巻の一 第二幕
「旦那ぁ、随分探しましたぜ」
小川にかかる小さな橋の袂で大あくびをしている卜部の元へ、お抱えの岡っ引き、田八が駆け込んで来た。
田八は息も切れ切れに卜部の前に飛び出し、恨めしそうな視線を向けている。
「相変わらず忙しないねぇ、田八は。何かありましたかねぇ?」
「何かじゃありませんよ、旦那。今までどこにいたんですが? 方々探しも見つからなくて、このままじゃ俺が内藤様にお叱りを受けるとこでしたよ」
田八は息を整えると、卜部の袖を掴み引っ張り始める。卜部は引きづられるままに、田八の後に続いた。
「だいたい半刻程前ですがね、死体が出たんですよ。それで、奉行所は大騒ぎですよ」
「なんとまぁ、簡単に人が死にますねぇ。また、無理心中ですかねぇ。ここ最近、続いてましたからねぇ」
「それだったら、まだ良かったんですがね。今回は、大層面倒事ですよ」
卜部へ振り返った田八の顔は、不機嫌そのものだった。
卜部の元へ駆けつけた際も不機嫌ではあったが、死体の話を始めてからは体全体から不機嫌さが滲み出ている。
「出た死体ってのが、ここ最近俺らの周りで悪さしてた、あの若侍でしてね。死んだ知らせを聞いた親が出てきて、お奉行様に色々と注文を付けたようようなんですよ」
「そりゃまぁ、面倒な話だねぇ。お武家様相手となると、無下に扱うわけにもいかないからねぇ」
「更に問題なのは、あの若侍、三人全員が死んじまったことなんですよ。信じられますかい? なんの因果か知らねぇが、三人とも死んじまったんですよ。そんなもんだから、三人の家の人間が奉行所に乗り込んできて、喧々諤々の大騒ぎだったようですよ」
「三人ともねぇ。まぁ、罰が当たった、ってのが、素直な感想ですかねぇ」
卜部は田八に引きづられながら、脇の団子屋の団子を物欲しそうに眺めている。
「旦那、団子は後にして下さいよ」
「わかってますよ。それで、あたしはどこに連れて行かれてるんですかねぇ?」
「佐藤新蔵ってのが死んでたところですよ。あの、死んだ夜鷹が勝手に寝床作ってた、あの石階段のところですよ」
「ああ、ありましたねぇ、そんなところ。あそこ、土地の持ち主が分からなくて、あの寝床をどうすれば良いのか、悩みの種なんですよねぇ」
「だったら、問題は解決ですぜ、旦那。あの汚ねぇ寝床なら、バラバラになっちまいましたから」
「誰か、暴れましたかねぇ」
「死んだ新蔵ってのが、あの寝床の薄い板壁ぶち抜いて石段を転げ落ちたみたいでして、寝床はバラバラ、新蔵は首折って死んじまったみたいですよ。先に調べに入ってた山岡様の見立てでは、攫ってきた女と楽しんだ後、酔が回ってたのもあって、足滑らせて転げ落ちたんだろう、ってことらしいですね」
「女は見つかったの?」
「それはまだですね。ただ、被害を受けた娘がいりゃ、すぐに見付かりますよ」
「そう、普通はねぇ」
「ほら、旦那、着きましたぜ。シャキッとしてくだせぇ」
卜部は田八に背中を叩かれると、倒れ込むようにその場に足を踏み入れた。
そこにはもう死体はなく、卜部の同僚である山岡が長い石段の上の方を睨みつけている。
「今回はまた、面倒事みたいですねぇ」
卜部の言葉に山岡が振り返る。
一応の平静を保っているようだが、右の眉が大きくつり上がっていた。
「卜部さん、遅いですよ。どこにいたんですか?」
「どうも、ご面倒をおかけ致しました。昔馴染みに会いましてねぇ、話し込んでいたら、まぁ、このように」
「あなたのそれは、今に始まったことではないですから、まあ、私は慣れてます。それよりも、この件に関して、どれほど理解してますか?」
「武家のご子息が亡くなったそうですねぇ。それも、まぁ、厄介者ですよ。山岡さんの見立てでは事故のようですが、親の方は、そうですなぁ、息子の悪行を知ってますからねぇ、もしものことを考えて、お奉行様にあることないこと吹き込んだんでしょうなぁ。それで、下手人をあげろと、そんな話ですかねぇ」
山岡は満足そうに頷くと、つり上がっていた眉が降りていく。
「はぁ、あなたはもう少しやる気を出すべきだと、私は思いますがね。昼行灯なんてせずに真面目になれば、あなた程の人であれば、もっと上を目指せるはずですが」
「あたしはねぇ、今くらいのがちょうど良いんですよ。それに、太鼓持ちみたいなこたぁ、あまり得意じゃないんでねぇ」
「この話は、また後でもいいでしょう。卜部さんが状況を正確に把握しているようで、安心しました。現状の問題点は、殺された佐藤新蔵を見た者が少ないことです」
山岡は両手を組むと、周囲を見渡した。
