第20話
「ここまでで大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だと思う。ありがとう」
「では私はこれで…」
短いやりとりのあと、入り口を抜けて解散した。今日は何を読もうかな。読み聞かせしやすそうな絵本を探すのもいいし、レシピ本を探すのもいい。
「そうだ」
まずは新刊目録を見よう。面白そうな本が入ってるかも。
カウンター横の新刊目録を覗く。しばらく来てなかったから何枚か遡って見ていると、面白そうな本を見つけた。早速取りに行こうっと。
二階に登って…人気がないなぁなんて思いながら本を探す。カテゴリごとに分けられた本棚を進んで…あった、あそこの棚にあるはず。
本棚の前に着くと、目当ての本は手が届きそうで届かなそうな微妙な位置にある。背伸びをして本に手を伸ばすと、強い薔薇の香りがして、私の横から手が伸びた。
「これが欲しいの?」
その手はあっさりと本を回収して私に向ける。お礼を言おうとして相手の方を向いてから、その姿に驚いた。
長く綺麗に整えられた爪には真っ赤なマニキュアがしてあって、声も女性らしい印象だったから女性だろうとは思っていた。でも。
その女性はこの時期とは思えない、重い印象の真っ赤なコートに身を包み、目元には大きなサングラス、つばひろの帽子をかぶって足元はブーツ。真冬みたいな、暑い今の時期では信じられない格好。
そうだ、忘れられない。
動物園にいた人だ。
あの時動物園で、ずっと私をみていた人。
「どうかしたの?」
女性は不思議そうに問う。
対して私は、頭ではおかしいってわかってるのに動けない。どうしてだろう、強い薔薇の香りがする。
「いえ…」
早くお礼だけ言って、本を回収してこの場を去らないといけないって脳は言ってるのに体が固まって動けない。冷や汗が止まらない。口元が、うわ言のように動いている。
強い薔薇の香りが、意識をぼうっとさせるような。体を痺れさせるような、そんな感覚に陥ってしまう。
「体調でも悪いのかしら? こちらに来て、そこの席で休みましょう?」
「は、い…」
おかしい、絶対にこれはおかしいのに。差し伸べられた手を拒めない。体が勝手に動いてしまう。気持ちで抵抗しても動きを遅くすることしかできなくて。あの時と同じだ。
このままじゃ、私。
「八朔さん!」
叫ぶ声で意識が少し返ってくる。その声は後ろからして、誰かが私の腕を掴んだ。
それから遠くで誰か、誰かが笑う声がする。そうしたら強い薔薇の香りが少し薄くなって、足の力が一気に抜けた。そのまま床にへたり込む。
「八朔さん、八朔さん! 大丈夫? 返事できる!?」
「あ…」
まだ意識がはっきりとはしない。曇りガラスを一枚隔ててるような感じがする。
体もまだ痺れてる。何が、何があったんだろう。
「八朔さん! 返事して!」
この声は誰だろう。聞き覚えがあるような…あぁそうだ。今日聞いた声。
「み、しぇる、さん…?」
「あぁ、良かった。急に倒れ込むから心配したよ。大丈夫? どこか痛いとあるかい?」
「いたい、はないです…」
何があったんだっけ…なにか…あれ? そもそもどうして二階に? 思い出せない…どうして私、こんなところでミシェルさんに迷惑かけて…?
「まだ意識が混濁してるか…ごめんね、少し抱えあげるよ」
そう言ってミシェルさんは私の腕を持ち上げるとそのまま自分の肩に通して立ち上がった。支えられながらよたよたと歩いて空いたソファに腰掛ける。
「いいかい、ゆっくり呼吸して。ゆっくりでいい。眠るようなイメージで呼吸してみよう」
言われるままにゆっくりとした呼吸を繰り返す。そのうち呼吸の中に柑橘のようなすっきりした香りが混ざって、だんだんと意識がはっきりしてきた。
「…?」
「あぁ、よかった。落ち着いたみたいだね。持っていた物が役に立ってよかった」
「何が…どうしてここに?」
どうしよう。やっぱり思い出せない。考えていると名残のように薔薇の香りがして、本当に何か忘れてしまっているんだと訴えかけてきた。でもそれが何かは曇りガラスの向こうにあって取り出せない。
「本を取りにきたら倒れてたから驚いたよ。何があったか思い出せる?」
「いえ…何も覚えてなくて」
「そっか、今すぐ無理には思い出さないほうが良いかもしれない。体調が悪かったらいけないから送っていくよ」
「あ…ありがとうございます」
ミシェルさんは心配そうな素振りの中にも安心したような表情を見せていた。一先ず顔色は良いのかもしれない。
「気持ち悪いとかはある? 必要ならタクシー呼ぶけど」
「いえ、歩けます。外の空気を吸いたいので」
「わかった。何かあったらすぐ言ってね」
「わかりました」
その後は送ってもらって家まで帰った。本当に何があったのか思い出せないし、ミシェルさんも「不安だったら病院に行ってね」と言っていたので様子を見よう。
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