第4話

 先週から雨の日が続いている。おかげで今日も自転車通学を断念した美世は、部活を終えて校門から三十メートル程先にある粟見直通バスのバス停まで歩いていた。同じ吹奏楽部に入部した一喜とは家の方向が真反対なので校門で別れてから一人で歩いている。慣れない動きをした後の程よい疲れで、美世はいつもよりもペースを落として少しぼうっとしながら歩いていた。

同世代と大人数で行動するという経験が少なかったからでもあるのか、仮入部期間を経て正式に入部をした吹奏楽部の練習は、普段の稽古とはまた違った気疲れのようなものを感じさせる。目上の方に敬意を払うのは当然だし今までだってそうしてきたけれど、言葉遣いや立ち位置などこんなに事細かに指摘されるとは思わなかった。稽古場で常に最年少だった自分が甘やかされていたということなのか、年齢が近いほど上下関係を厳しくすることで優位性を証明しようとするのか。そんなことを頭の中でいくら分析したって現実が変わるわけでもないし仕方ないということも分かっている。

 バス停にはすでに何人かバスを待っている人が集まっていた。いつもバスの大きさに対して乗車人数が少ないので誰も行列を作ろうとせず、それぞれ適当に立っていたり座っていたりしている。その中にひときわ可憐な人物がいるのを美世は見つけた。

「ささめ」

 美世の声にささめがパッと顔を上げた。

「美世、久しぶりね」

 その笑顔は雨の中でも一筋の光のように眩かった。

「珍しいね、こんな時間に帰りだなんて」

「ええ、ちょっと頼まれごとがあって」

 詳しく聞こうとする前に、バスが到着した。二人は悲鳴のようなブレーキ音を出しながら停車したバスに乗り込んだ。

「そういえば聞いた?晴豊の話」

 美世は無意識に話題を晴豊のことに変えていた。

「仮入部で散々運動部の連中を驚かした挙句どこにも入部しなかったんだって」

 あえてぞんざいな言い口にしてささめを笑わせようとする。美世にはささめが平静を装いつつも何か感情を隠していることが分かっていた。

「聞いているわ。晴豊はどこへ行っても目立ってしまうもの」

 ささめが柔らかに笑う。

「今度上級生と対決させるって一久が張り切っているんだ。本人は迷惑そうにしていたよ」

「大丈夫よ、あの人は女の子を乱暴に扱ったりしないから」

「えっ、ささめは知っているの?晴豊の対決相手」

「…えぇ。最近知り合いになったばかりだけれど」

 憂いなのか気恥しさなのか、ささめは頬を赤らめて視線をそらした。初めて見る表情だ。幼い頃から一緒にいるのに。

「…どんな人?」

 ささめの頬がさらに赤くなる。

「まだ出会ったばかりだし、分からないことも多いけれど、悪い人ではないわ。少し強情が過ぎるところがあってなかなか他の人の意見を受け入れられないことがあるけれど」

「それだけ聞くとあまりいい人にも思えないのだけれど」

「ふふふ、そうね、良い人ではないかもしれないわね」

 なんだかこの人物について言及すればするほど、ささめが遠のいていく気がする。

「でもね、彼は自分より立場の弱い人に強く出ることはないの」

「弱い?晴豊が?」

 美世はキツい言い方にならないように用心しながらもハッキリさせたいことを聞いた。

「ささめは晴豊が負けると思っているの?」

 ささめは困ったように少しだけ間を置いて、

「ええ、彼には敵わないと思うわ」

 美世から目をそらさずにそう言った。

 ささめの背後で本降りになった雨が、バスの窓を叩いていた。

  決闘の日はゴールデンウィークを明日に控え、誰もが気もそぞろな木曜日だった。

しかもそのスケジュールが晴豊に通達されたのは決闘の日の前日で、晴豊はその翌日に準備も何も取り合えぬまま運動場に連れ出された。誰に連れ出されたのかと言えば、もちろん一久とその取り巻きたちである。一久はこの決闘話をきっかけにして小学校時代と同様に取り巻きたちを集めていたのだ。