「ここはこの通り、通りから離れ人通りも少ない。この石階段にしても、上にあった粗末な小屋が邪魔で利用する者もいない。佐藤新蔵と、男が連れていた女を目にした者が、今のところ見つかっていない。通りを闊歩していたところを見ていた者は大勢いるが、いついなくなったのか、正確なところは覚えている者はいない。どの辺りで姿を消したのか、そのおおよその検討は付きましたが、その後の足取りがさっぱりです。姿を消した辺りからあの石階段の上まで、通ったと思われる道筋にあるのは、明かり取りの小窓かゴミ捨て口くらいなもの。一応確認をさせていますが、見たという者は、出てこないでしょう」
「そりゃまぁ、難儀ですなぁ。女の方も?」
「ええ、今回は、被害を訴える者が出ていません。ただ、佐藤新蔵以外の二人に関しては、杖突きの老爺をどこかへ連れて行ったようだと、そういう話が確認できています」
「娘ではなく、爺様をねぇ。その爺様の死体は?」
「出ていません。今は、問題を起こしていた三人の死体だけです。それ以外の犠牲者は、今のところ出ていません」
「なるほどねぇ」
卜部は軽く顎を擦ると、首をわずかに捻った。
山岡はそんな卜部を尻目に、再び石階段の上を仰ぎ見る。
「佐藤新蔵の傷をみるに、この石階段から転げ落ちたのは間違いありません。それに、佐藤新蔵が一人であの場所まで来たとも考え難い。死体は下帯も付けていない状態でしたから、女と行為に及んだのは確かだと思っています。ですが、あの巨体を、酔っていたとはいえ、女の細腕で付き落とせるとは到底思えない」
再び卜部に向き直った山岡は、何かを決意したように強い意志の力が感じられた。
「仮に女が関わっていたとしても、それは被害を受けたものであり、殺しの下手人とは考えられない。それが私の結論ですが、卜部さんはどう思われますか?」
「あたしも、あの三人は何度も見たとこありますがねぇ、大きな体をしてましたよ。それが酒飲んで酔って寝たとなれば、まぁ、あたしでも起き上がらせられるか自信がないですわなぁ。それを女の身で、それも襲われた後でとなると、とてもじゃないができるもんじゃないと、あたしも思いますねぇ」
山岡は満足そうに頷くと、組んでいた両腕を解き、大きく伸びをした。
そこへ山岡付きの弥助が戻り、山岡へ何やら報告し始める。
卜部はその様子をボンヤリと眺めつつ、懐に手を差し入れた。その手が懐の何かに当たったのを不思議に思いながら取り出すと、小さな包が現れた。
「あぁ」
卜部は間抜けな声を上げつつ、おトキに渡された大福の包の存在を思い出した。
「旦那、何ですそりゃ?」
「大福ですよ。渡されてたのを、すっかり忘れてましたよ。ちょっと、お茶にでもしましょうかねぇ」
卜部は山岡へ向き直ると、
「この件、山岡さんにお任せしても、大丈夫ですかねぇ?」
「問題ありません。大体の問題は解決していますから」
「それじゃ、あたしはこの辺で」
卜部は山岡へ一礼すると、通りへと向かって歩き出す。
田八も慌てて山岡達に頭を下げると、卜部の後を追いかけていく。
「山岡様、よろしいのですか?」
「構いません。卜部さんのあれは、今に始まったことではないでしょう?」
言いつつ、山岡は卜部の後ろ姿を見送った。
「武家が言うから下手人がいるなど、私には納得できません。私は、私の確認した事実に基づいて判断するだけです。内藤様にもお奉行様にも、私はそのようにご報告するまで」
山岡は最後に石階段の上へと視線を巡らせると、卜部達とは逆の方向へと歩みを進めていく。
その後ろに、弥助が音もなく続いた。
「つまり、よく覚えていない、と」
「へぇ、そうなりますか、ね?」
その答えに、本日何度目かになるため息を吐く。
狭山のため息に気付いた女中は、いそいそとその場から逃げていった。
死人が出た際、近くに男がいた事はすぐにわかった。その男を足がかりにして進んでいけば、簡単に解決できるはずだった。
しかし、どうだ。
死人の出た料亭堤屋での聞き取りを開始してすぐ、狭山は頭を悩ませることになった。
誰に聞いても、一緒にいたはずの男を覚えている者がいないのだ。
曰く、連れてきた侍の影に隠れてよく顔が見えなかった。曰く、部屋に居たようだが、隅の方に居たらしく気付かなかった。曰く、気付いたときには、部屋には誰も居なかった。
わかっているのは、死んだ男が連れてきた按摩だということ。それ以外の唯一の手がかりは、按摩が杖をついていたことくらいだ。
杖をついた按摩となれば、おそらく目が見えていない。となると、その按摩は何も見えていないし、そもそも、自分が居た場所が堤屋だったことさえわかっていない可能性もある。
狭山は再度大きくため息を吐くと、思わず天を仰ぎ見た。
「狭山様、大方の話は聞き終わりましたが、やはり、まともに人相を覚えている者はいないようです」
堤屋の人間に話を聞いて回っていた藤吉が戻ると、静かにそう告げた。
