第5話

 それでも一度はあちらへ行こうと、四人は決めていた。だから連休の中の一日だけ、晴豊と修とささめは美世の家に集まった。ここに四人全員が集まるのは、四人が中学生になってからは初のことで、集合してからしばらくは互いの近況を話し出して止まらなかった。美世は学校の外で会う三人が想像していたよりもずっと変わっていなくて心から安心した。特に晴豊が笑ったり驚いたりと目まぐるしく表情を変えるのを見て、晴豊の感情がまだ生きていることを実感できたのが何よりも良いことだった。あの部活見学以来、二人はまともに話ができていなかったのだ。朝の通学はまだ今でも一緒に行ってはいるが、過酷な通学路では会話もままならない。

「美世、なんかボーっとしてないか?大丈夫か?」

 感慨にふける美世を晴豊が心配する。

「大丈夫、少ししゃべりつかれただけ」

「確かに少ししゃべりすぎたかもね、日が暮れる前にとっととあちらへ向かおう」

 修がそう言ってから縁側から立ち上がって四人分の湯呑と茶菓子の乗っていた皿を片付けだす。

「今日は玉美さんはお見えにならないのかしら」

 修を手伝いながらささめが呟いた。

「最近体調が優れないらしくて。今日も寝室でお休みになっているよ」

「え、玉美さん具合悪いのか。お見舞い行きたい。あ、俺が行くとうるさいか」

 晴豊が勢いよく立ち上がったせいで板の間が悲鳴を上げる。

「いや、喜ばれると思うけど、本人が大したことはないからって言い張っているんだ。あまり大事にしたくないらしい。変に気を遣わせたくもないし気持ちだけで充分だよ」

 四人は美世の家を後にして昼下がりの山道を登りだした。初夏の高地は涼しい風が吹き抜けるが、歩き続けると汗が噴き出してくる。特に代謝のいい晴豊は額や首筋から汗がしたたり落ちていた。対照的に真っ白なワンピースに青いリボンのついたつば広の帽子を被ったささめは涼しげな表情をしたままだ。一人だけリゾート地を歩いているかのようだった。

 四人が全く同じ表情を浮かべたのは、やはりあちらに来てからだった。四人はあたりを見ると目を見張り、暫く立ちつくした。今回のあちらは四人が来た中でも最も異質な景色を浮かべていたからだ。

「あ、秋、だよな…」

 唖然としながら晴豊が呟く。

「そう、だね…まずそれは間違いない」

 美世が足元の赤茶色になった落ち葉を踏みしめて応えた。そう、あちらが秋の時期であることは珍しくない。

「けど、この木々の配置は人工的というか作為的というか…あちららしくないね」

 修があたりの木々を気味悪そうに見渡す。四人の周りに広がっていたのは、直線的に並べられた木々の列だったのだ。

「これ、リンゴの木だわ。まるで果樹園ね」

 ささめが指さす先に艶やかな赤色をしたリンゴの実が生っていた。そこだけでなく、木々のあちこちにリンゴの実が生っている。

「君を贔屓にしてくださる方がお見えになるときには人工的な景色が見えることもあるけれど、今は違うよね?」

 美世の問いかけにささめは頷いた。

「お目見えになるなら、必ず私にはわかるわ」

「じゃあこの果樹園は誰のためのものなんだろう?」

「ええ、不思議ね。早く収穫しないと熟れすぎてしまうわ」

「そういうとこが気になるのか。さすが農家の子だね」

「なぁ、ここ山を切り開いて作ったみたいだし降りて他はどうなってるか見に行こうぜ。なんかあっちからも甘いにおいがする気がする」

 同じところにとどまり続けることが苦手な晴豊が美世とささめの会話に割って入る。四人が傾斜地を下りだすと、直線に並んだリンゴの木々は遠ざかっていった。そしてそのかわりと言わんばかりに地面に毬栗が転がりだす。どうやらこのあたりは栗の木が生えているらしい。

