第9話
九
夏祭りが七月最後の土曜日にあるので、粟見小の夏休みはその翌週以降から始まることになる。周辺の地区より一週間程度遅いはじまりだ。その分終わるのも少し遅いらしいが。
長い夏休みはもちろんあちらへ行く絶好の機会だった。暇を持て余した晴豊は美世と何度もあちらへ行った。しかしささめは暇ではなかった。習い事や勉強だけでなく、休暇と称して各地の有力者と親睦を深める父に母とともに同行しなければならなかったのだ。彼女にとって学校の長い休みは繁忙期の一つでしかなかった。
「もともと気疲れするタイプだから心配になる」
と、偶に美世の家に顔を出す修は言った。修は美世の家の習い事に何一つ参加していないが、美世のおじいちゃんと仲が良かった。
気まぐれに顔を出しては庭いじりを手伝ったり囲碁や将棋を一緒にやったりしている。
「悪いけどささめが行かないのなら僕も行かない。一人ぼっちにしたくないから」
「そっか。分かった」
七月の終わり、美世の家の縁側で修は晴豊にそう伝えた。結局ささめは夏休みの間一度もあちらへ行けなかった。
ささめは美世の家に顔を出すこともできないくらい多忙だったが、偶にやって来る修は美世や晴豊と縁側に並んで一緒にアイスを食べる機会が何度かあった。宿題が全く進まない晴豊を修と美世の二人が面倒を見てくれることもあった。二人とも決して甘いわけではないのであくまでも自分で問題を解けるようにする手助けにとどまっていたが。
小学生最後の夏休みは晴豊を学力的にも肉体的にも鍛え上げた。後者はもちろんあちらでのことになる。
晴豊があちらへ行くと必ず何者かが襲いかかって来るのであちらから帰ると晴豊はいつもボロボロだった。ささめの料理を食べることはもちろん叶わなかったが、村の人たちが稲取の家で作った農作物をたくさん届けてくれたので、赤野によく出入りするご婦人方が数々の料理を作ってくれた。晴豊は出されたものは全て美味そうに食べるし完食した。すると次の日には体の痛みや損傷は残っているものの動かしても問題ないくらいには治っていた。稲取の作物にはささめ以外の人が料理をしても多少は回復能力を高めてくれる効果があったようだ。
ボロボロになったのは美世も同じだった。簡単に言うと歌や踊りを見に来る方々がお手玉の件以来増え、忌憚のない意見を聞く事が増えたのだ。新規の方々は以前から美世を見に来てくれる方々と違い目に見える形を取って客席に陣取り始めた。ヒト型を取る方もあれば獣のようだったり生きものとも形容し辛い不思議な姿だったりする方もいた。同じヒト型であってもその容姿は様々で、感想も様々だった。
「素晴らしい舞いだ。また見に来るぞ」
と洋シャツに袴の書生のような姿の男が言えば
「噂ほどでもない。先代の足元にも及ばぬ」
と竹の扇で口元を隠した貴人風の女が評し
「何?前からこちらに来ていただと?それは知らなんだ。果泥のように騒がしくせんと我らは気が付かんのでな」
とワニともトカゲともつかない巨大な爬虫類の姿をした方に言われたこともあった。
美世と玉美の舞の大きな違いは、美世が赤野家に古くから伝わる舞いだけでなく外の世界の踊りも取り入れている所にある。古くからの舞を軽視しているのではなく、ただ踊るのが好きで多くの踊りを踊ってみたかったからだ。今までは自分の好きな踊りをすれば方々は喜んでくださった。楽しんでいることが伝わりさえすればそれでよかったので注文を付けられることなどなかった。
自分がほんの一部にしか受け入れられていなかったことを知らなかったこと自体が驕りであり、美世は恥ずかしくて仕方が無かった。
美世が多くを語らずとも打ちのめされていることは晴豊にも伝わった。しかし美世は落ち込むだけではなくさらに自分の踊りを進化させようと地道に努力を続けていた。美世が踊りの練習をしない日など一度も無いことを、晴豊は知っている。だから余計な言葉を言えなかった。自分に出来ることはもし美世に危険が迫って来たらそれを跳ね除けることだけなのだ。しかし戦いが得意であることとそれを嫌悪していることの矛盾に晴豊は決着をつけることが出来ないでいた。
晴豊は夏休みの終わりがけに一度だけ、生死が危うくなるほどの死闘を経験した。
その日の美世の踊りは完璧だった。美世が踊ったのは異国の流れを汲む軽快で隙あらば回転を繰り返すような目まぐるしいもので、手足につけた鈴がより賑やかさを演出する派手な踊りだった。美世は無心に踊りの世界に入り込み、観客たちはその鬼気迫る動きに目が釘付けとなった。
