第一章 吸血鬼②

 窓から吹き込む緩やかな風が私の頬を撫でる。その心地よさからか、ジャムパンの味も心なしか普段より美味しく感じられる。


 今年の桜は去年よりも開花が少し遅れたらしく、四月も中盤に差し掛かった今でも、新緑の葉に紛れてちらほらと桃色の花を咲かせている。


「……り……ねぇちょっ……ねぇってばおい! 高西百合たかにしゆり! ちゃんとアタシの話聞いてる?」


 自分の名を呼ぶその声を聞いて、思わずはっとなって顔を上げる。その先には不満そうな顔をした川田柚子かわたゆずと、その隣で楽しそうに笑っている荒木楓あらきかえでがいた。


 今月の末にあるライブの事で頭がいっぱいだったからか、気が付けばぼーっとしてしまっていたようだ。


「あっ、ごめん。柚子の彼氏が牛になったって話だっけ」


 私の言葉に、柚子は大きく溜息を吐いて、「そんなの一言も言ってねーし」とげんなりした顔で私を見た。


「いやーこればっかりは仕方ないと言いますか、なんと言いますか……あははっ……」


そう言って誤魔化すと、二人は「百合らしいや」と笑う。


「今度はいつライブなの?」


 楓が綺麗な黄色をした卵焼きを頬張りながら尋ねる。


「えーっと……あれ? いつだっけ?」


「あんたまだ寝ぼけてるの?」


 柚子の言葉にもっともだと苦笑いを浮かべつつ鞄を漁り、目当ての物である手帳を取り出すとぺらぺらとページを繰る。


「んーと、再来週かなー。私たちはトリの一個前だから、出番は遅めだよ」


 伝えるべきことを伝えてしまって、ぱたりと手帳を閉じる。そのときに、左手の中指に着けられた髑髏のリングに太陽の光が反射して、そのまぶしさに思わず目を細める。


「助っ人で入ったのに、いつの間にか正規メンバーだもんねー。アタシは驚きだよ」


 柚子がにやにやと笑いながら、こちらを見る。確かに私が所属しているバンド――ラスト・シガレットはインディーズ界隈ではそこそこ有名なので、そう思われても仕方がない。私だってまさかそんなバンドで、自分がキーボードを弾いてるなんて思いもしなかった。


 インディーズ界の人気バンド。私がそこに助っ人に入るきっかけとなったのは、そのバンドで起きた突然のキーボード失踪事件があったからだ。


 いまだにこの件について尋ねられることがある。この事件は私のようなバンドマンだけではなく、ネットでも少々騒がれた事件となった。この話からも、少しは知名度があるバンドということが分かって貰えたと思う。


「私だって驚きだってーのー」


私はジャムパンの最後の一切れを口に投げ入れると、勢いよくパックに入った牛乳を飲み干した。


「まぁ。そんなこともあるから人生は楽しいっつーことで」


 にへらと笑うと、二人はまた、やれやれとでも言いたそうな顔で笑うのだった。


 その後の授業もゆるゆると進み、すぐに放課後となった。四月の太陽光に暖められた席は、昼食で満腹になった身体を夢の中へと導く良い薬となった。心地よい眠りの代償に、私のノートに文字が並ばなかったのは言うまでもない。


 放課後、退屈な授業が終わると「用事があるから」と言って職員室に向かう柚子と別れて、私と楓はのんびりと帰路に着く。


 高校からの付き合いである柚子とは違って、私と楓は保育園からの長い付き合いだ。そして、私が吸血鬼だと知っている唯一の人間でもある。


 なので、修学旅行などで血のパックを持って行けないときや、学校で急に体調が悪くなったときなどは私に血を分けてくれたりする。


 不快じゃないか、と昔何度か聞いたことがあるが、楓曰く、「犬に舐められているようにくすぐったくて、結構気持ちがいい」のだそうだ。正直、見た目やお淑やかな言動から、清楚なイメージの強い楓が、そんな少々変態じみたことを言うとは思っていなかったので、少し引いてしまったのは、楓にも言えない自分だけの秘密。


 それに、楓が怪我をしたときに吸血鬼である私が彼女の血を吸うと、傷が跡形もなく治るので治療費がタダになってお得だとも言っていた気がする。


「そう言えば来週誕生日だよね?」


 帰り道に楓がふと思い出したように尋ねる。


「誰の?」


 きょとんとして尋ね返すと、楓は小さく吹き出して「百合のだよ」と言った。


「あれ、そうだっけ?」


 急いで自分の手帳を開き、日付を確認する。


「あちゃー。完全に忘れてたよ」


 そう言って私は頭を押さえて唸ってしまう。そんな様子を見て、楓は「百合にとっては誕生日より音楽の方が大事なんだね」と言って楽しそうに笑った。


「こればっかりは仕方ないと言いますか、なんと言いますか……」


「そんなに大事なライブなの?」


 楓が不思議そうに首を傾げると、彼女の腰まである艶やかな黒髪が軽やかに揺れた。それを見ていると、染髪料ですっかり傷んでしまった自分の金色の髪の毛が少々安っぽく見えてしまう。