「君、素手で拾わないようにね。棘は結構痛いんだ」

「なんで俺だけに言うんだよ」

「君が一番危ないからに決まっているだろう」

「いくら俺でも生の栗食わねぇよ」

 美世の軽口は気味の悪さをごまかすつもりもあった。

「あっ、これクルミだ!ほら殻が見えてる」

 怯える美世とは対照的に晴豊がはしゃいで足元を掘り返す。

「まさに実りの秋って感じだね」

「そうね。ねぇ、あのキノコはシイタケかしら?」

「そうかもしれないけど、なんか演出過剰気味な気がする」

 修の言葉に美世は大きく頷いた。それが気味悪く感じるのだ。

「おい、あれ見ろよ。いかにも人間が作りましたって感じだぜ」

 晴豊が指さす先にあったのは、格子状に作った天井に蔓を張り巡らせるブドウの木々だった。

「リンゴ農園の次はブドウ農園か」

 呆れたように修が呟く。

「へぇ、ブドウって蔓に実ができるのか、知らなかった」

「見事な木枠ね。これなら剪定して枝が無くなってしまっても寒々しい印象は残らないかもしれないわ」

 晴豊とささめは興味津々といった感じでブドウと木々でできた天井の下に入っていったが、慎重な修と美世は入ろうとはしなかった。

「…どう思う?」

 修が主語を言わずに美世に聞く。

「とにかく収穫時期というのを強調したいように思える」

「そうだね、僕にもその意図しか読み取れない」

「肝心なのは誰が、僕たちにそれを伝えようとしているかだ」

「ねぇ、危ないわ、降りて!」

 滅多に聞かないささめの大声に二人が顔を上げると、格子天井に晴豊の足がぶら下がっているのが見えた。どうやら格子の間を無理やり上って行ったらしい。美世は慌ててその足の真下へと駆け寄った。

「どうして君は少しの間でもジッとすることができないんだ!」

「大丈夫!すぐ降りるから!」

 能天気な声とともに木枠がぎしぎしと呻いた。美世にはそれがいつ崩れてもおかしくはないぞと脅す声のように聞こえた。

 木枠の呻きは晴豊の動きに合わせてだんだん端の方へと移っていく。そして晴豊が棚の端から軽やかに降り立った。

「なんか変なのが見えた。急いで向かったほうがいい」

「心配かけさせた割に情報量が少ない!」

 美世は本当に心配したのでかなり怒れたのだが、それでも晴豊の言うことを一応は聞いて四人でブドウ農園を更に低地の方へと越えていくと、晴豊の言った〝変なの〟の正体が見えてきた。

「…まるでアリの行列みたいだ」

 視力に自信がない修が眼鏡の奥の瞳を険しくしながらそう言った。

「遠くから見るとそう見えるんだけど、よく見ると別の生き物たちなんだよ。美世の踊りを見に来ていた奴らみたいにバラバラだ」

 視界が開けて分かったのは、この先に見える平地が山に囲まれているということだ。晴豊たちが下山してきたこの山も、平地を閉じ込める壁のような山の一部らしい。異様なのはここからで、その山々から続々と何かが下りていくのだ。修にはこれがありの行列のように見えたらしい。四人の中で一番視力の良い晴豊にはその異様な行列がよりはっきりと見える。子どもたちの手を引く着物姿の女、荷車いっぱいに衣類やら米俵やらを詰め込んだ二足歩行する着物を着たワニ、大型の生き物たちの足元を滑るように駆けていく現実で見るネズミよりも一回りは大きいネズミ、貴人を乗せたらしき御簾に覆われた車輪の大きい車を引くのは耳の大きなキツネのような生き物だ。その上を赤とんぼたちが引導するように点々と飛んでいる。それらが平地いっぱいに作られた田んぼの間の細い畦道をただ黙って歩いて行っている。田んぼは田んぼで黄金色の稲穂をただ風にそよがせるだけで不気味な無言を貫いている。あたりは生き物の数にそぐわないほどの静寂に包まれていた。

