第12話

十二

 晴豊の人生初の野球試合の日は朝から快晴だった。会場となる粟見の隣の地区にある市民グラウンドに吹き込む風は決して強いものではなく、底冷えする寒さは麗らかな陽気に幾分か和らげられている。冬の最中にしては穏やかで絶好の外出日和だ。

「ねぇ、あの子が晴豊かしら?」

 ささめが指さす先を、修と美世が目を凝らして確認する。

「多分、そうだね。やけに周りに馴染んでいるから見つけにくい」

 修の言葉はもっともで、浅黒く日焼けした肌に短髪、同世代より少し背が高いのが特徴の晴豊はユニフォームの集団によく溶け込んでいた。

三人は試合開始時刻の三十分ほど前に修の両親に車で会場に運んでもらっていて、吹きっさらしの観客席でウォームアップをする両チームを漫然と見ている。三人の後ろにいる修の両親は、野球好きらしくピッチャーの球がどうとか守備位置の特徴がこうだとかの話に花を咲かせているが、三人には詳しいことはよく分からない。しかし晴豊のいるチームと相手チームとでは力の差が歴然としてあるのだろうということは何となく分かってしまった。

 特に監督らしき人がバットで打った球を拾う練習の動きで違いが明らかであった。相手チームの選手たちの動きには無駄が少ないのだ。リズムがある、と美世は感じた。打たれて、走って、拾って、投げる。簡単にやっているようだが、努力の積み重ねこそがスムーズな動きに繋がっているだということを美世は身をもって知っている。晴豊がいるチームにもリズムが無い訳ではないのだが、テンポが違う。晴豊はチームの中ではなかなかいいテンポで動いているようだが、もし相手チームに加わっていたとしたら目立っていい動きをしているとは言えないかもしれない。美世たちは練習を見たこの時点で学校で土岐が言っていた決意が悲観的なものではなく極めて現実的な目標であったことを理解した。

「相手チームは運が悪いことに全国大会常連の超強豪なんだ。失点が十点以内だったり僕たちの誰か一人でもヒットが打てたりしたら上々の結果だよ」

 晴豊のポジションはショートで打順は三番だった。美世は晴豊なら四番でピッチャーも任されるのではないかと期待していたので少し残念な気持ちがあった。もともとチームに在籍していた子たちには失礼な期待であることは重々承知していたので口に出すことはなかったが。

 一回表。相手チームの攻撃。晴豊のいるチームは早速五点失点した。五点で済んだのはまだ幸運だったのかもしれない。そのうち一つのアウトは晴豊の俊敏な守備で取れたものだった。

 一回裏。晴豊の前の打者二人は空振り三振。

相手チームのピッチャーは小学生とは思えない剛速球を投げる選手で、二人とも振り遅れて球にかすりもしなかった。晴豊はただピッチャーが投げる球を、フォームを、まばたきもせずに見つめていた。

晴豊がバッターボックスに立ち、静かに対決相手を見つめると、相手ピッチャーは晴豊の気迫に鳥肌を覚えた。

なんだこいつは。無名の選手のくせになんで俺はこんなに緊張するんだ。

彼はこの弱小チーム相手でも決して手は抜いていない。しかし心の奥底の本人ですら気付いていなかった小さな慢心が、晴豊を目の前にしたときに消し飛び、彼は本日最高速度の球を投げた。

ボールがバットの芯に当たったとき特有の、雑味の無い音がした。

観客と、両チームのベンチボックスで待機する選手や監督の目が一斉に打球を追う。

晴豊が打った球はレフト方向へ大きく飛んで行ったが、ホームランには飛距離が足らずレフトの外野手のグローブに収まった。

「あぁ、惜しい!」

 修の父親が悲鳴に近い声を上げた。周りも大きなため息を吐く。結局得点には繋がらなかったが、相手チームも晴豊に注目せざるを得なくなっただろう。悔しそうにベンチに戻る晴豊を仲間たちは歓声をもって迎えた。

 それからまた晴豊に打順が回るまで、チャンスらしいチャンスは来なかった。四番の橋本や七番の土岐が剛速球を打ち返すこともあったが、相手チームの強固な守備陣を打ち破る程ではなかった。結局晴豊に次のチャンスが巡ってきたのは四回の裏、自チームは未だ得点ゼロ、相手チームはすでに十三点も獲得しているところだった。

 チームに濃厚に漂う諦めムードは重苦しく、もう何をしたって勝てやしないと誰もがわかってはいたが、晴豊が打席に立つと何かが起こるのではないかと敵も味方も観客たちも期待した。

 晴豊は大きく息を吐き、程よく緊張感を保ったままバットを構えて初球を待った。そのすぐ傍で構える相手キャッチャーは、晴豊の姿勢を見ただけでほぼ間違いなく打たれることを確信した。打たれる、打たれるのは仕方がない。でも問題ない、うちのエースの一番の球なら、打たれたとしても守備でカバーできる。そう思っているのに、頭で結論を出したのに。

