第2話
二
「おい、赤野、ちょいツラ貸せよ」
威圧感のある一久の声にクラス内は一瞬静まり返り、その中でも一喜は特に怯えるように肩を竦めた。すぐ向かいに呼ばれた本人である美世が座っていたが、美世に戸惑う様子はなく少し迷惑そうな顔をすると落ち着き払って席を立った。
「ごめん、ちょっと行ってくるよ」
一喜は色白な顔を更に蒼白にして頷いた。友達になってまだ日も浅いけれど、繊細で気の弱いところのあるこの友人にとって一久は刺激が強すぎるのだろう。美世は別にそんなに心配しなくてもいいと伝えたかったのだが、もたもたしていると気の短い一久が急かしてくるかもしれないしそんなことがあれば一喜がさらに委縮してしまうだろうと思い、さっさと一久に続いて教室を離れた。
一久が向かったのは一組の教室の方で、一組は一久のクラスであるはずなのに教室には入ろうとしなかった。そのかわり近くの柱に凭れ掛かると美世にクラスを見てみろ、と偉そうに腕組みをして言った。学ランを脱ぎボタンを余分に外したワイシャツの下から派手な赤色のインナーをわざと見せつけているその姿は、とても入学して僅か二週間ばかり経過しただけの中学一年生には見えない。
美世が教室を窺い見ると、自分のクラスと変わらず昼休みの喧騒に包まれた普通の教室が見えた。机に座って談笑する男子、数人で固まって何やらヒソヒソ話し込む女子グループ、それらには混じらず一人で本を読んだり勉強をしたりする子たちもいる。
一体何を見せたかったんだと思い美世が一久の方を振り返ると、一久は渋い顔をしたまま顎でもっと教室を見るようにと促した。
そうは言っても。このクラスにいる知り合いなんて晴豊くらいだし。
と思ったところで気が付いた。そういえば晴豊はどこにいるんだろう。美世は晴豊の姿をグループで固まっている子たちの中に探し始めた。しかし晴豊はどのグループにもいない。もう一度クラスにいる一人一人を見分けるように探すと、窓際の前から三番目の席で背中を丸めて座るひょろりと細長い女子生徒の姿が目に入った。
「えっ、あれが晴豊?」
「そうだ」
一久はやっと背中を預けていた柱から体を離した。
「俺とケンカした話がもう広まった。アイツはヤバい、暴力を振るう奴だってクラス中から敬遠されてる。敬遠なんていいもんじゃねぇか。シカトだな」
「そんな、どこから」
「俺はしゃべってねぇからな。ってか噂の出どころなんて探すだけ無駄だろ」
「でも、本人なり誰かがそんなの否定すれば」
「あいつ自身は何の言い訳もするつもりはねぇぞ。本当のことだからってな。そんなん言われたら俺だって事実を捻じ曲げて話するわけにもいかねぇし。ウチのクラスの粟見の奴らは当てにならんし。あいつクラスに味方ほとんどいねぇんだよ。ありもしないこと言われてる分俺とケンカした直後よりも空気悪いかもな」
「…だからって僕に相談しても何も解決できないって知っているだろ?」
「冷てぇな。それでも粟見のボスかよ」
「粟見のボスを名乗った覚えはない」
でも、晴豊が心配な気持ちはある。
「…放課後の部活見学に晴豊を誘ってみる。その時に今のクラスをどう思っているかとかそれとなく聞いてみるよ」
「どの部活に行くつもりだ?」
「吹奏楽部」
「正気か?あいつ運動できるかわりに芸術的センスなんて何一つ持ってないことぐらい知ってるだろ?」
知っている。誰よりも。
*
美世から吹奏楽部の部活見学に行かないかと誘われたときには、美世もついに正気を失ったのかと思った。
「最近仲良くなった子と一緒に行く約束をしていたのだけれど、二人だとまだ間が持たなくて。君もついてきてくれたら心強いと思ったんだ」
なるほど。美世は人見知りなところあるからな。今の自分が役に立てる自信はこれっぽっちも無いけれど、いるだけでいいなら、いいか。
と思ってついてきたのだけれど、晴豊は案の定楽器にも演奏にも興味が持てなかった。しかも最近友達になったという割には、美世とその新しい友人の一喜とやらはどのパートの練習を見に行っても終始会話が弾んでいる。こっちは楽器の名前を覚えるだけでも精一杯だというのに。今見学しているこの長いラッパみたいなやつの名前は、トロンボーンって言ってたっけ。ついさっき聞いたのにもうあやふやになってきている。それだけ覚える気が無いということなのだろう。晴豊は誘ってくれた美世にも練習中の先輩方にも失礼にならないよう、あくびをかみ殺し神妙な表情を保つことだけに必死になっていた。
晴豊は自分が真剣な顔をするとどれだけ恐ろしい表情となっているのかを知らなかったので、初対面の一喜や話しかける機会をうかがっていた美世がどれほど気後れしているかが分からなかった。
ただ、練習を真剣に見ている体を装いつつも窓の外に雨を降らせそうな雲が広がりつつあることが気になりだしていた。