「かの方たちはまるで避難の最中みたいね」

 ささめの声は静けさに押しつぶされたかのように小さかった。

「実際そうなんだろうね。山から下りてきた行列は畦道でぶつかったり合流したりしながら西日の沈む方へと向かっている」

 表情を一層険しくしながら修が応えた。

「聞いてみるか、直接」

 そう言って駆け下りようとする晴豊の襟首を美世が掴んだ。

「ノープランでぶつかりに行くのは危険すぎる。もう少し様子を見てからにしよう」

「んなこと言ってもあれに近づいていったら隠れるところなんて無いぜ?」

「そうだね、この木立を抜けてしまえば方々も僕たちを簡単に視認できるようになるだろう。でも行列の行き先は気になるな。どのみちかの方たちに近づくのは避けられないことのように思える」

 修にしては珍しく晴豊の方の肩を持つ。

「それなら私が初めに行くのが適任じゃないかしら」

「えっ、全くそうは思えないんだけど」

 この修の言葉に晴豊も美世も頷いた。

「だってあなたはまず武装しているから警戒されてしまうかもしれないし、あなたとあなたはちょっぴり人見知りでしょう?」

 ささめはそう言って晴豊と修と美世を指した。それを指摘されると三人はぐうの音もでなかった。それでも一人では、と修がささめについて行くことになり、美世と晴豊は木立の間から見守ることとなった。ささめは穏やかで優しいし誰からも好かれる子に違いないと分かってはいても、晴豊はいつでもすぐ動けるようにと緊張感を解いてはいなかった。

「大丈夫だよ、さっきは僕も反対したけれど、彼女は誰からも愛される才能を持っているのだから」

 隣にいる美世には晴豊の緊張感はもはや殺気のように感じていた。美世は晴豊が早まらないよう自分が止めなければと変な使命感に駆られていた。

 修とささめは木立から一番近い行列の一つへとゆっくり近づき、ウサギの姿で着物を着て直立歩行をする親子らしき二人連れに話しかけた。その立ち話は見ているだけの晴豊と美世にはやたらと長話のように感じた。ウサギたちは時折前足を上げたり鼻先を空に上げたりしながら何かをささめに説明してくれた。修はささめの斜め後方でいつものように俯いていたけれど、ウサギたちの話に頷いたり左手を鼻の下に持っていっていったりして、話を聞きながら何か考えている様子だった。

 最後にささめが深くお辞儀をすると、ウサギたちもお辞儀を返してまた列の中へと戻っていった。二人は向かって行った時と同じようにゆっくり歩いて木立の方へと戻ってきた。

「彼らはここはもう終わるから立ち去るのだと言っていた」

 話し始めたのは修だった。

「山や川が警告しているのが彼らには聞こえるらしい。ここはもう終わる。弱いものから早く立ち去れと告げていると」

「聞こえたか?そんな声?」

「僕たちにはわからなくても方々には察せられることなんて山ほどある」

 納得しない晴豊をそう美世が宥めた。

「警告、危険、避難…誰の意思でそれが発せられているかまではさっきの方々はご存じではないようだったわ。事情に詳しい方がいるのかもわからないけれど、そんな方があの行列にいるとは思えないのよね。少なくとも私には」

「僕も同感だ。列の方々は妙に落ち着きすぎている。きっとどの方も同程度の情報しか持ち合わせていないからだ」

 ささめと修の話を聞いて、美世にある決心がついた。

「僕たちはどんな危険が迫っているのか知らなければ。橋渡しの役なのだから」

 その言葉に修が頷く。

「それならやっぱり僕たち各々を贔屓にしてくださる方を探す方がいいだろうね。どの方もとても有力な方だから」

 前向きな二人とは対照的に晴豊は表情を曇らせる。

「なんかさぁ、わかんないんだけど、すごくわさわさしてる感じだろ?向こうも俺たちを見つけるの大変そうな気がする」

 いまいち上手く言語化できていないが、美世には晴豊の言いたいことはなんとなく分かる。

「あぁ、周りが浮足立っていてかの方たちも僕たちの前に現れづらいのではないかってこと?」

「そう!」

「ならやはり僕から始めた方がよさそうだね」

 美世は帯紐に括っていた仮面を手にした。それは白塗りの女の顔立ちの仮面だった。

「今日は若草色の着物に桃色の上着を重ねたのね。春の装いかしら」

「うん。今から舞うのは春を呼び祝う舞なんだ」

 美世は仮面を顔につけると空いた手で着物の裾から桜の枝を取り出した。これは庭の桜の枝を手折り保管していたものだ。そして濃緑の切袴で右足を一歩踏み出す。すると枝先に一つ二つしかなかった蕾が枝のあちこちに現れ一斉に花開いた。

