第10話
十
「頼むよ、晴豊しか頼る当てがないんだ」
昇降口で土岐が大袈裟に頭を下げた。
「俺、野球分かんねぇし、金もねぇから無理だよ」
晴豊は断りの言葉を述べながら下駄箱から靴を取り出した。実はこの言葉、晴豊は教室を出てから幾度も繰り返している。
「お下がりでいいならスパイクもユニフォームもこっちで用意するから」
「でも俺野球分かんないってば」
「ルール一から教えるからさぁ、頼むよ」
晴豊の前に行く手を遮るように立って、土岐はまた頭を下げた。晴豊は頼まれごとに弱いのでここまでされるとつい引き受けてしまいそうになるのだが、もうすぐ二学期が終わるこの時点になってもまだ教室で少し浮いている自分に土岐をあまり関わらせたくなかった。
「俺には無理だよ。土岐は友達たくさんいるんだから他の奴に頼みなよ」
「晴豊以上に運動神経がいい友達はいないよ」
友達と素直に肯定されて晴豊は嬉しかった。つい頬が緩んでしまうのを止められない。それを見て土岐がさらに畳みかける。
「頼むよ、うちの野球チーム根っからの弱小だけど公式戦を欠場したことだけは無いんだよ。そりゃあ一人チームを抜けたら試合ができなくなるくらいぎりぎりの人数しかいないけど、みんな試合を楽しみに練習してきたんだ。これじゃあ転校が決まってしまった子だって安心して新しい場所に行けないよ」
土岐の頼みとは自分の所属する少年野球団の公式戦に晴豊に出場してほしいということだった。なんでもメンバーの一人が親の仕事の都合で急に遠方に引っ越さなければならなくなったらしい。その少年野球団は粟見を含むいくつかの地区を対象に団員を募集しているそうだが、どこも少子化が進む過疎地域なのでなかなか希望者が集まらない。これでは年明け早々にある公式戦の出場は絶望的だと、土岐は嘆いているのだ。
「冬休みの練習にちょっとだけ付き合って一月の試合に出てくれるだけでいいんだ。練習場所までの送迎はウチの親に頼むし練習代もこっちで持つから」
「でも、そこまでしてもらうのは悪いし…」
「やってあげればいいじゃないか。どうせ君暇だろう?」
口をはさんできたのは修だった。実は晴豊と土岐の後を美世とささめと伴にずっとついて歩いていたのだ。
「そのチーム僕の兄も所属していたことがあって、ウチの親なんか今でもたまに応援に行ったりするから晴豊が入るなら喜んで手伝うよ。グローブもバットもお下がりならいくらでもあるし」
「でも、わる」
「悪くないから。こっちが悪くなければ手伝ってもいいと思ってるんだろう?」
「ええっと、うん」
「決まりだね。じゃあ今日はウチに寄ってきなよ。練習道具貸すから」
「ありがとう晴豊!」
土岐は晴豊の両手を握ってブンブン振り回した。ついでに修にも握手を求める。余程嬉しかったらしい。
「また練習スケジュール伝えるね!」
そう言うと土岐は弾むように走っていった。
「今、団員で粟見に住んでいるのは土岐しかいなから気兼ねなく体を動かしてきなよ。君ならすぐに誰とでも打ち解けられるだろう」
「修が強引でごめんね。でも私も晴豊が手伝うのが一番いいと思うわ」
「僕もそう思う。君がホームランを打つところを見てみたい」
「俺、そんなに元気ないかなぁ?」
「「「うん」」」
三人は声をそろえて返事をした。
「大丈夫。これはきっと、君の得意分野だから」
修はなぜが自信ありげにそういうのだった。
晴豊が修の家に行くのは初めてのことだった。修の家は田んぼに囲まれたささめの家を更に山際のほうへ進むと建っている。山と言っても美世の家や晴豊の家の近くある山々とはまた違った山の山際だ。まったく粟見は山が多い。