 辛うじて体操服を着るだけの猶予は与えられていたので、晴豊は半袖短パン姿で運動部の部員たちが各々の領地を整備していくのを見るとはなしに見つめていた。晴豊が待機場所として間借りしているこの校舎の陰は、普段から陸上部が休憩場所として使っている場所で、部員たちが適当に置いて行った荷物のせいで足元は狭いが初夏の始まりを伝えるすがすがしい風が吹いていて心地良い。

「随分余裕そうじゃん」

 ニヤニヤしながら話しかけてきたのは、最近よく一久と行動を共にしているいちいち反応が大袈裟な女子だ。晴豊はこの子の名前があやふやだった。

「初めの一戦は五十メートル走。日が暮れたら出来ないからね。陸上部がウォームアップしてる間にちゃちゃっとやるんだって。一久君がオウジサマを連れてくるって言ってたけど、遅いなぁ」

「みんなオウジサマって呼ぶから俺その人の名前まだ分かんないんだけど」

「あはははは!ウチも名前聞いたけど長すぎてすぐ忘れちゃった!オウジサマの方が覚えやすくていいじゃん」

 校舎側の方で黄色い歓声と、それを遮る一久の声がした。

「来たみたいだね」

 晴豊も女子に続いて振り返ると、周囲に手を振る明らかにオーラの違う男子が見えた。まず目立つのは背の高さだ。隣を歩く一久よりも頭一つ分以上は高い。しかし人目を惹くのはその身長だけではない。

「やぁ、君がハルトヨ君かい?」

 晴豊を見つけてニコリと微笑むその瞳は透き通るような翠色で、白に近いウェーブがかった金色の髪が陽の光を跳ね返す。同じ学校指定の体操着を高価な有名ブランド品のように着こなす姿になるほどこれはオウジサマだ、と晴豊はひどく納得した。

「三年のライアン・グリーンフィールドです。今日はよろしくね」

「あぁ、はい、よろしく…お願いします」

 差し出された右手を握り返すと、校舎の窓から歓声とシャッター音が聞こえてきた。見上げるといつの間にか集まってきたギャラリーが携帯を片手にわいわいと喋っていた。

「君たち!落っこちないように気を付けてね」

 オウジサマ、もといライアンがそう声をかけるとギャラリーから悲鳴が上がった。

「チッ、客が集まりすぎると面倒なことになりそうだ。とっとと始めるぞ」

 首からストップウォッチをぶら下げた一久が二人をスタートラインへと誘導する。ライアンはスタートラインに立つと慣れた手つきでスターティングブロックの調節をした。晴豊のは近くに立っていた陸上部員が調節してくれた。どうやらこの人がスタートの合図を出してくれるらしい。

「頑張って。アタシはあんたを応援しているよ」

 晴豊は話しかけられてやっとこの人が陸上部女子の部長だったことを思い出した。部活見学に来た晴豊を熱心に陸上部に入るよう勧めてくれたのだった。

「サユリ、僕にも応援の言葉をくれないか?」

 ライアンが気さくに部長に声をかける。

「アンタはアホみたいに応援されてるじゃんか」

「今一番僕の傍にいるのはサユリだから君の言葉が欲しいよ」

「…アンタのそういうところが信頼できないよ」

 そう言いながらも部長の日焼けした肌は更に赤くなっている。

 スターティングブロックに足をかけると、周囲の雑音が消えてただゴールだけが晴豊の目に映った。すると晴豊の中に今までにないほどスタートを心待ちにする気持ちが高まってきた。同じスタートラインに立ったことで、ライアンが今まで競ってきた誰よりも強者であるという予感が湧いたからだ。

 勝ちたい、と今までのどの瞬間よりも純粋に思った。

 スタートを告げる声がした。晴豊は意識と無意識のはざまで飛ぶように駆け出した。すぐ隣を自分と同じように駆けていく気配がある。勝ちたい、と思うと同時にこの瞬間がずっと続けばいいのにという矛盾した思いがせめぎあう。全力を出して挑むことがこんなにも楽しかったとは。しかしそう感じた時にはもう決着がすぐ目の前に近づいていた。