美世がやっと足を止めると、客席から拍手喝采が沸き起こった。ここ最近では珍しい光景だ、誰もが美世に好意的な声ばかりをかけてくる。
美世もそうだが晴豊もこの喝采に浮かれてしまっていた。だから美世でなく自分に用がある者がやって来るなどと思いもしなかった。
「慢心か。剣が泣くぞ」
ステージの端に立つ晴豊の耳元で、男が囁いた。晴豊は身構える前にわき腹に強烈な肘打ちを喰らった。あまりの痛みに息が止まる。
相手は長身の男で両手に剣を握っていた。
晴豊はとっさに自らの腰から剣を引き抜き、連撃を繰り出す相手の剣を受け止めた。一撃一撃は決して重くない。でも隙間なく打ち込んでくるのでなかなか反撃に転じることができない。
このまま相手の攻撃がだらだらと続けば、晴豊が力尽きて負けるだろう。なんせ相手は多分亡霊なのだから。不自然なほど素肌を隠し、顔に鬼の面を付けている格好からしてあの武者と似たようなものなのだろうと晴豊は勘繰っていた。しかし正体が分かればなんとかなる訳ではない。それどころか面で隠された顔からはどこに攻撃を仕掛けようとしているのか疲労があるのかも読み取れず、晴豊は初めて自分は死ぬかもしれないと思った。そして死に近づけば近づくほど、知りたくなかった自分の生きることへの醜いほどの執念を知るのだった。
男が右腕から繰り出す一撃を刃で受け止め、続けて刃を繰り出そうと左腕を上げたその一瞬に、晴豊は反撃のチャンスを見出した。
相手の降り下ろした右手に左足で強烈な蹴りを当て、その反動を生かして捩じった右半身から斜めに相手の胸を切り込んだ。
相手の両手から剣が零れ落ち、晴豊は勝利を確信して笑い声をあげた。自分の優位を見せつけることで相手の戦意を削ごうとしていたのだと後で気づいた。それが無意識に出来ている自分が心底嫌になった。
しかしこの反撃が無かったらあれには勝てなかっただろう。晴豊は得物を失ったその長身を更に斬りつけた。そうすることに何の抵抗も持てなかった。しかし相手は斬りつけられても晴豊を殴るだけの力が残っていた。油断した晴豊は顔に拳をまともに喰らって気絶しかけたが、相手の抵抗はこれが最後だった。
男は膝から崩れ落ち、鬼の面を付けたままの顔を地面にめり込ませた。面の後ろはどうなっていたかと言うと、頭のてっぺんから黒い布を被っていたせいで髪の毛一本ほども正体は見えなかった。そしてこの男もあの全身甲冑に覆われた武者のように溶け、雪が降り出した野に消えてしまった。
今日のあちら側はやけに寒いと思ってたけど、やっぱり冬だったのか。俺、雪って本物を見るの初めてだよ。
晴豊はそう言ったつもりだった。
「もう嫌だ。こんな思いをするのは」
でも実際に出てきたのはそんな言葉だけで、それで取り繕おうとしたものは砕け散った。
晴豊は自分の剣を地面に放り投げた。
「俺、なんでこんなことしてるんだろう」
自分はさっき、相手を本気で殺そうとした。その事実に耐え切れない程嫌悪感が込み上がる。今までの自分たちに攻撃を仕掛けてくる人影や獣の大体は、ある程度攻撃を捌けば勝手にどこぞへと消えていったので、このトドメを刺す感覚はあの武者の一件以来味わわずに済んでいたのだ。自分が生きるために相手を倒した感覚は、晴豊には重すぎた。
美世は晴豊に何の言葉もかけられなかった。ただ投げ捨てられた刀を拾って、晴豊と手を繋ぎ歩くことしかできなかった。
今更になって気が付いた。晴豊の力に憧れている自分はなんと残酷だったのだろうと。
テレビ越しに見るヒーローのように、誰かが正義の名のもとに暴力を振るうのを肯定しているだけで、戦う本人がどれほど心の痛みを覚えるのかなど気にもしていなかった。武を生業とするということは、それで生き残るということは、綺麗ごとだけでは済まされないと知っているつもりだったのに。
それからまた、晴豊と美世はあちらには行かないようになった。玉美も無理に行けとは言わなかった。だから夏休み明けの晴豊は、少し元気が無かった。
しかし晴豊の試練は、夏休み明けにもあったのだ。しかもとびきり大きいものが。それは晴豊の今までの人生の中で、一番に辛い経験となる出来事だった。
事の発端は一久だ。一久からすれば晴豊が蒔いた種ということになるのだろうが。
夏休み明けから一久は嫌悪の対象を完全に晴豊一人に絞っていた。無視、陰口、晴豊にも分かるようにわざと大声で悪口を言うなど、あからさまな攻撃が始まった。
