第3話

 

 

 ********

 

 

「お邪魔します」

「少し待っていてください。いま拭くものを持ってきますから」


 この家に私以外が入るのはいつぶりだろう、そんなことを考えながら洗面所へ向かう。


 海外で画商をやっている両親が帰ってくることはほとんどない。クリスマスもお正月も誕生日も、全部ビデオ通話と送られてくるプレゼントだけ。せめてもの慰めなのか、クリスマスだけはサンタ名義で二個目のプレゼントが来ていたのを思い出す、そんな家。日常では時折かかってくる電話とメールのやりとりが基本で、抱きしめてくれる親の温もりというのは程遠いこの家では客人も珍しい。


 幼い頃は家政婦さんが来てくれたけど、中学を卒業したあたりで契約更新を断った。一番身近な人が家政婦さんというのが、どこか虚しくなってしまったから。

 そんな家に自分の苦手な男性を迎え入れること自体が、正直天変地異を言っていい。どうしてしまったんだろう、私は…。


 それでもなにか、何かが訴えかける。あのケイオスという男性をここに受け入れるようにと。でもそれは嫌な感覚ではなくて、助けを求めるようなその声に何かできるならと、そう思って受け入れた。


 タオルを回収するついでにお風呂を沸かしてから洗面所を出る。ケイオスさんはタオルを受け取ると「ありがとう」と言ってくれた。


「すぐお風呂沸きますので…着替えは父のものになってしまうのですが大丈夫ですか?」

「問題ない。丁寧に扱ってもらってすまない…」

「下着、未使用の渡しますが今日だけは合わなくても我慢してください…」

「大丈夫だ、貴女が気にすることじゃない」


 他にもいくつか話してるうちに風呂が沸いたと音楽が流れる。一先ずスリッパを出して洗面所まで移動してもらって、それからわからないことがあったら声をかけてもらうように言ってから洗面所を去った。ついでに着替えは後で持って行きますと言っておいたので問題ないと思う。


 お父さんの部屋に向かってケイオスさんが一先ず今日着るための着替えを探す。もう暑いからラフな格好で良いとして、下着は勿論未使用のやつで…。


「こんな感じでいいかな…?」


 用意できた着替えを持って洗面所に戻る。洗濯機の上に着替えを置くと、何やら声が聞こえてきた。


「…に…は……い。……よ…う…」


 何を言ってるかまではわからないけど、誰かと話してるような…? とにかく何か呟いてるのが耳に入った。

 でもお風呂にそんな、遠い誰かと話せるような機能はない。スマホ持ってるとも思えないし…まさか電波な人!?


「どうしよう…」


 やばい人拾っちゃったかも…!

 呟きは未だ聞こえてくる。私は慌ててスマホを取り出して幼馴染に連絡を取った。すると彼女は明日来てくれるそうなので一先ずそれで了承する。今日だけ、今日だけ耐えれば大丈夫…。怪しい人だと思わなかったから家にあげたのにやばい人だったらどうしよう…!


「あ、やばっ」


 洗面所に居たらお風呂から出たところに鉢合わせてしまう。すぐにその場を後にして台所へ向かった。冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、一口飲んでからため息をつく。


「はぁ…」


 この後私もお風呂入らなきゃ。美容院行った後だから切った髪が体に残ってるかも。

 あ、でもその間ケイオスさんどうしよう。他人の家に放置は流石に気を使うよね?


「なんかお菓子あったかな…?」


 流し台の上の戸を開ける。いくらか漁っていると、この間買ったマフィンが出てきた。


「あー…これかぁ」


 お気に入りなんだよね、このメーカーのマフィン…どうしようかな。


「んー…でも、せっかく迎え入れたし!」


 歓迎の印として出してあげることにした。演技がかった口調にさっきの呟きと、ちょっと怪しいけど…かといって悪い人ではないみたいだし。タオル渡した時お礼も言ってくれたもの…。


「大丈夫だよね…」


 適当な皿にマフィンを幾つか出して、それから飲み物も用意しないと。麦茶でいいかな。

 二つを机に持っていった辺りでケイオスさんがお風呂から帰ってきた。若い男性らしいキリッとした顔つきにお父さんのやや地味な服が浮いて見える。


「お帰りなさい」

「あぁ、助かった。ありがとう」


 まだ少し濡れてる髪が少し色っぽく見える。切長の目元が視線の動きで少し伏せるような角度になると、色っぽさを過ぎて少しだけ耽美に見えた。その姿にほんのわずかな時間見惚れてしまって、でもすぐに意識を戻す。


「…あっ! ご、ごめんなさい! 立ちっぱなしにしちゃった。私もお風呂入ってくるので、机にあるお菓子食べて待ってて下さい。飲み物もありますからっ」

「そんな用意まで…すまない」

「気にしないでください。じゃあ私もお風呂行ってきますね」


 リビングのドアを開けてお風呂に向かう。あぁ、でもその前に一言言っておかないと、そう思ってドアを半端に開けたまま振り向いてケイオスさんを見る。


「…変なことしないで下さいね?」

「?」


 とは言っても、本人はわかっていないみたいだった。私だって具体的に何が“変なこと”になるかなんて言いたいとも思わないけど。

 浴室に入ってからシャワーを出して頭から被るように浴びる。温かいお湯が頭皮から体へ流れて、その時間の空白が少し私の頭を冷やした。


「はぁ…」


 少しばかりため息をつく。勢いで行動したにしては重すぎた。人を一人拾ってくるなんて…。いくら家に人が居ないっていっても、ここは私が買った家じゃないのに。


 そしてあの予感を不思議に思う。自分の中にあるのに自分のものではないような意思が確かにあって、でも嫌な感覚はない。あれは一体、誰の意思だったんだろう。


「考えていても今は仕方ないか…」


 私はもう一度ため息をついて、頭の中を晩ごはんの献立を考えることに切り替えてから髪を洗い始める。


「今日は流石にあるもので出すしかないかなぁ…」


 私の呟きは湯気で薄く満たされた浴室の空気に消えた。


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