「季節をものともしないとは、さすがだね」

 修の賛辞に美世は微笑みをもって答える。しかしそれは万全の自信を示すものではなかった。

「少し離れた方がいいか」

 晴豊はささめと修に目配せをして美世から距離を取らせた。今や晴豊はこの中の誰よりも美世の踊りを見る機会に恵まれていたのでどの範囲で踊るのかがおおよそ分かるのだ。

 美世は静かに息を吸うと目を閉じた。自分がさざ波一つ立たない水面に立つイメージが湧いてくる。そして目を開けると自分の立つ素朴な木の舞台とその周囲に広がる雪が残る黒い大地、顔を上げれば枯れ木に覆われた侘し気な山々の姿が見えた。

 良かった。自分の舞を待っている方々がいる、とやっと美世にも確信が持てた。

 調べが聞こえる。春を乞う音色が聞こえてくる。美世は枝を持つ手を水平に上げた。

 美世が一歩を踏み出したのを、三人は息をするのも忘れて見つめた。それは何かを少しでも間違えてしまえば壊れてしまう世界を見させられている者に共通する集中力だった。

 美世はただ静かに。衣擦れの音さえ最小限にして粛々と決められた足取りを繰り返した。ずっと昔に身に着けたこの動きは、自分の意識がたとえ途切れてしまったとしても変わることなく続けられるだろうと思った。

 これは春が来るまで続けられなければならない舞なのだ。

「これ、これ、今に世が閉じようとするそのさなかにかような舞をするとは罷り通らぬぞ」

 この誰かの発した声で、美世が踊っていた世界は一気にはじけ飛んだ。山々は晩秋の姿を取り戻し、舞台は跡形もなく消えて木立の中立ちつくす美世と呆然とする三人に戻ってしまった。美世の激しい怒りを湛えた瞳が、声の正体をひたと睨む。

 それはあまりにもみすぼらしい恰好をした集団だった。矢が突き刺さったままの兜を被りすり切れた着物一枚をまとうものや、脚絆や手甲は黒々と上質なもののようなのに顔を隠す笠はボロボロの者、髷が切れてざんばら頭になりながらも胴回りは鎧に身を包んだ者などまるで落ち武者の群れか追いはぎの集団のどちらかであるようだった。

 集団に一致することは、皆なんらかの形で顔を隠していることだ。

「舞の場を荒らすとは一体どちらの方か!」

 普段からは想像もできないような迫力で美世が怒鳴った。晴豊はその声に気圧されながらも急いで美世の前に走り寄り謎の集団と対峙した。

「果泥のなりそこないめ。わしらの主はもうお前なんぞに用はないぞ」

 嘲るような男の声がそう言ったが、晴豊に怒りは湧いてこなかった。

「俺をそんな風に呼ぶ奴は一人しかいない。そいつはどこにいるんだ?」

「おぉ噂にたがわず粗暴な輩よ。主様への畏敬の念が感じられぬ」

「主様はなぜにこ奴めを生かしたのか」

「力も持たぬくせに態度だけは一人前である」

「そういうのもういいから。後にしてくれ。俺はあいつはどこにいるか聞いてるんだ」

 晴豊の声音には気怠さしかないのだが、佇まいに凄みを感じた。内心かなりイライラしているな、と美世は感づいた。

「僕たちは事情を知る方にお話を伺いたいと思っていました。お願いします、かの方にお会いするにはどうすれば良いか教えてください」

 美世が丁重に頭を下げると、張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。

「聞きたくば己の足で向かうがいい。主様は常に門戸を開放しておられる」

 一人の手が山の方を指さした。袖口から出るその手は骨だけだった。修とささめは思わずその手から目を逸らしたが、晴豊は持ち前の視力で指さす先に建物のようなものがあるのを確認した。