悪意になれていない晴豊は初めは戸惑い、どうにか関係を改善しようと態度や言葉のかけ方で自分に敵意がない、仲良くしたいと思っていると伝える努力をしたのだが、どれも上手くいかず次第に疲労が蓄積された。肉体的に自分を軟弱だと思ったことは無いが、精神的にはそうでもないなと実感させられた。
美世はことあるごとに晴豊への非難を止めるように一久に言ったが、まるで聞き入れられないか逆効果になることばかりだった。晴豊に友好的だったクラスメイト達も、どんどん晴豊から遠ざかっていった。
「どうして僕が一久に目を付けられたか知っている?」
学校からの帰り道、美世が言った。
「…分かんねぇ」
晴豊は地面を見つめたまま言った。この頃誰かの顔を見るのも嫌になって地面ばかりを見ていた。美世は身体を屈めて無理矢理晴豊の視界に入った。
「一久、最初は僕のことを女の子だと思ったんだよ」
「そりゃそうだろ。俺もそう思った」
「でも一久が来るまで粟見に新しく来る人ってそう多く無くて、皆僕が男子だって知っていたからそれが当たり前だった。つまり一久も僕が男子だって知っていると皆思っていたんだよ。だから勘違いしていることに気が付くのが遅れてしまって一久に恥をかかせた」
「美世が女の子だと思っていることで一久が恥かくのか?」
「一久は僕に好かれようとしていたみたいなんだよ。今思い返せば確かにやけに親切だった」
「ああ、なるほど」
晴豊は思わずクスリと笑ってしまった。美世はそれが嬉しかった。晴豊が笑ったのがひどく久し振りな気がした。
「勝手に騙された気になっちまったのか」
「そう。勘違いした自分が恥ずかしくて僕を攻撃していただけ。今の君への態度もその延長だ。だから晴豊は悪くない」
「うん、ありがとな」
少しは晴豊の気持ちを軽くできただろうかと美世がほんの少し希望を抱いた翌日に、事件は起こった。
「あいつの家、テレビも無いらしいぜ」
給食を片付け終わった直後の昼休み、一久は特に仲がいい二人(二人の名前は坊主頭でガリガリな子が龍太(りゅうた)、外で空手や柔道やボクシングなどを習っていることもあって人一倍縦にも横にも体格が良い子を真司(しんじ)という)といつものように晴豊の悪口を言っていた。しかし悪知恵の回る彼らは決して相手の名前を口にはしない。
「マジで?やっぱ貧乏じゃん」
龍太が甲高い声で悪口を盛り上げる。
「貧乏に決まってるだろ。親がロクな仕事してねぇんだから」
行儀悪く机に座った真司も嘲笑した。晴豊の席は一久たちがたむろする位置から通路を挟んで一席分だけ前にあり、そう離れていないこともあって悪口が嫌でも耳に入ってくる。
この日が雨なのも良くなかった。晴れていれさえすれば晴豊はグラウンドに逃げられた。まだ夏の蒸し暑さが居座る屋内は誰のものとも言えないイライラが逃げ場も無く澱んでいた。いや空気のせいだけには出来ない。やはりいつかは起こる衝突だったのだろう。そうだとしても晴豊のしたことは許されることでは無かったが。
「図書室に本を返しに行かなければいけないんだった。一緒に来る?」
晴豊の斜め前に座っていた美世が、そう晴豊を誘った。ここにいるのは晴豊にも自分にも良くないと思ったからだ。
「うん」
晴豊も声をかけてもらえて助かったと思った。二人は立ち上がって教室を出ようとする。
悪口の対象が立ち去る気配を察してすかさず一久たちが追い打ちをかける。
「ロクなもん食ってねぇからロクな奴にならねぇんだろ」
「食いものだけじゃねぇよ。服もいつもボロボロだろ?」
「しかもあいつの家さぁ、母親いねぇんだって。ウチの親が言ってた」
一久はさらに得意気に付け加えた。晴豊にとって許しがたい一言を。
「もしかしたら父親だってさぁ、本当の父親じゃねぇんじゃねえの?」
美世は晴豊の瞳から光が消えるのを見た。あちらの異形にトドメを刺した時と同じ顔をしている。
「ダメだ、晴豊」
僕が止めなければ。
美世は晴豊の腕をつかんだ。晴豊は美世の方を振り向きもせず大きく腕を振った。それだけで美世は弾き飛ばされ、その先にあった机に背中を強かに打ちつけられた。
机が無人だったことは不幸中の幸いだった。美世がぶつかった拍子に机がひっくり返ったために、教室内には大きな音と机の中の内容物が散らばった。女の子たちが悲鳴を上げる。
晴豊はそれも聞こえていないようで無言のまま一息に一久たちに近寄った。余りに素早いので一久たちからは急に自分たちの目の前に晴豊が現れたかのように感じた。
「なんだよ、別にお前―」
