第二章 飢え⑥

「え?」


 突然突きつけられた言葉に思わず固まってしまう。否定しなければならないのに、言葉は喉に張り付いて出てこようとしなかった。


「あっ……あの……」


 なんとか絞り出した声を聞くと、先生はそれを肯定と受け取ったのか、手にした紙をもう一度私の前に突きだした。


「あぁ、そんなに堅くならないでいいよ。自分も吸血鬼だし」


「え?」


 もう一度私は間の抜けた声を出してしまう。先生が吸血鬼? 何を言ってるんだろう。


「何を言ってるのか分からない。と、言いたげな顔つきだね。まあ、そのままの意味だよ。自分は君と同じ吸血鬼だ」


 先生は一つ大きな溜息を吐くと、ベッドの脇にどっかりと腰を下ろした。


「何から説明したらいいか分からないけど……。まあ、そうだね。自分たち吸血鬼には特別なネットワークが存在するんだ。それで、その……今回十八歳になる吸血鬼の連絡も回ってくるわけ」


 先生はそこで一度区切ると、バツの悪そうな顔でこちらを見た。きょとんとした顔で先生を見つめると、彼女は耐えきれないとでも言うように私から視線を逸らした。


「君はまだ初めて愛した人間の魂を喰らってないだろう?」


「……魂を……喰らう?」


 私はまるで壊れた蓄音機のように先生の言葉を繰り返した。


「そう。親御さんから聞いたはずだが? まさか聞いたことないなんてことは……」


 先生の言葉に、昔両親が話してくれたことが徐々に蘇ってきた。確かに同じようなことを言っていた気がするが、なにぶん幼い頃に聞いたきりだ。いくら考えても、はっきりとは思い出せそうになかった。


「えっと……吸血鬼は十八歳を迎えると、初めて愛した人間の魂を喰らう……でしたっけ?」


 私の言葉に先生は二、三度首を縦に振る。


「そう。一応は聞いたことがあるみたいで安心したよ。じゃあ、好きな人の匂いについても覚えてるかい?」


 頭の中で埃の被った記憶を漁るが、いっこうに出てきそうにない。


 先生はそんな私を見て、頭の中で情報を整理するかのように、軽く眉間に皺を寄せた。


「君の初めて愛した人間の匂いはとても食欲をそそる匂いになる。その匂いを嗅ぐ度に自分たち吸血鬼の理性は徐々に無くなってしまい、最終的には本能に従うこととなってしまう。こんな話を聞いたことないかな?」


 匂いの変化と聞いて、あることが浮かんだ。


 ――まさか、そんなこと、ないよね。


 頭を小さく左右に振ることで、自分の考えを否定する。


「分かりません……」


 絞り出した声で伝える。すると、先生は溜息を吐いて私に一枚の紙を手渡した。


「ここに特徴が書いてあるから。よく読んでおきなさい」


 手渡された紙に目を落とし、ざっと流し読みをする。


 先生はその間もベッドに腰をおろし続けている。どうやら、私が読み終わるのを待ってくれているようだ。


 黙って読み進めていると、ある項目に目が止まる。いや、止まってしまった。だからこそ、尋ねなければならない。


「――あのっ」


 先生は退屈そうな視線を私に向けると「ん?」とだけ答えた。


「先生は……その……やっぱり、初めて愛した人の魂を喰らったんですか?」


 先生はしばらく空中に視線を投げた後、ゆっくりと口を開いた。


「喰らったよ」


 先生は綺麗に整った顔をゆがめる。そして、すらりと長い脚を組み、細く、長い息を吐きだした。


「未だに忘れられないよ。さすがにね」


 先生はその後に「今も苦しんでるよ」とぽつりと吐き捨てた。


「今のは聞かなかったことにしておくれ」


 そう言って微笑むと、先生は白衣のポケットから二個の飴玉を取り出し、大切なものを手渡すかのように、しっかりと私に握らせた。


「……これは?」


 私が尋ねると、先生は「本当に苦しくなったとき食べればいい」と言って微笑む。その表情は、君の苦しみは分かるとでも言いたげな、儚い微笑みだった。


「……ありがとうございます」


 先生がこの場から離れようと立ち上がるが、すぐに出て行こうとはせず、じっとこちらを見る。真っ直ぐに私の顔を見つめるその瞳に、思わずたじろいでしまう。


「あ、あの……先生?」


 先生はふぅと息を軽く吐き、言葉を紡ぐ。


「自分が初めて愛した人はね。自分でも驚いてしまったけれど、女性だったよ」


「――えっ?」


 先生は私の疑問には答えようとはせずに、無言でもう一度微笑むと、カーテンを閉めて出て行ってしまう。


 また、紙に視線を、落とす。そこに書かれた『吸血鬼が魂をこの身体に取り込むと、取り込まれた人間はこの世界から最初から存在しないこととなってしまう』という一文を見て、紙をくしゃりと握る。


「……もう逃げられないよね」


 ぎゅっと、自分の手を先ほどよりも強く握る。握られた紙からはぎちぎちと嫌な音がこぼれた。

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