「前に会ったときは建物なんかに入ってなかったけどな」

「もしそれがかの方の館なのだとしたら、以前より気に入られたのかもしれないね」

 目を凝らしながら美世が言った。

「なぁ、あれに行くにはさぁ」

 と、晴豊が視線を胡乱な集団に戻すと、彼らはもう跡形もなく消えていた。四人の中に彼らがいなくなったところを目撃した者はいなかった。

「危ないかもしれないけど行ってみるか?」

 晴豊が三人に聞くと三人とも仕方なさそうに頷いた。

「危なそうなだけじゃなく遠そうでもあるけどね」

 最後に修がぼそりと付け足す。山を下りてきた時点で一番体力のない修はもうクタクタに近かった。

「しんどいなら俺がおんぶしようか?」

「君は僕たちの最大戦力なんだから手は常に開けておかないとダメだよ」

「じゃあ私が」

「それはもっと非現実的だ」

「…じゃあ僕が」

「君までノリを合わせなくていいから」

 などと無駄口を叩きながらも、汗を冷たく乾かしてくれるような秋風に吹かれて歩けば歩けてしまうもので、四人はいつまでたっても沈まない夕日を浴びながら建物を目指した。親切なことに山すそからは石段が設けられていたので予想よりも早く到達できそうだ。晴豊は石段を二段とばしに駆けあがりたいところだったが、三人から離れすぎては危険だと理解していたので大人しく先頭に留まっていた。

「誰が作ったんだろうな。この階段も、あっちにあった果樹園や田んぼも」

「作った誰かがいるのかもしれないし、僕らにはそう見えているだけで実体はないのかもしれない」

「んーつまり誰かが見させたい景色かもしれないってことか?」

 晴豊が意外にも美世の考えていたことの核心をついてきたので、美世は少々たじろいだ。

「初めはただ収穫時期というのを強調したいということしかわからなかった。でも避難する方々が現れて意味合いは変わったと思う」

 修が鼻に手を添えながら小声でつぶやいた。声が小さいのはいつものことだが体力を消耗しないようさらに小さな声になっている。

「警告ね。収穫物を置いてでもすぐに逃げるように、といったところかしら」

 ささめの言葉に修が頷いた。

「でも一体何を警告したいのかが分からない。あえてここまであやふやにする理由もね」

「まぁそれはあいつに聞けばいいか。前にあった時も粟見最大の危機が~みたいなこと言ってたし」

「君って本当に恐れ知らずの身の程知らずだね」

「よくわからんけどなんか馬鹿にしてるだろ」

 石段を登り切った先にあったのは、四人の想像を上回る廃れ具合の建物だった。雨戸は外れかけ、障子は破れ、屋根から落ちた屋根瓦があたりに砕け散って散乱している。戸が壊れかけているせいで縁側には落ち葉や砂が入り込み、屋内は明かりが点いていないからかやけに暗くて見通せない。一言でいえば、あまり入りたいとは思えない家屋だ。

「…手入れをしていないにもほどがある」

「そうだね、まるで廃屋だ」

 美世と修は不快感を隠せずに言った。

「これもかの方の心象をあらわしているのかしら」

「そんな大したことじゃねぇだろ。掃除するのがめんどくさいだけじゃねぇか?」

「いや、掃除くらい配下のものがいくらでもできるだろうし」

「じゃあその辺も聞けばいいだろ。もうちょっと掃除しろって」

 話を引き延ばして家屋に入るのを躊躇う美世とは裏腹に、晴豊はさっさと縁側の前で靴を脱いで家屋に入る。さすがに土足で入るのは失礼だと思ったのだ。

「おーい!俺だよ!ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「まるで友達のうちにでも来たみたいな気軽さだ。とても真似できないよ」

 修が呆れながらも晴豊に続く。

「君たちはここで待っていることにする?」

 育ちのいい二人を気遣って修は訊ねた。

「ぼ、僕は平気だ」

「あら、私も平気よ。行きましょう」

 嫌悪を隠しきれない美世と内心を悟らせないささめも家屋に上がり込む。三人は先に行った晴豊よりも慎重に、暗がりの中を踏み出した。足もとには常に砂のざらついた感覚があり、枯葉を踏むたびに何か良からぬものを踏んだのではないかと、美世は気が気でなかった。半端に家屋のような形だから余計に怖いのだ。これが洞窟みたいな自然のものだったら、人間基準の清潔さなんて求めないし靴だって脱がない。美世は晴豊に倣って靴を脱いだことをかなり後悔していた。