「そうか」
狭山は死体のあった座敷を見渡す。
奉行所に連絡が入り、この場に駆けつけたのが狭山だった。
そこでは、男がうつ伏せに倒れていた。特に争った形跡も苦しんだ形跡もなく、うつ伏せに寝入ったまま息を引き取ったような様相だった。
医者の見立てでは、急な癪によるものだろうとのことで、状況を確認した狭山としてもその見立ては納得のいくものだった。
しかし、上司の緒方からは下手人を探せと厳命を受けている。
病死として処理しようとしていたところへ緒方からの言付けが届き、下手人探しを命じられたのだ。
それが、狭山を悩ませている。
病死としか思えない状況にあって、どうやって下手人を探せというのか。
この無理難題が降って湧いた原因を、狭山はおおよそ承知している。ここで死んだ人間が悪かった。木下文之助。武家の嫡子で、その父親は奉行所と繋がりがあるらしい。どれほどの繋がりかは狭山も把握できていないが、上司の緒方とは懇意にしているのは知っている。それが今回の下手人探しに繋がったのだと、狭山は思っている。
「いない下手人を、どうやって見つけろというのか」
「自分の把握できている按摩に、話を聞きに行きますか?」
思い悩む狭山に、藤吉が控えめに声をかける。
そんな藤吉に視線を投げかけた後、狭山は大きく息を吐いて首を回した。
「そうしよう。お前の知っている按摩は、何人だ?」
「四人になります。一人は、ここからすぐ近くに」
「案内を頼む」
藤吉はしっかりと頷くと、狭山を先導するように歩き始める。
狭山は何かを吹っ切るように、藤吉の後に続いた。
藤吉の案内に従い按摩の話を聞いて回っていたが、めぼしい収穫は得られなかった。
既に諦め始めていた狭山だが、藤吉に連れられ最後の一人の元へと辿り着いた。
そこは至るところが朽ちているボロ長屋の一角で、表にはなんとか読み取れる字で『按摩承り』と書かれた板がぶら下がっている。
「爺さん、いるかい?」
藤吉がそう言いながら表戸を幾度か叩くと、建付けの悪い戸がゆっくりと開かれた。
そこには小柄な老爺が立っており、狭山達とは別の方へ顔を向けている。
「突然悪いね。ちょいと聞きたいことがあるもんで」
「良うございます。こんな老いぼれでよろしければ、何でもお聞きくだせぇ」
そう言って、老爺は藤吉を中へ招く素振りをする。
「いやいや、ここで大丈夫だ。話を聞きたいってのはね、今日の爺さんの仕事ぶりなんだよ。今日は、どこで仕事をしたね?」
「今日でございやすか? 今日は特にお呼びがございやせんでしたので、近くの小間物通りにおりやした。あっしがけっつまづいて転んだのを助けてくれた御仁がおりやして、その方を揉み解してございやす。今日は、それだけでございやす」
「その男は、一人で?」
「いや、二人でしたね。助けてもらいやした後、ぐるぐる連れ回されて、いづこかのお座敷に通されやした。なんでも、その御仁の贔屓の場所とか」
「それは、堤屋という料亭ではないか?」
老爺の話を聞いて、狭山は思わず口を挟んだ。
老爺は少し驚いた様子だったが、すぐに狭山の方へと向き直る。
「面目次第もございやせんが、名前は聞いてございやせん。ただ、方々から声が聞こえやしたら、大きなお店ではございやした」
「その場所へ、もう一度行くことはできるか?」
「それは、無理でございやす。あっしのいた場所から、あちらへこちらへと連れられやしたので、どこをどう歩いたものか、覚えちゃおりやせん」
「しかし、そこから帰って来たのであろう」
狭山はなおも食い下がる。
老爺は少し首をかしげると、あぁ、と小さく呟いた。
「帰りですがね、親切な娘さんに助けてもらいやした。ここに帰りたいと言いやすとね、表は人通りが多いから裏を回ったほうが良いとかなんとかで、帰りもまた、あっちへこっちへぐるぐると。気付いたら帰り着いていやした」
「その、娘の名は?」
「さて? 名乗らず仕舞いでございやしたね」
「そうか」
狭山は老爺への興味を失っていた。
仮にこの老爺があの場にいたとして、一体何ができるというのか。
死んだ者の人相を確認することもできず、ましてや、やせ細った体であの大柄な男達と対峙できたはずもない。
そもそも病死なのだ。それを覆す何かが出てこない限り、下手人など見つかる訳もない。
「突然済まなかった」
狭山はそれだけ言うと、その場を後にする。
「無地の爺さん、助かったよ」
「よろしゅうございやす。いつでも来なせぇ」
「ああ。悪かったな、突然」
藤吉は右手を上げつつ、狭山の背を追っていった。
残された無地は、光のない眼で二人の背を追いかけ続けた。
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