 私も髪を染めずにいたら、彼女のように綺麗な髪の毛だったのだろうか。私は自分の髪の毛に指を入れ、軽く梳くが、指はするっと抜けることなく何度も詰まってしまう。その感覚に私は小さく溜息をこぼした。


「次のライブなんだけど、トリのバンドがもうすぐメジャーデビューするんだ。それの記念ライブなんだけど、なんかメジャーデビューするレーベルの偉い人も来るみたいでさ。それで、あわよくば私たちもーってんでみんなやる気だしてんのよね」


メンバーの嬉しそうに話している顔を思い出すと、少し気が引き締まる思いがした。


「へー! じゃあ、百合もメジャーデビューするかもしれないんだ!」


楓が嬉しそうに笑いながら私の手を握る。他人の幸せをまるで自分のことのように喜ぶ彼女を見ていると、自分も思わず笑顔になってしまう。


「正確には私じゃなくて、バンドが、だけどね。まあ、なれるように頑張ってみるよー」


ふと顔を上げると、四月の夕焼けが私の目を軽く刺激する。その刺激に、思わず目をつむってしまう。


 太陽の下を自由に歩ける吸血鬼と言っても、人間と同じように眩しいものは眩しい。


 楓が心配そうにこちらを見つめてくるから、照れくさくなり話を逸らしたくなる。


「あっ、そうだ。今度よかったら見に来てよ。チケットは友情価格で割り引きするからさー」


 楓は少し考える素振りをすると「いくら?」と、聞いてきた。


「本来は千円なんだけど……。特別価格半額の五百円でごしょーたい!」


 財布の中にしまっていたチケットを、楓の前に差し出す。


「これはもちろん買い、だね!」


 楓はそう言って嬉しそうにチケットを受け取ると、大切そうに鞄から取り出した手帳に挟み込む。そして、小銭入れから出した五百円玉を私の右手にぽとんと落とす。このやりとりも長い間続いているので、すっかり慣れてしまった。


「百合、ライブになると途端にかっこよくなるんだよねー」


「へ?」


 にこにこと幸せそうに笑いながら言う彼女に、私は間抜けな声を上げてしまう。突然どうしたんだろうか。


「だって、ライブが始まる前まではいつも通りの百合なんだけど、いざステージに上がるとどう言えば良いかな……急にスイッチが入る、みたいな?」


「みたいなって言われても……」


 確かにライブが始まると楽しくなって、色んなものがどうでも良くなってしまうのは事実だけれど、スイッチというものはいまいちぴんと来ない。


「それを言うなら、楓だって普段と違ってライブ中はぴょんぴょん跳ねてるじゃない」


 私が得意げにそう言い返すと、楓が真っ赤になってあたふたし始める。


「そ、そう?」


「そうだよー。私はステージの上からでもしっかり見てるんだからねー」


 にやにやと意地悪く笑っているのが鏡を見なくても分かる。


「もー! やめてよー!」


「ごめんごめん」


 べしべしと私を叩く彼女に、私は笑いながら謝る。


 普段はクラシックや、ジャズをメインに聞いている彼女が、私が加入したからと聞き始めたロックサウンド。正直、私自身もラスト・シガレットに加入するまではこのようなジャンルに触れることはなかった。ピアノだって、親がうるさいから嫌々でも続けていたぐらいのものだった。


 だが、たまたま学校近くのライブハウスで演奏するからと、軽音部の友達に頼まれたライブの助っ人。そのライブに来ていたラスト・シガレットのメンバーと知り合うこととなり、そこでも助っ人を頼まれることとなった。


 当時別にやりたいこともなかった私は、その申し出を二つ返事で受け入れた。そのことを軽音部の友人に話すと羨ましがられたが、そのバンドを知らない私からすれば何が羨ましいのかすら分からなかった。


 ただ、後でネットで検索したときに予想以上に人気バンドであることを知り、恐れ多くて一度きりと心に決めた。にもかかわらず、メンバーに演奏を気に入られてしまい、今もこうして演奏を続けることとなった。


 このことを楓に話すと、彼女は手放しで喜んでくれた。まさかそこまで喜ばれるとは思っていなかったこともあり、かなり驚いてしまったが、それでも悪い気はしなかった。


 正直バンドで演奏している曲調は激し目なせいもあり、受け入れてもらえるか不安だったが、ライブを楽しんでいる彼女を見ているとその心配も杞憂だったと分かる。ちなみに柚子はといえば、溌剌とした性格の彼女らしく、ダイブやモッシュに積極的に参加しているのが面白い。


「とりあえず、かっこよくなるってこと!」


 まだ少し頬を赤らめながらも、これで話は終わりとでも言うように、楓は手を叩く。響いた音が住宅街を反響して、溶けていくような。そんな不思議な錯覚を私に与えた。

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