修の家は周囲の景色に溶け込もうとしているかのような色合いの控えめな家だった。しかし家のわりに庭が広い。庭と思しきスペースは丁寧に雑草が抜き取られ、石も取り除かれている。平らに均された土には等間隔にベースを模したらしき座布団が置いてあった。しかも庭の隅にはバスケットボールのゴールが置いてある。
修は家の隣に設置された、壁面や引き戸のあちこちに錆の浮いている年季の入った納屋の引き戸を開け、中身を適当に放り出し始めた。空気の抜けたバスケットボールやバドミントンのラケット、薄汚れた野球ボールなどがあたりに散らばる。
「僕じゃあ軽いものしか手が出せないな。晴豊も手伝ってよ」
晴豊は納屋の奥にしまってあった透明なケースを引っ張り出すのを手伝った。ケースの中身はバットやグラブやボールだけでなく体に巻き付ける重しやダンベルなどのトレーニング器具などもあったのでひどく重たかった。
もちろん晴豊の手にかかれば運び出すことは難しいことではなかったが。
納屋の外までケースを運び出すと、晴豊は中身が壊れないように優しく地面に置いた。途中から運び出すのを晴豊に任せてさっさと納屋を出て行っていた修が近寄ってきてフタを開ける。
「そもそも運び出すことなんか想像しないで入れてしまったんだよね」
と修は言った。
「もう使わないんだから捨ててしまえばいいのに、っていつも思っていたけど役に立つこともあるんだね」
表情には出ていないが愉快に思っているようだ。晴豊はケースの底の焦げ茶色のグローブが気になった。古そうだけど、ちゃんと手入れをしてあるのか革はまだツヤを失っていない。隣の修が頷きかけてくれたので、晴豊はグローブにまとわりついていた埃を軽く払って左手にはめてみた。思っていたより指が動かしづらい。
「あれ?美世ちゃんでもささめちゃんでもない子が来てる」
突然家の方から声がした。摺りガラスの窓を開けて顔だけ出した人がいる。晴豊はその顔に向かって自己紹介をした。
「は、初めまして。青野晴豊です」
「あぁ!君が晴豊ちゃんね!」
その人は家を出て晴豊たちの前に走り寄った。真冬なのに上はTシャツで下はジャージの短パン、足に引っ掛けたのはサンダルだ。晴豊も似たような恰好をしているので文句は言えないが。
「修の姉の涼です」
でしょうね、という言葉を晴豊はかろうじて飲み込んだ。涼と修は面白いくらいそっくりな顔をしていた。眼鏡まで同じような形を選んでいるのでわざと寄せているのではとさえ思えてくる。涼はぎこちなくグローブを装着した晴豊にずいっと顔を寄せた。
「ねぇ、野球よりバドミントンのほうが面白いよ。一緒にやろう」
「晴豊は野球の助っ人やること決まったから道具取りに来ただけだよ」
修がしっかりと水を差したが涼は気にもしない。
「じゃあもう後は持って帰るだけでいいでしょう?暇ならバドミントンやろーよー!」
涼はラケットケースを開けて中身を晴豊に差し出した。晴豊は涼の強引さに負けてラケットを手に取った。このちょっと強引なところを見ると、修と涼は性格も似ているのかもしれない。
ラケットの持ち方、打ち方などを涼に簡単に教わり、実際にシャトルを打ち合ってみると晴豊は前から知っていたかのようなラケット捌きをして見せた。
「さすがだね!もうネット挟んでも出来そうじゃん」
涼はそう言うと晴豊に物干し竿をはさんでラリーをしようと言った。どうやら物干し竿が即席のネットらしい。
「修、得点係やってね」
修はため息をつくと物干し竿の傍に座った。