お前のことを言ったんじゃねぇよ、と一久は嘲笑混じりに言いたかったのだろう。しかし晴豊の無言の圧に言葉は震えていた。そして一久は、言葉を言い切る前に左頬に晴豊の拳を喰らった。その威力は凄まじく、一久の体は教室正面の教卓まで吹き飛んだ。その圧倒的な暴力に、教室は静まり返った。殴られた一久は立ち上がる気力も無く、必死に体を丸めて両手を顔に当てていた。
「ひぃ…ひぃぃぃ…」
明らかに戦意を喪失した一久だったが、晴豊は歩みを止めようとはしなかった。ダンゴムシのように丸まった体に更に蹴りを加えようとする。美世はその足に縋りついた。机にぶつかった背中はまだじんじんと痛み、他にも擦り剥いた腕や足には筋状の傷口が出来ていたがそんなことよりも晴豊を止めなければという思いが何よりも思考を支配して、体を動かした。
「ダメだ、やめろ晴豊」
晴豊の動きが止まった。美世はその隙に晴豊の背中に抱きつき両腕を羽交い絞めにして抑えた。
「か、一久ぁ…」
龍太と真司が一久に駆け寄る。
「ほ、保健室…」
「待って。頭をぶっているかもしれないから動かさない方が良い」
誰よりも早く我に返ったのは土岐だった。
「成海さん、保健室に行って養護の先生を呼んできて。事情を話せば来てくれると思う。皆も職員室でも隣のクラスでもいいからとにかく先生を呼んできて。早く大人に来てもらおう」
教室は蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、他のクラスから野次馬的な子たちが興味津々に事件のあった教室を覗き込んだ。喧噪が大きくなるにつれて晴豊から力が抜けていった。美世が体を離すと晴豊は棒立ちになってぼんやりと一久を見た。
一久の顔は青膨れに腫れ、鼻から血がぼたぼた零れ落ちていた。
「あぁぁ…うう…あぁぁ…」
唇も切れて血が出ている。頬を殴られたことが発声に何か影響があるのか、一久は呻き声しか上げない。晴豊は自分のしでかしたことが理解できるようになると同時に頭がボーっとするような気がしてきた。周りの景色がぼやけ声も遠くなる。
「晴豊」
美世の声と握ってくれるその手だけが、頼りにできる唯一のものだった。
*
駆け付けた養護の先生は状況を見るなりすぐに救急車を呼んだ。晴豊は校長室に呼ばれ、一部始終を見ていたクラスメイト達は教室で担任と学年主任の先生に何が起こったのかを口々に説明した。事件の衝撃は大きく話す途中に泣きだす子もいた。まともな情緒の子の方が少ないので、このクラスだけ午後の授業を切り上げて帰されることになった。しかし晴豊だけは暫く校長室に留め置かれた。クラスメイト達が晴豊の顔を見ないようにするためという配慮もあっただろう。校長は晴豊に何か言ってやらねばという気持ちはあるようだが何も言えずにチラチラと晴豊を伺い見るだけだった。校長は明らかに晴豊に怯えていた。
夕方になってやっと晴豊の父が学校に到着し、明日の午前に双方の親が学校で話し合うことが決定された。このことは当事者たちと校長、担任、学年主任しか知らないはずであったが次の日にはクラス中の誰もがそれを知っていた。授業をするはずの担任が姿を現さないのだから隠せるはずもない。
代わりにやってきた副担任ということになっている定年過ぎのおじいちゃん先生が、白黒で印字の荒い国語や算数や理科のプリントを配り、各自出来る所まで進めるようにと指示が出た。実質自習のようなものである。一久と晴豊の欠けた教室は素直に指示に従った。しかし美世は居ても立っても居られない気持ちに駆られていた。晴豊の肩を持てるのは自分しかいないと思っていたからだ。
「先生、体調が悪いので保健室に行っても良いですか?」
昨日のこともあるし無理もないと思ったのだろう、おじいちゃん先生はすぐ許可をくれた。美世は教室を離れるまでは具合の悪そうなのっそりとした足取りと表情を心掛け、廊下に出ると校長室近くまで軽やかに走り抜けた。しかし校長室の重厚な扉は閉まっている。
およそ優等生がやることでは無いが、美世は大胆にも隠れることなく校長室の壁に全身でへばりついた。顔を真横に捻じ曲げて壁に耳をぴったりと付ければボソボソと話し声が聞こえてくる。
こんなみっともないことをするのは初めてだ。盗み聞きってもっとこっそりやるものではないかと自分でも思ったが、どうせやるなら言い逃れなんて出来ないほど徹底的にやってしまえとも思う気持ちもあった。ここにいるのが誰かにばれたらそれこそ登場するチャンスだ。僕が晴豊を守らなければ。晴豊が日々どんなに耐え、一久がどんなに許しがたい言葉を言ったか証言してやる。晴豊のやったことが全く消え去る訳ではないにしても情状酌量くらいはしてもらわなければ気が済まない、と美世は静かな表情とは裏腹に激しい感情を抱いていた。