「悪いけど、俺はもう帰ろうかな。雨降りそうだし」
これはむしろ好都合かもしれないと思い、晴豊は切り出した。
「えっ、じゃあ僕も」
「美世はバスで帰れよ。部活、もっと見てたいだろ?」
「でも僕も自転車で来ているし」
「学校に置いていけば?明日バスで登校して帰りに乗っていけばいいし」
晴豊の目が落ち着きなくあたりを見回している。慣れない音楽鑑賞に忍耐力がもう限界に達しているのだと、美世は瞬時に理解した。
「待って、一個だけ聞かせて。君、今困っていることはない?」
その質問は晴豊には抽象的すぎた。
「…無いよ。美世は?」
「…僕も今のところ無い」
「そっか、良かった。じゃあまた明日」
晴豊は見学の案内をしてくれたパートリーダーの先輩に挨拶をすると自分の座っていた椅子を片付け始める。その背中を呼び止める言葉が出ない。考えあぐねているうちに晴豊はさっさと教室を後にしてしまった。
「もしかして、僕、邪魔だったかな?」
隣の一喜がそうつぶやいたので美世は慌てて言葉を紡いだ。
「いや、全然、僕が勝手に誘っただけだし、もともと君と見学するつもりだったし、そもそも晴豊は興味ないだろうなって分かってたし。一喜君は全然悪くないよ。僕が中途半端だったんだ、ごめん」
矢継ぎ早に繰り出される言葉がおかしかったのか、一喜は少しだけ笑った。
「美世君が慌てるのを初めてみたよ」
*
一人で自転車を漕いでいると、頭の中に自分が今日という一日をどう過ごしていたかが浮かんでは消えていく。大して面白かったと思うこともなければ辛いと感じたことも無い。だから回想はすぐに終わってしまう。そして今日という日の感想も昨日と大して変わらなかった。
一人ぼっちの教室にはもう慣れた。島にいた頃も一人の時が多かったし。別に寂しくはない。確かに周りに人がいないからの一人と集団に加わることができない一人ぼっちとは少し勝手が違うけれど。
そこまで考えて美世に部活見学に誘われた意味が分かりだした。
そうか、気を遣ってくれたんだ。道理で昼休みにウチのクラスを覗いていたわけだ。一久も近くにいたみたいだし何か言われたのかもしれないな。
美世の行動には納得したものの、じゃあどうすればいいのかはさっぱりわからない。
俺は別に今のままでもいいと思っているんだけど。外から見るとやっぱりだめなのか。
晴豊は考え事をしながらも足場の安定しない山道をするすると登って行った。障害物を避けるためのハンドル捌きも衝撃を和らげるための重心移動も、ほとんど無意識のうちにこなしている。
その思考とは別に働く潜在意識とも呼べそうな無意識が、何かの気配をとらえた。
晴豊は急ブレーキを踏むと軽やかに自転車を飛び降りた。そのまま少し前かがみになってあたりの気配を伺う。この通学路を使い始めてまだ間もないが、シカやタヌキなど野生動物の足跡や糞を見たことや実際に動き回る彼らを見たことならあった。彼らはこちらの気配に敏感だがこちらに興味が無いことが分かると向こうも無関心になる。
でも今感じているものはそれではない。なぜなら姿も見えない相手から息苦しくなるほどの注目を感じるからだ。その圧に押されて晴豊の首筋に汗が流れた。
相手はこちらへ強く関心を持っている。執着とも言えそうだ。しかしどこに潜んでいるのかが分からない。晴豊は右手を腰に当て、自分が刀を持っていなかったことに気が付いた。
当たり前だ。あちらにいるわけじゃないんだから。
「でも、」
晴豊の口から漏れ出た言葉を合図にしたかのように、頭上から何かが降ってきた。晴豊は自分にぶつかられるすんでのところで転がるようにしてそれを躱す。そしてその転がった勢いを生かして立ち上がり、何が起こったのかを確認しようとした。
自分がほんの少し前までいたところにヒトのようなものが落ちていた。勢いが勢いだったのか、顔を含めた体の表側が地面にめり込んでいる。後ろ側しか見えないので何とも言えないが、身に着けているのは学ランのようだ。
「お前さぁ、マジ、ふざけんなよ…」
そいつはぶつくさ言いながらもゆっくりと起き上がった。晴豊の脳内はそいつがひとまず生きているようだという安心感と、得体のしれないものに出会った恐怖感とが衝突し、ひどい混乱状態となった。
そいつが起き上がっても背丈が自分と同じくらいで、学ランを着ているということくらいしか分かりようがなかったことが混乱にさらに拍車をかける。なぜ分からないのかと言うと、顔には紙が貼られ、髪は学ランの下に着たパーカーに全て覆われてしまっていたからだ。ふざけたことに顔に貼ってある紙にはへのへのもへじが描いてあった。
「避けるのはナシだろ。俺じゃなかったら死んでたぞ」