涼は今までとは別人のように晴豊を睨みつけると鋭いサーブを放った。晴豊はラケットを掬い上げるように伸ばして辛うじて打ち返す。涼は高く上がったシャトルを強烈なスマッシュにして返してきた。これも晴豊はなんとか打ち返す。その後も涼に打ち込まれるだけの一方的な展開が続いたが、タイミングが合わなかったのか初めて涼が緩くシャトルを打ち返した。やっと来たチャンスに晴豊は素早く反応し、前に出てきていた涼の後ろを狙って足の長いスマッシュを打った。涼は必死に追いかけたが、シャトルは地面に落ちた。
「ギリ入っているね」
コートのラインは引いていなかったが修の目測では晴豊の打ったスマッシュはコート内に収まっていた。
「あーーー!悔しい!」
涼は額に手を当てて空に叫んだ。大きなリアクションに晴豊がたじろいでいる。
「凄いじゃん晴豊!バドミントンやりなよ!」
涼は遠慮なく晴豊の背中をバンバン叩いた。
「止めなよ、晴豊は運動部のノリ慣れてないんだから」
「いや、大丈夫」
晴豊は久しぶりに少しだけはにかんだ笑いをしてみせた。正直涼が自分と普通に接してくれるだけで嬉しかった。
「粟見に住んでるなら茜西中に行くでしょ?バドミントン部あるから入んなよ」
「その前に野球だよ」
修は野球道具一通りをまとめると他の納屋から出したものを片付け始める。
「勝手に借りてもいいのか?グローブとか」
手伝いながら晴豊は聞いた。
「いいよ、もう使ってないし」
「でも本人にお礼とか一言いっておきたいな」
「いいよ、順まだ帰ってこないし」
片づけを一切手伝わない涼が口出しした。
「順はうちらのお兄ちゃん。小学生から野球初めて今高校生。野球やりたくて隣の県の高校で寮生活してる」
「凄いな、知らなかった」
「順のさらに上に一番上の翔っていうお姉ちゃんがいてうちら四人兄弟ね」
「へぇ、いいな。賑やかそうだ」
「ちなみにみんな似たような顔」
修の付け足した一言に晴豊はつい吹き出して笑った。
「なんだ、いい笑い方するじゃん」
安心したように涼が言った。
「そうだよ、もともとよく笑う方なんだ」
勝手に納得する姉弟に晴豊は聞いた。
「俺そんなに暗い顔してた?」
「「うん」」
*
粟見にも雪は降る。風が気まぐれに運んでくるだけなので山の方でもなければ積もることは滅多にないが。
終業式の日の朝から舞い散り始めた小さな雪の粒は見る人に冬の最中であることを実感させ、体の芯から凍るような寒さが、終業式を終えて体育館から校舎へと戻る晴豊たちを苛んだ。途中にある屋根だけしかない吹きっさらしの廊下は特に堪えかねる寒さだった。
さすがにこの日は晴豊も父親から厚手のトレーナーと綿素材の長ズボンを着るように言われ、普段は嵩張る衣服が好きではないのだが寒さに負けて従った。
昇降口や廊下、階段などの大掃除を済ませたら教室で冬休みの注意事項が書かれた紙ともらっても嬉しくはない宿題を配布されて今日はもう学校とさようならだ。
配布物を淡々と配る担任には、以前のような活気は見えなかった。晴豊の件を未だに引きづっているのは明らかで、良くも悪くも自分に嘘が付けない人なのだろうと美世は思っていた。担任は帰り際に美世を職員室に来るように引き留め、晴豊は最近どうだと聞いてきた。
「元気ですよ。問題ありません」
悪いとは思ったが美世は素っ気なく答えた。
「そうですか。やはり私に正直に話すわけがありませんよね」
先生は手にしたボールペンを意味もなくカチカチ鳴らした。
「あの子が未だにクラスで若干避けられていることは私でもわかります。でもどうすればいいのか…分からないのです。本当に」
大の大人が途方に暮れているのを見て、美世は何か言わなければと謎の責任感にかられた。
「これは先生のことを力不足だとか頼りないと思っているから言うのではないのですが」
と美世は慎重に前置きして
「放っておいてくれればいいです。僕たち割と勝手に成長できますから。晴豊のことは信じて放っておいてください」
言い終わった後になんだか無性に恥ずかしいことを言ってしまったような気がして、美世は先生の返事も待たずに職員室から逃げ出した。昇降口で待っていた晴豊と修と合流してささめの家に向かう。今日はささめの家でパーティーが予定されているのだ。
「よりによって今日引き留められるなんて美世もついてない」
「美世、何をやっちまったんだ?」
「君と一緒にしないでほしい。最近どうですかって聞かれただけだよ」
美世は呼ばれた事情を微妙に誤魔化した。
ささめの家は夏に来た時とは外見からして異なる雰囲気となっていた。クリスマスのイルミネーションが家の屋根やらベランダやら庭木に巻き付き、ネオンのトナカイや少し不気味なほどリアルなサンタクロースのオブジェまでもが設置されている。しかも家の入り口の手前には夏には絶対に置いていなかった巨大なアーチが出現していた。アーチには星形のライトや色とりどりの丸い飾りがこれでもかとくっつけられている。ここまでくるともはやクリスマスと関係があるのかよく分からなくなってくる。
「なぁ、これささめの家であってる?」
晴豊は思わず二人に確認した。
「あってるよ。ささめの家は毎年全力でクリスマスするんだ。ささめの母がそういうの好きでね」
修はアーチの飾りに触れ、より美しく見える角度となるよう微調整しながら言った。
「ささめの誕生日がクリスマスに近いことも関係しているのだろうね」
と、美世が付け足す。
「へぇ、いいお母さんだな」
「いや、良いとか悪いとか常識で測れる人でもないから気を付けて」
修はいつも通りの真顔で言った。どうやら冗談で言っているのでもなさそうだと晴豊は察した。
三人がアーチをくぐるよりも先に両開きのドアを開けてささめが中から出てきた。ささめは準備があるからと学校から車で先に帰っていたのだ。長い髪を編み込みながらまとめ上げ、腕がレースになっている薄い黄色のワンピースを身に着けたささめは可憐を極めている。
「来てくれてありがとう。どうぞ入って」
晴豊たち三人は用意されたやけにフカフカなスリッパを履いてやけに天井の高いリビングらしき部屋に通された。前に来た時も訪れた部屋のはずなのだが部屋中央の立派なクリスマスツリーのせいで以前の面影が感じられない。
「ちょうど焼きあがったところなの」
ささめがワゴンに乗せて運んできたのは大皿からはみ出そうなほど大きな鳥の丸焼きだ。香ばしい匂いに晴豊の空腹が刺激された。
「俺、こんなのテレビでしか見たことなかったよ」
「そうだろうね。僕もささめの家ぐらいでしか見たことないよ。赤野と稲取は粟見で一番裕福だから」
「いや、粟見で今一番裕福なのは稲取で間違いないよ」
美世が謙遜ではなく本気で言った。
「おしゃべりは食べながらにしましょう。料理が冷めちゃう」
それもそうだと晴豊は大皿をテーブルに乗せるのを手伝った。真っ白なクロスの掛けられた立派なテーブルにはすでにピザやらローストビーフやら果物のちりばめられたサラダやらクラッカーに高そうな食材をちょっとだけ乗せたものなどが所狭しと並んでいる。
しかし椅子はたった四つしか置いていない。
「そうなの。毎回呼んでいるのは修と美世だけ。今年は晴豊も来てくれるから嬉しくてつい作りすぎちゃった。あ、もちろん私一人で全部やったのではなくてお手伝いしてくれる方が何人かいるの。皆さんプロの方たちだからどれもとっても美味しいのよ」
ささめは晴豊の疑問を先回りして答えた。ささめが誘えば、きっと誰だって喜んでくるだろうにそうはしないということはささめがこのメンバーで満足しているということなのだろう。
たった四人で食べ始めたご馳走は、主にささめと晴豊によってすさまじい勢いで平らげられた。食べ終わるころには修と美世は心底もう何も食べなくてもいいと思うまでに満腹になったがささめと晴豊はこの後のケーキを楽しみにするくらいの余裕があった。
「先にプレゼントを渡したいな」
ケーキを食べるのを少しでも先延ばしにすべく、美世は手提げカバンからラッピングされた袋を取り出した。修と晴豊もランドセルから各々のプレゼントを取り出す。
「まぁ、何かしら」
美世のプレゼントは透き通るような薄青色の細い花瓶だった。
「ありがとう!ちょうど花瓶が欲しいと思っていたところなの!」
美世は毎年ささめの趣味に合うちょうど欲しいものを贈ることに成功しているので、今年も去年と同じ言葉を言ってもらえて安心した。
「誕生日おめでとう、ささめ」
晴豊も包装紙で作った少し不格好な箱を差し出した。受け取ったささめは箱を開けると感嘆の声を上げた。
「すごくきれい!ありがとう!」
箱の中身は海辺で拾ってきた貝殻だった。粟見の海岸は堤防が設けられているので乗り越えて砂浜に出るのは容易ではないはずなのだが、晴豊は堤防の凹凸や周囲の木々を利用して割と簡単に登ってしまい、冬の砂浜を何時間もふらふら歩きまわったのだった。島の浜辺よりも随分と風は冷たかったけれど、粟見に引っ越して以来触れることのなかった久々の波打ち際に、晴豊の心は洗われるような心地がした。
砂浜にはゴミや正体不明の物体がいくつも打ち上げられていたが、探せばキレイなものもたくさんあった。筋目の美しい真っ白な貝殻や、光を白や青やピンクの入り混じった色で照り返す貝殻、一見すると蝶の羽のように見える波紋模様の貝殻など晴豊なりの感性でこれだと思うものを拾い上げ、美世の家で春子さんに教わりながら苦労して箱を作ったのだった。ささめが予想以上に喜んでくれて晴豊はホッとした。
「僕からも。おめでとう」
修は木製の細長い箱をささめに渡した。中に入っていたのは木で作られたブレスレットだった。手首に合うように曲線型に彫られたフォルムが美しい。しかも腕輪には余すところなく花柄の透かし彫りが施されている。
「修、また一段と腕を上げたのね」
「え?それ修が作ったのか?」
思わず晴豊が尋ねると修は頷いた。
「人に自分が作ったものを贈るのは初めてだ」
「ありがとう。大切に使うね」
ささめに微笑みかけられて、修は少しだけ口の両端を上向きにした。
和やかな空気にノックの音が響いた。
「お嬢様、ご歓談中に申し訳ございません。奥様がお帰りになられたようです」
エプロン姿の中年の女性が部屋に入ってきた。雰囲気はどことなく春子さんに似ているが、春子さんのほうが多少年が上そうだ。
「お母さまが?今日は夕方まで戻らない予定でしたのに」
「俺たち帰った方がいいかな」
「いいの。今日はみんなが来ていることは知っているはずだもの。少し変わった人だけど会ってあげて」
気後れする晴豊にささめは言った。
程なくして分厚い毛皮のコートを纏い濃茶のサングラスをかけたゴージャスな人が部屋に入ってきた。いかにもセレブ感丸出しのその人がサングラスを取ると、鳶色の瞳が値踏みをするように晴豊たちを見遣った。三人は蛇に睨まれた蛙のようにただ首をすくねてじっとするしかなかった。
「あなた、なってないわね」
ささめの母が目を付けたのは晴豊だった。
「お母さま、失礼なことを言わないで」
ささめがそう窘めたが無駄だった。
「ついていらっしゃい」
晴豊は圧に押されてささめの母の後をついて行った。ささめの母は二階に上がり、両開きの扉を開けて中に入った。晴豊も続けて入るとそこは服で埋め尽くされた部屋だった。晴豊はウォークインクローゼットという概念を知らなかったので家の中に服屋があるようだと驚いた。