「晴豊、六秒二!」

「ライアン、六秒ゼロ!」

 ストップウォッチを持った一久ともう一人が叫んだ。練習そっちのけで見守っていた陸上部員やサッカー部員らから歓声が上がった。

 あぁ、負けたのか。と落ち込むよりも前にライアンが満面の笑みで晴豊にハイタッチを求めてきた。

「すごいじゃないか!君は二年前の僕よりも確実に早かったよ!」

 ついさっきまで全速力で走っていたとは思えないほどの爽やかさの放出だ。

それに応えようとする前に一久が晴豊の背中をバシッと叩いた。

「オラ!次の勝負行くぞ!そういう親睦を深める的なやつは全部が終わってからにしろ!」

 それから怒涛の如く晴豊とライアンの対決は続いた。

 陸上部と同じグラウンドを使うサッカー部に場所を借りたPK対決は、十一蹴目にしてライアンの好セーブにより決着がつき、野球では互いが投手、打者となって対決するとヒット数一本の差でライアンが勝利し、テニスではライアンのサービスエースで決着が決まった。それから室内競技に移動すると、バレーボールでは晴豊がスパイクを決めた本数一本差で負け、バスケットボールのフリースロー対決も一本差で晴豊が敗北し、バトミントンでもライアンにスマッシュを決められて決着がついた。

 どの種目も最後まで決着が分からないギリギリの勝負だったが、最終的にはライアンがすべての競技で勝ちを掴んだのであった。

 すべての対決を終えた頃にはもう夜が近づき、結末を見届けた観客たちは潮が引くように帰って行った。これだけの対決種目を抱えていたのに一日で終わることができたのは、一久の行動力とプロデュース力がずば抜けていたからに他ならない。集客と各部活との交渉により知名度をグンと上げた一久は満足気な顔をして帰って行った。

 自然と晴豊とライアンは一緒に帰り道を歩き出した。最後の試合が行われた体育館から校門までの距離は無言のままで歩くには少し長すぎた。

話しかけてきたのはやはりライアンの方からだった。

「君は昔から何かスポーツでもやっていたの?」

「いや、体を動かすのは好きだったけど、特には…です」

「じゃあ生まれ持った才能だね。素晴らしい能力だ」

「いえ、ラ、先輩には完全に負けてましたし」

「ははっ、ライアンでいいよ。君の丁寧語は少し不自然だね」

「すいません」

「いや、偉そうなことを言ってごめんね。僕も人のことを言える立場じゃない。日本語は去年から勉強し始めたばかりだし。話し方に変なところがあったら教えて欲しいな」

「マジで?もう俺より日本語上手いじゃん」

 驚きのあまり晴豊は敬語を忘れてしまった。ライアンはまた朗らかに笑った。

「僕は見ての通りこの国出身の人間ではないのだけれど、ルーツの一つがこの国にあるのは確かでね、どうしても来てみたくなってしまって家族に無理を言ってここに通っているんだ」

「ふーん。そんなに来てみたかったんだ」

 晴豊は慣れない敬語を無理に使うのを諦めた。

「うん、どうしても。やりたいことがあってね」

 それは何かと聞く前に、二人は駐輪場の前まで来てしまっていた。

「あ、俺チャリ通なんだ。先輩は?」

「僕は迎えの車に来てもらっている」

「そっか、じゃあ。お疲れ様?でした?」

 晴豊は仮入部で聞いた先輩への挨拶を真似てみた。

「ああ、それ帰り際の挨拶だよね。僕それあんまり好きじゃないな、なんかマイナスなイメージがあるから」

「じゃあ…また今度、とか?」

「うん、また今度」

 ライアンはカラッとした笑顔とともに片手を振って去っていった。晴豊は一人で駐輪場の屋根の下へ入ると、なぜか過度な緊張感から解放されたかのような気がして長い溜息をついた。そういえばつい最近、これに似た緊張感をどこかで味わったような気がしたが、あえて思い出したいとも思えない。

 ただほんの少しだけ、晴豊は連休明けに学校へ行くのが楽しみになっていた。

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