 これはダメだという声が心の中でやまない。

 そして晴豊は、力のこもった一球を、完璧なフォームで打ち返した。

 得てしてこういう時の心の声は当たるものだと、打たれた直後にキャッチャーは思った。

 晴豊の打った球は、今度こそグラウンドを飛び越えて客席へと飛んで行った。

 晴豊はしっかりと球の行方を目で追ってから、グラウンドを一周した。走っているうちにじわじわと、ホームランを打った喜びが湧いてくる。

「「晴豊~!」」

 手を振る美世とささめと修とそれからその両親に、手を振り返す余裕さえあった。ベンチに戻れば歓喜するチームメイトたちにもみくちゃにされた。

 しかしこちらのチームの反撃はこれが最後で、試合は五回裏までで相手のコールド勝ちという結果で終了した。もう少し詳しく言っておくと、十六対一で相手チームの圧勝だ。 

それでも晴豊たち選手の表情は晴れ晴れとしていた。負けたチームとは思えないほど和やかに後片付けを始める。それが逆に良かったのかグラウンドにトンボをかける晴豊に相手チームからも話しかけに来る子もいる。美世は客席で、入れ替わり立ち替わりに話しかけに来る子の相手をする晴豊をじっと観察していた。まるで晴豊が転校してきたばかりの頃のようだった。あの頃よりも晴豊の対応が落ち着いて見えるのは気のせいだろうか。

 と、思っていたら晴豊たちがちらちらとこちらを見ていることに気が付いた。美世と修は顔を見合わせた。ここはとっとと晴豊を回収して撤収した方がいいと、二人は言葉に出さずとも意見を一致させた。美世は席から立ち上がり、グラウンドにせり出した手すりへと駆け寄ると身を乗り出した。

「晴豊、もう帰れる?一緒に帰ろう」

 日頃訓練しているだけあって美世の声はざわめきの残るグラウンドをものともせずに響き渡る。

「おう、すぐ行く」

 晴豊はすぐに返事をしたが、内心では警戒心が高い美世が目立つようなことをしたことに驚いていた。

「入口のところで待っているから」

 美世がそう言うので晴豊は慌ててボックス席に荷物を取りに行った。チームメイトたちはまだ話足りなそうだったが、正直美世が話しかけてくれて助かった。さっきから自チームの子からも相手チームの子からも美世とささめのことをしつこく聞かれて参っていたのだ。

 今回の件を誘ってくれた土岐への挨拶もそこそこに、晴豊はグラウンドの外へと飛び出した。追われるように出てきた晴豊を、出入り口付近の壁に背中をくっつけて寄りかかっていた美世が見つける。美世は壁から背中をはがして晴豊の手を引いた。

「余計なことは言っていないだろうね?」

「余計なことって?」

「僕たちの住所とか、生業とか」

「そんな詳しいこと言ってねぇよ」

 晴豊の手を握る美世の手に思いのほか力が込められている。一刻も早く立ち去りたい気持ちの表れだろうか、と晴豊は思った。

 駐車場は車であふれかえっていたが、美世は迷うことなく修の父が運転席に座っているワンボックスカーを見つけた。車のほうも、美世たちが近づくとスライドドアを開けた。美世と晴豊が車に乗り込むと、後ろの座席に座っていたささめがまず声をかけた。

「お疲れ様。かっこよかったわ」

「ありがとな、応援に来てくれて」

 晴豊は続けて修とその両親、美世にもお礼を言った。修の両親は晴豊をしきりに褒めてくれたので少し気恥ずかしかった。

「急かして悪かったね。また身の程知らずが増えそうだったから」

 ささめの隣に座る修がぼそりと呟いた。

「身の程知らず?」

「どうせささめや美世のことを根掘り葉掘り聞かれたんだろう?」

 うんざりする、と修が毒づくと前の席にいる両親は小さく苦笑した。

「粟見にはもう身の程知らずはいないけれど、中学に行ったらそうもいかないだろうね」

 美世は深刻そうにそう言った。

「自分に興味をもって話しかけてくれる奴が多いってことだろ?悪いことばっかでもねぇだろ」

 晴豊がそう言うと美世にきつく睨まれてしまった。

「身の程知らずって言うのは、ささめにつきまとう子たちのことだよ。僕のことじゃない」

「でも美世のこともよく聞かれたぜ?」

「多少はそうじゃない質問もあったかもしれないけれど、大半はささめのことを聞こうとしただろう?」

「うっ…まぁ一番多かったのはささめのことを知ろうとする質問だったけど」

「ささめはこういう性格だから雑な対人対応ができない。中学じゃあ粟見出身者は少数派だ。余計な野次馬を追い払う機会が増えるだろうから君にも気を引き締めてもらわないといけない」

