第30話
***
私の相談事がひと段落した辺りで話は雑談に切り替わり、その後暫くして今日は解散になった。
外に出ると空はすっかり暗くなっていて、辺りは夜の繁華街らしい混雑を見せる。
「早く帰らなきゃ…」
今思えばすっかり話し込んでしまった。
夜の繁華街は少し怖い。でも印刷したい物あるからコンビニ寄って帰らないと…。
だから繁華街の混雑を避けて裏道から駅を目指した、はずだったのに。
「…?」
“それ”が目に入った時、心臓が震えた。
いつしか足が繁華街に戻ってきている。自分で望んだわけじゃない、むしろいつもは避けて帰れるはずなのに。
「あ…」
目の前が。この路地なんて。
おかしい。ここは、私が一番怖い場所。袋小路の狭い狭い路地。暗くて、人目につきづらくて、人が二人も入ったらいっぱいになる。
「いや…」
走り去ろうとした。それなのに足が動かない。どうしよう、金縛りみたいになってる。
怖い。ここは怖い。
人気のないこの建物の隙間みたいな路地で、あの人が、私を陰に引き摺り込んで。
〈怯える顔も可愛いね、楓ちゃん〉
「いや、いやだ…」
〈楓ちゃんみたいな細い女が男に敵うわけないだろ?〉
「やめて…」
声が蘇ってくる。
息遣いが、感触が、視線が、全部帰ってくる。昨日みたいに思い出してしまう。
体が震える、足がすくむ。
「!」
脚に何かが触れたような感触が、一瞬だけあった。その次の瞬間、左足が勝手に動き出す。
「なんで」
混乱してる内に右足が、上体が、何かに引っ張られるみたいに勝手に動き出す。それは目の前の暗闇から伸びているように感じた。
踏ん張って抵抗してもじわじわと体は闇に引き摺られていく。靴が地面に擦れてざりざりと音を立てていた。
「いや…やめて…」
そこは世界で一番怖い場所。
あの人が私を、
私を———とした場所。
「いや、いやぁ…っ」
思い出させないで、傷を広げないで。
やっと血が止まったところなの。新しい道を探せそうだったの。
だからお願い、お願いだから。
「誰か助けて…っ」
「すまない、待たせた」
急な声に、恐ろしさのあまり閉じていた目を見開いた。その瞬間、背中とお腹に熱を感じる。
「怖かっただろう、今助ける」
聞き覚えのある声に思わず振り向いて見上げた。顔はよく見えないけど、私はこの人を知っている…。
「けい、おす…?」
「あぁ、少し手間取って遅くなった。すまない」
まだ心臓も脚も震えていて、体に巻き付いた何かも私をゆっくりと引き続けているのに、ケイオスの腕はびくともせず私を支えていて、その熱には確かに安心できる何かがあった。
「これから少し驚くだろうが、暴れないでくれよ」
そう言ってケイオスが右手を軽く上げる。その動きに釣られてそちらを向くと、彼は呟いた。
「…燃え上がれ」
右の、手首から先が、その言葉でめらりと上がった真っ赤な炎に包まれる。
「!?」
驚いて思わず顎を引いた。
慌てているうちにケイオスは私の前に手刀のような形をした手のひらを見せ、それをゆっくりと下ろす。すると私の胸の前辺りで手刀は何かにぶつかって、何かを燃やすように煙を上げる。
「!」
段々と手刀が何かを焼き切っているその途中で、私は私の体に巻き付いていた何かから解放された。こわばっていた体の力が一気に抜けるのを感じて、そのまま震える足は膝から崩れ落ち、私の脱力した体を腹を抱えていたケイオスがそのまま受け止める。
「っと、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないよ…」
正直言って何が起きてるのかもわからない。ケイオスの手が燃えて、見えない何かに引き摺られて…何が起きているの?
「ミシェル、任せた」
「きゃあ!?」
急に体がぽいと投げられる。誰かに受け止められてそのまま上を見ると、そこにはミシェルさんが居た。
「うわっとと…! 女の子投げるなバカ!」
「ミシェルさん!?」
怒るミシェルさんにケイオスは「非常事態だ」と苛立ちながら短く返す。ミシェルさんはため息をついた後、私の腹を腕で抱えながらこちらを見て申し訳ない顔をした。
「ごめんね、今はちょっと説明できないから大人しくしてて」
「…?」
私が混乱してる内にミシェルさんが何か呟く。すると周囲が光り始めて一瞬だけ光るドームの様なものに包まれた。光はすぐに解けて、光っていた場所に触れると見えない壁のようになっている。
「一先ずこれで大丈夫なはず…」
ミシェルさんは緊張感に包まれた顔をしていた。私はその顔に状況の緊迫感みたいなものを感じて少し…不安になる。
二人がそこから少し沈黙して、その空気に息を呑むと暗い路地の方から何か、音が聞こえた。
その音は濡れた鰭でゆっくりと歩くような、そんな音。ぺた…ぺた…と濡れた歩みでそれは路地から顔を出す。
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