「あなた、名前は?」
「あ、青野晴豊です」
「そう、やっぱり青ね」
青、青とささめの母は呟きながらいくつもの洋服を晴豊にあてがった。そのどれもが高価そうで晴豊には縁遠いものばかりだった。服なんてすぐに破れたり汚れたりするのが当たり前なのにここにあるものたちは傷一つでもつけたらとんでもなく価値が下がってしまいそうだ。自分に見合うわけがない。
「あなたは戦う人でしょう?」
晴豊はぎくりと肩を震わせた。この人もあちらのことを知っているのかと驚いたが、ささめの母だし当たり前かと納得した。
「それならば一層着るものにはこだわらなきゃ。勝負は見た目から始まっているでしょう?」
「でも、良い服なんか着たら汚せないし…」
「当り前じゃない。汚さずに勝つのよ」
無茶なことを言う人だ。良いとか悪いとかで測れる人じゃないと修が言った意味が少しだけ分かってきた気がする。
二階から戻ってきた晴豊を、ささめたち三人は感嘆をもって出迎えた。
「素敵!とっても似合っている」
「見違えたね」
「馬子にも衣裳とはこのことか」
順にささめ、美世、修の感想である。ささめの母は晴豊本人よりもその言葉に満足気に頷いた。
「衣装の力は侮れないわ。それ差し上げるからもっと衣服に興味を持ちなさい」
そう言うと颯爽と部屋を後にしてしまった。一体何をしに来たのかは誰にも分からなかった。晴豊は着慣れない衣服にぎくしゃくとしながらソファーに腰かけるのに精一杯で、立ち去る背中にお礼を言う余裕もなかった。
晴豊が着させられたのは目の覚めるような鮮やかな青のパンツと白シャツで、シャツは袖口を折り返して裏地の濃紺が見えるようにしろと指示を受けた。しかもシャツの上からサスペンダーを吊るされていてこれが妙に気に障る。動き辛いのだ。パンツも伸縮性があまりないのか少し大股になると張り裂けそうで気が気でない。とにかく気を付けないとどこかしら破くか壊しかねない。そんな腰の引けた動きが面白かったのか、珍しく美世がツボに嵌ってしまった。むせるほど笑い声をあげている。
「仕方ないだろ、今どこが破裂したって不思議じゃねぇんだから」
晴豊は割と真剣に返したつもりだったのだがささめと修までもが吹き出してしまった。皆が笑ったのを見るのが久しぶりで、晴豊も気づいたら笑っていた。
「折角美佐子さんが来てくれたのだから、年末のご挨拶の衣装のこと聞いておけば良かったな」
爆笑の名残の涙を拭いながら美世が言った。
「大丈夫よ、もうデザインも決まって発注してあるから二、三日以内には届くって言っていたわ」
「美佐子さんってささめのお母さんのことか?」
「そう。美佐子さんは粟見の催事事での衣装全般を担当してくださっているんだ。ご挨拶って言うのは今年最後にあちらに行くことだよ」
あちらに行く。それを聞いて晴豊の表情がこわばった。
「いいのよ、衣装は用意してあるけれど行きたくないと思っているのなら行かなくてもいいの。玉美さんもそう言ってくださるはずよ」
ささめが晴豊の隣に座ってそっと背中を撫でた。
「ご挨拶の日は誰も固有の捧げものはしないんだ。酒と杯だけを持ってあちらの方々に捧げるだけ。もし行くのだとしてもそんなに気負わなくていいよ」
修も晴豊を気遣うように言葉をかける。
「行こう、晴豊」
美世は一歩踏み込んだ言葉をかけた。
「僕たちと一緒に」
晴豊は美世を見つめ返した。美世は自分よりずっと力強く自信に満ちているようだった。それが頼もしく、意気地のない自分が無性に情けなくなった。
「うん…俺も行かなきゃって思ってた」
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