 パァンッと思わず首をすくめたくなるような破裂音がシンとした屋内に鳴り響いた。三人はロクに互いの顔も見えない中目を合わせようとした。

「ダメか、全然起きねぇな」

「はる…ねぇ!何があった?大丈夫?」

 同様のあまりつい名前を呼びそうになりながら美世が叫んだ。

「お前たちそこで止まってくれ!少しでも進んだらこいつの体を踏んじまう」

 三人はピタリと足を止めた。

「君には周りが見えているのか。どういう状況か教えてほしい」

 美世の左やや前方から戸惑う修の声が聞こえる。

「んーと…俺たちは畳の部屋にいて、俺とお前らのあいだでこいつが寝そべってる。声をかけても体をつついても目を覚まさないからさっき横っ面を叩いてみた。全然起きねぇ」

「そういう危険なことをするなら事前に話してくれ!もしかの方が目を覚ましていたら君も僕たちも命がなかったかもしれないじゃないか!」

 美世が本日三度目の怒りを込めた叫び声をあげた。自分の声で起こしてしまうかもしれないなどというおそれは怒るあまりすっかり失念していた。普段こんなに短期間に怒り声をあげることなどないので頭が痛くなる。

「あぁ、ごめん。でも多分大丈夫だ。なんかいつもと違う感じがするんだよ。こいつ体調悪いのかも」

「それは心配ね。やつれていたり顔色が良くなかったりするのかしら」

 ささめが心底心配しているように訊ねた。

「見た目はそんなに変わんねぇんだけどさぁ。なんか前に見た時よりすげぇ弱そうなんだよ」

「弱そう…覇気がないといったところだろうか」

 修が晴豊の感覚をなんとか自分たちにも分かる言葉に変換しようとする。

「知らんけどそんな感じじゃねぇか?多分」

「君だけこんなに暗いのに視界が良好そうなのも気になるな」

「俺は島にいた時から割と夜でも目が利いたんだ」

「それなら僕たちだって多少見えてもいいはずだ。でも明かりのない屋内ということを差し引いても視界が悪すぎる。外の光が一切入っていないように感じるんだ。他の二人もそうだろう?」

「「うん」」

 ささめと美世がそろって答えた。

「僕たちがここにいても拾える情報なんてなさそうだよ」

 美世はさりげなく退出を促した。

「そうだな、俺もこいつが当分起きなさそうってことしかわかんねぇし、出るか。出口はみんな分かるか?」

「ええ、入ってきた縁側は見えるわ」

「じゃあ俺が最後に出るよ…ん?」

「どうした?」

「なんでもない、あとで見せる」

 四人は家屋から脱出すると、家屋と石段との間に車座になって座り込んだ。誰もが当分立ち上がりたくないほどに疲れていた。

「なんだっけなぁ、これ」

 晴豊が四人の真ん中にポイッと投げ出したのはシワだらけの紙だった。

「何って…へのへのもへじだろう?」

 中身を見た美世が言う。へのへのもへじは紙面いっぱいに、筆で描かれていた。

「なんとも間の抜けた文字だね」

 その修の感想が、晴豊に何かを思い出させようとした。が、出てこない。

「なんか見たことある気がするんだよなぁ」

「見たことない人の方が少ないんじゃない?田んぼにだって黒板にだって教室の机にだってたまに描かれているだろう」

 このしわくちゃの紙がさほど重要とも思えない美世がやや投げやりに言った。

「そういうのじゃなくて、なんか…気のせいか…」

 晴豊は脳内の記憶を引っ張りだそうとするのを諦めて空を仰ぎ見た。茜色の空がやや暗さを増したように思える。

「もう夜になっちまう」

 何の意図もない晴豊の呟きが、何かを予感させるような気がしてならない。美世は自分の懸念を三人に伝えたいと思ったが、移ろいゆく空に言葉は全部流れていって結局何一つ言えなかった。

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