 修が厳しい声で晴豊に告げた。心配しすぎだと笑い飛ばすことなどできないような真剣ぶりなので晴豊は分かったと頷くことしかできなかった。

「ごめんなさいね、気を使わせてしまって」

 ささめが長いまつげを伏せて呟いた。

「「ささめのせいじゃない」」

 修と美世が声を揃えていった。晴豊は何となく幼馴染の三人の結束を見たような気がした。そこに自分が入れない寂しさというよりも、その結束の強さが頼もしく思えた。

「早いもんだね、春には皆もう中学生か」

 修の母がしみじみと呟いた。

「中学に入れば、粟見の外にどんどん楽しみを見つけるようになるだろうね」

「そう簡単に粟身を出て行きはしませんよ」

 静かにしかし断然とした決意を滲ませて美世が答える。

「そうは言っても進学はどうします?高校や大学は粟見にはありませんし通うなんてもってのほかだ」

 修の父が諭すように言う。彼は赤野家の人には、それがたとえ美世のような若年層相手でも敬語で話す。美世が昔どうして敬語なのかと聞いたら、特段意識しているのではなく昔からの癖なので変えられないのだと言われてしまった。

「進学で一時的には粟見を離れることになるでしょうけれど、僕は必ず粟見のこちら側にも生業を見つけます。もし見つけられなかったら自分で何か始めます」

 威勢よく言ったはいいが、少し恥ずかしかったらしい。美世はすぐに俯いた。その頬がリンゴのように真っ赤に染まっていることは隣の晴豊にしか分からなかっただろう。

「すごいなぁ。俺、この先のことなんてなーんにも考えてこなかった」

「ふふ、〝なーんにも〟?」

 ささめが面白がって晴豊の口調を真似る。

「うん、なーんにも。今日がよけりゃあそれでよかった」

「それは…もう少し、考えないとね。僕たちもう中学生になるのだから」

 同級生なのに美世はまるで子供に言い聞かせるかのように晴豊に言うので、周りは笑ってしまった。

「本当にいいのかい?折角市街に来れたのにどこにも寄らなくて」

 笑いの余韻を残しながら、ハンドルを握る修の父が気を回して訊ねた。市民グラウンド周辺は交通の便が良いので多くのチェーン店が軒を連ねているのだ。もちろん粟見にチェーン店など一軒もない。粟見より更に僻地にあった島からやってきた晴豊にとっては物珍しい店ばかりなのだ。修の両親が迎えに来てくれることが決まった時、昼食をグラウンド周辺の店ででも食べようかと持ち掛けてくれていたのだが晴豊は遠慮すると伝えていた。

「うん、大丈夫、です。春子さんたちがご飯作って待っててくれるから」

 晴豊の出る野球試合を春子さんたち赤野家の関係者たちも観戦したがっていたが、土日だろうとお構いなしに人の出入りの多い赤野家を空けるわけにはいかない。試合が終わったら皆で寄りなさい。たくさん料理を作って待っているからと、晴豊は玉美さんから直々に言葉をもらっていたのだ。

「春子さんたちどんなに大人数で来てもお腹が減らないような分を用意するって張り切ってたから、寄り道しないで帰らないと」

「それはすごいことになりそうだ」

 わくわくと弾む声の晴豊とうんざりした返事の美世は対照的だった。

「土岐も誘ったし一久も死ぬほど暇だったら来るって言ってたぜ」

「はぁ?土岐は良いとして一久まで誘ったの?」

 驚いた修が口をはさむ。

「いつの間にか元通りよりも仲良くなっているんだよ、この二人」

 美世も呆れたような口調で言う。

「だって、誰を誘ってもいいって、玉美さんは言ってくれたぜ?」

 迷惑だったかな、と呟くとさっきまでの楽しげな雰囲気が嘘みたいに晴豊から抜けていく。

「問題ないよ。おばあ様がそう言ったのを僕も聞いたし。それに一久は敵じゃない。彼はウチでやっている習い事を見に来たこともあるんだよ」

 美世は自然と早口になって晴豊をフォローするように言った。

「来て早々に飽きて態度が悪くなったところを玉美さんにつまみ出されていたけどね」

 と修が付け足す。晴豊はつい笑ってしまった。その場にいなくても何となく情景が分かる。

「みんな、来てくれるといいわね。私もお台所をお借りして何か作らせていただこうかしら」

「ささめも何か作ってくれるのか?めっちゃ楽しみだ!」

 嬉々として声を弾ませる晴豊とささめ、どうなることやらと少し心配をしながらも晴豊たちと同じように昼食を楽しみにしている美世と修を乗せて、ワゴン車は粟見へと帰っていく。

 もうすぐもっと激烈な中学生時代がやってくる。

             小学校編 終

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青い彼女と赤い僕 小学生編 @sonohennohito

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