった。でも、自己紹介なんてしたっけ?」
首を振って否定し、この前訪れたときにネームプレートを見た旨を伝える。
「あぁ、だから知ってたんだ。びっくりしちゃった」
村上さんは少しはにかみながら言った。それは、キツメな印象の彼女からはあまり想像することができない表情だった。
「お買い物ですか?」
彼女が両手に抱えている重そうなビニール袋を指さして尋ねる。
「ん? これは店に持っていく珈琲豆。普段は店長が買いに行くんだけど、今日は大学が休みだから、私が取りに行ってたんだ」
「へー。それじゃあお店で挽いているんですね」
彼女は嬉しそうに「そうなんだよね」と答えた。
「今日は学校、もう終わったの?」
その言葉に、思わず肩を震わせて縮こまってしまう。できれば今、その話題には触れて欲しくない。
「あの……えっと……」
私が何も言えずにしどろもどろしていると、村上さんはしょうがないなぁとでも言いたそうに息を吐いて、私に柔らかく笑いかける。
「サボりだろうがなんだろうが私は気にしないよ。まあ、その顔色だと早退ってところが妥当かな?」
すぐ見抜けてしまうほど、私の顔色は悪くなっているのだろう。その言葉を聞いて、思わず曖昧な笑みを浮かべる。
「そ、そんなところです……。今は少し……ましですけど……」
「じゃあさ、よかったら、店。寄ってきなよ。珈琲の一杯ぐらい出したげる」
一瞬迷ったが、私は無意識のうちに彼女の荷物の一つを持って歩き出していた。荷物は今の身体にはずっしりと感じられたが、その重さが私という存在が今もまだ生きている証拠だと教えてくれているような気がして、少し心地よかった。
「さすがに体調が悪い人には持たせられないよ。店も近くだしさ」
村上さんはそう言って私から荷物を取り返そうとするが、私はそれを制して歩き続ける。彼女はふぅと小さく吐くと、私から荷物を回収することを諦めて並んで歩き出す。
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