そもそも怒りが抑えきれなかったから、こんな常識外れな行動をしてしまったのだろう。
「…私どもといたしましては…ですからこれは…誠に遺憾でして…」
校長の声はしどろもどろだ。
「先生、私たちはあなたたちがどう思ったかなど聞いておりません。その子が私たちの子を殴り、顔面骨折の大怪我をさせた。そこに間違いはないのでしょう?」
きわめて理性的を装った、怒りの込められた声だった。一久の父のようだ。
「えぇ、そうですがしかし」
「何を言い逃れする必要があるんです?現実は変わりません!この子は今日も病院にかからなければならないんですよ!もしかしたら顔が殴られた後のまま歪んで治らないかもしれないんですよ?当たり所が悪ければ失明していたかもしれないんですよ?許せるわけありません!誰が許しても私は絶対許しません!こんな子、牢屋でも少年院でもいいからどこかに閉じ込めて社会から切り離すべきです!」
母親はヒステリックを隠そうともしなかった。そうするべき権利を持っていると誇示しているかのようだった。
「親も親よ!人様の子をこんなに殴るなんて!人間じゃないわ!あなたがロクな教育をしないせいでウチの子が怪我をする必要がどこにあるのよ!」
「ちょっと奥さん、落ち着いて―」
「落ち着いていられるわけないだろう!」
父親も怒りを全面にあらわしたようだ。美世は聞いているだけで気分が悪くなってきた。これを正面から受け止める晴豊がどれだけの苦痛を味わっているかと想像すると息が止まるほど苦しかった。
「晴豊、お前がやったのか」
ドスの効いた低い声がそう聞いた。いつか聞いた晴豊の父の声だ。
「あんたここにきてまだ言い逃れするつもりかぁ!」
半狂乱の一久の父が詰め寄る。爪を立てた手に肩を握られても晴豊の父は座ったまま全く動じていなかった。一久の父は必死に自分たちの方へ体を向けさせようと肩を握る手に力を込めたが、晴豊の父は自分の子の方に上半身を傾けたまま返事か来るのを待っていた。
校長室の立派な革張りのソファーに不釣り合いなほど小さくなって座って俯いていた晴豊が、小さな小さな声で答えた。
「はい、俺が一久を殴りました」
それを聞くと同時に晴豊の父は立ち上がった。弾みで一久の父は体勢を崩して転んだ。周囲は晴豊の父が晴豊を殴りでもするんじゃないかと息を呑んだ。しかし晴豊の父は一久たち親子に向かって膝をつき、手をつき、頭を下げた。
「全て私の教育不足により起こった事件です。誠に申し訳ない」
着慣れないスーツをぎちぎち言わせながら、晴豊の父は謝罪した。
「あ、謝れば済む話じゃないだろうがぁ!」
気勢を削がれかけた一久の父が持ち直して晴豊の父を責める。一久の母も一緒になって興奮のままに訳の分からない罵声を浴びせる。教師たちは止められずにおろおろしている。顔のほとんどを包帯に巻かれた一久の表情は見えない。晴豊にとって校長室は混乱ただなかの地獄だった。何よりも辛いのは罵声に耐えて頭を下げ続ける父の姿だった。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
晴豊は父の隣で同じように土下座をした。涙が毛足の長い絨毯に吸い込まれ、鼻水で息が苦しかった。晴豊は知らなかったが壁を挟んだ向こう側で美世も泣いていた。美世の涙は自分に出来ることなどなに一つなかったのだと知る、敗北の涙でもあった。
*
成す術も無くすごすごと教室に戻った美世は、結局放課後まで学校で過ごしてから帰った。晴豊も一久もついに教室には戻っては来なかった。休み時間になると子どもたちは飽きもせずに昨日の事件を繰り返ししゃべっていた。美世はそれも辛かった。
美世は家に帰る前に晴豊の家に寄り道しようと決めた。何を言えばいいかいまいちまだはっきりしていないが、どうしても顔を見たかったからだ。しかし校門からふと空を見上げてみると、西の方から濃灰色の雲がじわじわと広がりつつあった。どうやら空は機嫌が悪いようだ。
雨にならない内にサッと寄ろう。顔を見るだけでいいのだから。
美世は足早に晴豊の家を目指した。日の光が少ないせいか地面剥き出しの道はいつもより陰鬱な感じがした。まだまだ元気なはずの猫じゃらしも心なしか色褪せて萎れ気味に見える。
美世は黄金色に色づき始めた田んぼを左手に見ながら、晴豊の家がある方向へ歩いて行った。いつも晴豊が美世の家に来てばかりで、その逆なんて初めて会った日以来無かったから無事に晴豊の家に辿り着けるか少し不安だ。このまま歩いて川にぶつかったら上流に行けばいいだけだのはずだけれど。