声は男だ。顔を隠しているくせに体についた土がちゃんと見えているようで汚れた箇所を手で叩いている。そして叩き終えると、
「おーい、聞こえてる?なんか言えよ」
と晴豊にまた文句を言った。何の感情も読み取れなさそうなへのへのもへじがこっちを見ている。なんとも間の抜けた字面なのだが、自分の呼吸の音がうるさく感じるほどの緊張感がぬぐえない。
「誰だ、お前」
晴豊の声は掠れていた。
「おいおい、服見りゃあ分かるだろ、俺はお前の先輩だよ」
へのへのもへじが〝も〟の部分に人差し指を添えながら答えた。分かりやすくかっこつけていやがる。
「お前が分かりやすく道に迷ってるから助けに来てやったんだ。ありがたいだろ?」
「迷ってねぇし。さっきから意味わからん」
「まぁ聞けよ。先輩の言うことは大体間違っちゃいねーんだから。お前このままじゃあ青春を棒に振るぞ」
へのへのもへじは晴豊が横倒しにした自転車の前輪部分を下敷きにして座りだした。
「やめろ、壊れる」
「大丈夫だって。俺バランス名人だから。ンなことより今から説教だから。お前も座れよ」
晴豊はこの男に従おうなどという殊勝な気持ちなど一切持っていなかった。だから男の言葉尻とほぼ同時に大きく踏み込み、一息に座る男の後方に回り込むと自転車のハンドルを持って持ち上げようとした。もちろん男を振り落とし自転車に乗って逃げるためである。しかし晴豊の手が届くよりも先に男が晴豊の右腕を掴んだ。
「おいおい、人の話は正面で聞くもんだぜ」
男は腕一本で晴豊を自分の前まで引きづりよせた。文字通り動かしたのは腕一本だけで胡坐をかいた姿勢どころか顔の向きさえ微塵も動かさずにやってのけてしまったのだ。それは晴豊にとって最近では経験しなくなった感覚だった。つまり力で敵わなかったのだ。
「お前には目的意識ってのが欠けてる」
唖然とする晴豊を気に欠ける様子もなく、男は立て板に水のごとく話し出した。
「お前の言いたいことなら分かるさ。今までだって目的なんて持って生きたことないって言いたいんだろ?そうさ、今までのお前に目的なんて必要なかった。でもこれからのお前には必要だ。何でかって?今のお前が退屈してるからだよ。そう退屈!これは一番タチの悪い病だ。持ってていいことなんか一つもない。ただ何もしないことを退屈って言うんじゃないぜ、つまんねぇなって思い始めることが退屈の始まりなんだよ。ここまで言えば分かるだろ?毎日つまんねぇなって思ってるお前には目的ってもんが欠かせないんだよ」
言っていることは滅茶苦茶で押しつけがましいことこの上ないが、その一方で心の中のモヤモヤを言い当てられたような心地もする。晴豊は力で敵わなかったからではなく、自分の意思でこの男の話を聞き始めた。
「じゃあ目的はどこにあるのかって?そこまで面倒は見きれねぇよ。自分で見つけるから意味があるんだ。人からもらった目的なんて達成できないかできたとしてもつまんねぇからは解放されねぇよ。お前はすぐにでも目的探しを始めなきゃいけない。俺はそれを伝えに来たんだ。今日のところはな。ありがたい先輩だろ?こんな面倒見のいい奴はなかなかいねぇよ?お前はラッキーだ。ラッキーと言えばこの自転車扱いが雑なくせに傷が少ないな。まぁ、あれだ。コレも俺のおかげだ」
話がやや脱線しだしている。これ以上関係のない話が出る前に、晴豊は口を挟むことにした。
「今日、部活見学に誘われたんだ。楽器とかよく分かんなかったけどなんか楽しそうだった。俺も部活やってみようかな。体動かすやつとか」
へのへのもへじの紙の向こう側でにんまりと唇が真横に伸びた。ゾッとする笑い方だ。
「そうだ、それがいい」
男はタイヤの上から立ち上がり、自転車のハンドルを無駄に回しながら持ち上げた。
「俺はいつでも傍にいる。会いたくなったらいつでも来ると良い」
そう言いながら妙に恭しくハンドルを渡す。
「別にお前に会いに来たわけじゃない。ここは通学路だ」
「じゃあ俺の気が向いたら会いに来てやろう」
そう言い残し男はおそらく自分が落ちてきたのであろう崖をよじ登りだした。無駄の少ない慣れた動きだった。晴豊はその姿が崖の向こうに消えるまで見送る気持ち半分警戒半分に目を離さずにいた。姿が見えなくなると、全身から力が抜けるような大きなため息をついた。
正体不明すぎて妙に警戒したが、本当にただの先輩だったのかもしれないし、ヤバい奴なのかもしれない。深く考えるより前にここから立ち去った方が良さそうだ。
また自転車を漕ぎだした晴豊にこの男の正体を考える時間はしばらく訪れなかった。
それどころか事が起きるまで、この男のことを思い出しもしなかったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます