第9話


 

 ********

 

 

 食堂で最初こそ瑠衣とお茶をしていたんだけど、瑠衣も用事があってここにいるので結果的に途中で解散となってしまった。今は一人でコーヒーを飲んでいる。

 借りた資料を読みながら飲んでいたコーヒーが冷め切って半分になった頃、かけられた彼の声に何気なく振り返った。


「すまない、待たせた」

「あ、お帰りなさい。学長いい人だったでしょ?」

「え? あ、あー…そう、だな」


 ケイオスの歯切れの悪い返事に思わず「何かあった?」と聞いてしまったけど、それに対して彼は「何かあったわけではないんだ」と返してくる。違和感は感じたけど、かといって訊いても答えてくれない気がしたのでそこで追及するのをやめた。


「楓はまだ用事があるのか?」

「私? ないよ。ケイオスも用事がなくなったなら帰ろうか」

「俺は問題ない」

「じゃあ行こ? 今ならまだ電車空いてるかも」


 大学を出て駅を目指す。それこそ食堂の外はもう灼熱の暑さになってしまっていて、午前中にここに着いた時とは大きく気温が変わっていた。輝く太陽の下で汗をかきながら歩くのはいつだって避けたい。


「あっつ…」

「日の高い時間は辛いな…コンビニでも寄って行くか?」

「駅までもう少しだしこのまま行っちゃお」

「辛かったら言ってくれ」


 大学から駅までは十五分って言っても、この季節はその時間外にいるだけで体が不要な熱を持つ。何度日焼け止めを塗っても足りてる感じがしないし、駅に着いた時にはもう冷房が恋しい。


「俺は切符を買ってくる」

「はーい」


 待ってる間に付近の自販機で飲み物を一本。ケイオスにも必要だよね、同じのでいいかな?


「待たせた」

「大丈夫だよ。飲み物買ったけど要る?」

「貰えると助かる」


 ケイオスの分の飲み物を渡してから、ホームに向かって構内を移動する。電光掲示板によれば次の電車は十分後…飲み物飲んでるくらいの余裕はありそう。

 並ぶための線が敷かれた場所で電車を待つ。その間に冷えたペットボトルを開けて三分の一ほど一気に飲み干した。


「っはぁ〜、生き返る!」

「夏場に冷たい飲み物は必須だな…」


 横を見るとケイオスは額に流れる汗を拭いながら眉間に皺を寄せている。男性らしい筋の出た喉元に流れる雫をどうしてか見てはいけない気がして、反射的に目を逸らした。

 そんな私は顔が赤かったのかケイオスは体調が悪いのかと心配してくれたけど、流石になんでもないと誤魔化して飲み物を口に含む。余計なことを考えていたとは言いづらい。でも不思議そうな彼の視線に、少し良心のようなものが痛んだ。


「そういえばなんだけどさ」


 慌てて話題を逸らす。私の言葉にケイオスの視線が彼を見る私の視線と絡んだ。


「ケイオスはうちの大学で働くんだよね?」

「そうだ」

「週何回とか決まってるの?」

「一応明日からなんだが…その時に連絡用の端末を渡すと言われた。そうなれば細かいこともわかると思う」


 その言葉に少し考える。そうか、いつお仕事かわからないのか…。


「頻繁に通うなら定期券を用意したほうが良いかなって思ったんだけど…」

「定期券?」

「知らないの?」


 定期券知らない人って珍しいな…高校まで全部地元だったとか、そういうこと?


「決まった区間を行き来する場合だけ何度も使える切符みたいな。期間も決まってるしその分高いんだけど、頻繁に移動するなら元も取れるし一々切符買うのも手間だろうから良いかなって」

「ふむ…しかし今の俺ではその対価を用意できない。今日も楓に出してもらっている」

「それこそバイト代で返してくれればいいよ」


 実際最寄り駅から大学のあるこの駅までは三駅かかる。歩いて通うには時間の無駄と思うと、流石に定期券程度で文句を言おうとも思わない。


「ありがたい提案だが、ひとまず明日行ってみないことには結論が出せそうにない。それからで良いだろうか?」

「確かにそうだよね。明日教えて?」

「わかった」


 そんな会話をしている辺りで電車がが到着したので乗り込む。電車の中の冷房は飲み物より生き返る心地だった。

 電車から降りて再びの暑さを超え、なんとか家に帰ってくる頃にはへとへとで、暑さや寒さは何倍も体力を奪うのだと実感する。この過剰な気温が子供に与える影響の新しいレポート書けそう。


 帰って一息ついたら家事が待っている。洗濯機を回さないといけないと思い出して洗面所に向かって、でも回してる間は暇なので、私とは別に洗い物を片付けていたケイオスに声をかけてからお茶の時間にした。洗濯機が止まったら二人で干して、晩ごはんの準備をして…としている間に夜になる。


 少し前にこの付近の道について教えて以来、ケイオスは何度か散歩に出ていた。本人曰く「周辺をちゃんと把握しておきたい」とのこと。毎度三十分から一時間もあれば帰ってくるので、その時間に私はレポートを進めている。今日も出かけるのか薄い上着を羽織って支度をしていた。


「散歩?」


 こちらが声をかけるとケイオスからは肯定の返事が帰ってくる。出かけるならついでにアイスでも頼もうかな?


「お金あげるからアイス買ってこない? ケイオスも好きなの買って良いからさ」

「それは構わないが…俺の分までいいのか?」

「買ってきてもらうんだから当たり前だよ。これ、お金ね。お釣り出たら返してもらっていい?」

「わかった」

「ネコババしちゃだめだよ?」

「ネコババってなんだ?」

「…ごめん、なんでもない」


 小銭が無かったので千円札を一枚、お使い用のがま口に入れて渡す。受け取ったケイオスを玄関まで見送ってからレポートに戻ろうと踵を返したけど、冗談は通じなかったなと少しへこんだ。

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