風景の変化に乏しい平坦な道を歩いていると、どこまで歩いたのか、どのくらい歩いたのか、定かでないような気がしてくる。
前方からうっすらと冷気を感じ、川に突き当たって道が終わるのが目に見えると美世はやっと多少の安堵を覚えた。川は空を映して灰色に澱んでいる。その川を頼りにして、美世は少しずつ勾配がきつくなる坂道を登っていった。
四月に晴豊は今美世が歩いてきた道よりもずっと大回りをして、この川沿いを登っていった。しかも背中に美世を背負って。晴豊の家がまだ見えないこの時点で美世の肉体的疲労はかなり高まっているのに。改めて信じられない体力の持ち主だ。
屋根瓦でも軽トラックでも他のものでも何でもいいから、人工物らしきものが見えやしないかと、歩を進めるたびに美世は切望した。
それらを見つけるより先に突っ立っている誰かの後ろ姿が見えた。近づかなくても分かる、晴豊の父だ。息を切らした美世が傍に来てもまだこちらに気が付かないようで、憑りつかれたかのように山の方を見ている。右手に持つ鈍色のトンカチが今にも手から滑り落ちそうだ。
「あの…」
美世は恐る恐る、晴豊の父の正面に回り込んで話しかけてみた。晴豊の父は目線だけを美世にくれた。
「晴豊が、山に行っちまった」
晴豊の父は事実だけをそう述べた。しかしそれ以上に動揺と心配が言葉に込められていることは明白だった。
「いつからですか?」
「気づいた時にはいなかった」
「どうして山に行ったと?」
晴豊の父はトンカチで地面を指した。サンダルの足跡が僅かに残っていた。
「僕が晴豊さんを見つけてきます」
晴豊の父は厳つい顔を崩さない。これだけでは信用してもらえなかったかと美世は必死に言葉を繰った。
「土地勘あるし、晴豊さんとはよく行動をともにしています。必ず見つけて戻ってきます」
「悪いな、任せられん。お前まで危ない目に遭う」
「僕なら見つけられます。二…いや一時間下さい。それまでに戻らなかったら誰を呼んでも構いませんから」
「ダメだ」
「必ず見つけますから」
晴豊の父を振りきるように美世は走った。これでも五十メートルを七秒台で走りきれるので隙をついて駆けだせば並みの人では追いつけない。
「おいっ!ボウズ!」
晴豊の父は大声で呼び止めようとしたが美世は振り向きもしなかった。ちなみに晴豊の父がこちらから言わなくても美世を男の子だと分かった稀有な人だということには、気が付いていなかった。
*
今日も眼前に町の姿が見える。田んぼに囲まれた白っぽい工場が出す煙、田畑に追い詰められたみたいに所々固まっている建物群、そして堤防が隔てる海。初めて見たときと変わらない姿で町は佇んでいる。しかし晴豊の心はあの時のように踊らなかった。
泣きすぎて体中の水分が失われてしまったのか、晴豊は自分の体が紙のように薄っぺらく風にあおられたらどこへでも飛んで行ってしまいそうに感じられた。もし本当にそうならばどれだけいいだろう。もう何も考えずに済むのなら散り散りになって飛ばされたっていい。今の気持ちよりはさぞ晴れ晴れとすることだろう。家を飛び出してここにたどり着いてからずっと、晴豊にはその思いしか浮かばなかった。
「君にしては覇気のない顔だね」
そう話しかけてくる声がある。
「顔、見えないだろ。そこからじゃあ」
晴豊は声に振り向かずに答えた。背後に美世が来たのは分かっているけれど振り向くだけの体力すらなかった。
「分かるよ、見えなくても」
美世はしゃがみ込む晴豊の隣に座った。晴豊が目を離さない粟見の町並みを、美世もしばらく黙って見つめた。ここは粟見とほかの地域を隔てる山々の中にある絶景ポイントだった。晴豊の家からはそう遠くはないが、はっきりと分かるような道があるわけでもなく、傾斜もきついのでたどり着くには体力と根気が要る。美世は山の中にこんな見渡しのいい場所があるなんて知らなかった。それなのにどうしてここに来られたかというと、晴豊なら自分から進んで険しい場所へ行くだろうと予想し敢えて人の通らなそうな所を登ってきたからに他ならない。
晴豊に登れたのならば自分も登れるはずと負けず嫌いな性分もあって探し始めてから三十分足らずで美世は晴豊を見つけられたのだった。それはまた図らずとも二人の思考回路が似通っていることを示していた。
足場には落ち葉が降り積もり、時々その下に川に削られる前のごつごつした岩が眠っているので地面から目が離せないのはもちろんだが、我も我もと競うかのように枝を伸ばす樹木にも気を付けなければならない。髪の毛が枝に引っかかるくらいなら大したことは無いが細くとがった枝がもし目にでも当たったら痛いどころでは済まないだろう。注意深く歩を進めやっと開けた場所に出たと思ったら、体育座りをした晴豊を見つけたのだ。
普段より随分小さく丸まったその背中は、今にも立ち上がってそこから飛び降りてしまいそうで肝が冷えた。ここは手すりも何もないただ自然の作り出したままの崖で、晴豊が腰かけているのはその突端なのだ。慌てる自分の鼓動を抑え、野生動物を驚かせないようにそっと近づくのと似たような気持で美世は晴豊に声をかけ、隣に腰かけたのだった。
「美世、突き飛ばしてごめんな。痛かっただろ」
「平気だよ。もう痛みもない」
それからまた二人は黙り込んだ。美世は辛抱強く晴豊の次の言葉を待っていた。
「本当なんだ」
唐突に晴豊は切り出した。
「俺が親父の本当の子供じゃないの、本当のことだったんだ」
晴豊の声は気持ち悪いほど無感情で、それが嵐の前の静けさであることを予感させた。
「親父が…島に来るときに乗った船に、赤ん坊を抱いた女がいたんだって。女は、島に着いてからもずっと、暗い顔で桟橋から海を見てたから、親父は話しかけたんだ。そうでもしないと女が赤ん坊と一緒に海に落ちるんじゃないかって、心配になったんだって」
晴豊は思い出すために途切れ途切れになりながら言葉を続けた。
「私は生まれてからずっとろくでもない奴らとしか関わらなかったって、女が言ったんだって。だからこの子もろくでもない人間になるって。あんたは私が関わった誰よりもマシな人な気がするから…あんたが育ててほしいって赤ん坊を親父に渡したんだって。それから女は船に乗って行っちまったって。それ以来会ったこともないって」
「…それ、いつ、聞いたの?」
「島を出る少し前。でもなんとなく分かってた。親父が俺の母親のことあんまり知らないんだろうなって。母親に繋がるものが何にもなかったから」
美世は何も言えなかった。何を言っても晴豊を傷つけるだけのような気がした。
「親父は嘘がつけないから、本当のことを言うしかないんだ。だから」
晴豊の両目から涙が零れた。あまりにも急に出てしまったから、晴豊には止められなかった。
「俺が本当の子供だったら一久を殴らなかったのに」
涙が次から次へと湧いてきて、頬を伝っては服に滲んでいく。もうカラカラになったと思っていたのに、掌で何度も拭っても、涙はあふれてくる。美世、困っちまうだろうなと分かっていても涙の止め方は分からない。
「馬鹿なことを言うな」
怒った声で美世が言う。
「君の遺伝子上の親が誰だって、あの人が君の父親であることを否定できる人間なんていないに決まってる」
事実美世は怒っている。
「怒っていいんだ。当たり前のことだ。やり方は間違っていたかもしれないけれど、怒ることまで否定するのはおかしい」
「なんで美世が怒るんだよ」
「だって」
だって何だろう?まだ言葉にできていない。しかし言い淀んだのは一瞬で、怒り渦巻く美世には勢いだけがあった。
「だって…君が暴力を振るってしまったのには僕にも責任がある!」
「無ぇよ」
美世の普段にない迫力に晴豊でさえ少し引いている。
「あちらで君が戦うことを望んだのは僕だ。君が暴力を振るってしまったことにあちらでの活動の影響があることは明白だ!だから僕にも責任がある!」
「止めろよ、そんなことないから」
「ある!」
「無いって」
「ある!だから僕も悪い!」
「美世は悪くない!」
美世につられて晴豊もヒートアップしてしまった。酷い形相で互いが相手の顔と対峙すると、いつ爆発してもおかしくない緊張が走る。
均衡を崩したのは美世の涙だった。
「君が苦しむなら僕も苦しむ。君が嫌だと言ってもそうする。一人にはさせない。残念だったね」
「お前まで泣くなよ」
美世が泣きながら激昂するので今度は晴豊が困ってしまった。
「こ、今度は僕が止めるから。絶対止めるから。君は怒っていい」
美世に泣かれてしまうと晴豊はもう自分のことだけで手いっぱいになっているのを止めなければならなかった。
「分かったよ、ありがとう」
最早どちらがどちらを励ましているのかわからない。二人とも泣いた顔のまま戻るのが嫌で、でもこれ以上晴豊の父を心配させるわけにもいかなくて、二人は仕方なく大人しく山を降りた。しかし日が落ちる前に下山を決めたのは間違いなく良い判断だった。冷静になってみると転べば大怪我ほぼ間違いなしの急で足場の安定しない下り坂で視覚が利かなくなるのは致命的だった。
晴豊の家で待っていたのは晴豊の父だけではなかった。
「お帰りなさい」
庭先に立っていた玉美が二人を出迎えた。晴豊の住む家の庭は美世の家と比べるまでもなく、所々に雑草が生えているだけの殺風景な庭だが玉美が立つだけで何か荘厳な儀式を始める舞台のような気がしてくる。いや、玉美だけではない。物干し竿の間際に黒い高級車が停まっていることもだいぶ不釣り合いだ。
「二人ともお腹が空いているでしょう?」
そう言われて美世も晴豊も自分が空腹であることに気が付いた。
「夕食の支度はもうできています。上がって手を洗いましょう」
玉美に促されて二人は家に入った。入ってすぐに台所があり、その隣に居間がある。二人が居間に入ると、ところどころに傷や落書き跡のある、この家の先住民とも言えるちゃぶ台に、重箱がところ狭しと広げられているのが目に映った。卵焼きに焼き魚、エビフライ、筑前煮、あとは鮭や山菜やおかかに彩られたたくさんのおにぎり。晴豊の父だけでこんなに用意ができるはずがない。赤野の家の人たちが作ってくれたのだろう。
「やあ、丁度全部を出し終えたところだ。早速いただこうじゃないか」
居間に当然のように座っているのは美世のおじいさんだ。その隣にいた晴豊の父は二人が居間に入ってくると中腰になって、立ち上がるとも座るとも定まらない中途半端な姿勢のまま固まった。口を堅く引き結んだ険しい表情のまま額から汗を流している。
言いたいことは山ほどあるんだろうなと晴豊には分かった。でも親父は怒るのが苦手だから困っているんだろうな。
「ごめん、心配かけて」
晴豊がそう言うと晴豊の父は諦めたかのように座り、ただ一回だけ頷いた。それからこの奇妙な組み合わせで夕食を食べた。特に会話が弾むわけでもなく微妙に気まずいのが印象的だった。
おかげでこの日を思い出すと、苦しい記憶と伴にこの夕食までもが思い出されるようになってしまった。
*
学校に行くことにこれほど緊張した日は他にない。晴豊は靴を履くために腰を下ろした上がり框で強烈な腹痛に襲われた。学校の門をくぐり昇降口に行ってから階段を上って教室に入る。そこまでを想像するだけでも胃を締め付けられるような激痛が走る。
一久を殴ってしまった後、一瞬の静寂のうちに感じた、みんなのあの目が忘れられない。
みんなの反応は当然のことだ。自分だって目の前で誰かが暴力を振るわれたら嫌悪するだろう。自分に誰かを責める資格なんて無い。浴びせられる嫌悪に抗議をするつもりは全くない。しかしそれは嫌悪を恐れないということでは更々無かった。晴豊は人前に出るのが怖かった。それは事件を知る人に対してもそうでない人に対しても同じだった。
どうしよう、今日はもうここから立ち上がれないかもしれない。
晴豊は両手をお腹にしっかりとあててから膝の上に屈みこみ、何かをやり過ごすかのようにじっとしていた。
親父が家の後ろに作った作業場で鉄を打つ音が聞こえる。
一定の間同じリズムを刻んでは止まり、また打ち始めるのを繰り返す。昔からこの音を聞くのが好きだった。
「こんなに朝早くから仕事を始めるのか。人気が少ないところに住みたいと思うのも無理は無いね」
音がやむのを見計らって美世が話しかけた。実は随分前から入口の引き戸を開けて蹲る晴豊を発見していたのだが、引き戸を開けた時に掛けた声に晴豊が反応しなかったのでどうしようかと逡巡していたのだった。晴豊のほうはこの時に初めて美世に気が付いた。
「学校、行きたくない?」
げっそりとした顔を持ち上げた晴豊に美世はそう尋ねた。行きたくないに決まってはいるが。
「いや、行く」
晴豊はなんとか自分の体を持ち上げた。腹痛はちっとも良くはなっていないが美世が来てくれるなら学校も行けるような気がしてしまった。
「様子を見に来ただけだから無理しなくてもいいよ?」
「いいんだ、行く」
学校から逆方向にあるのにわざわざ立ち寄ってくれた美世を手ぶらで帰すわけにはいかない。晴豊は血の気の引いた顔のまま少しふらつく足取りで、いつもよりだいぶ時間をかけながら学校まで歩いて行った。学校の敷地に入る前から周囲の目は晴豊に残酷だった。
子どもだけでなく、付き添って歩く保護者までもが晴豊に一瞥をくれるだけなのだ。二日前までは挨拶を返してくれたのに。
学校に入ればもっと酷かった。誰も晴豊と目も合わせようとしない。そのくせさざ波のように晴豊を責める声が聞こえてくる。針の筵とはこのことか、と美世は息が詰まりそうな教室で実感した。しかし一久ほどに敵意を持つ相手を積極的に攻撃しようとする性質の子もいないので、晴豊を直接攻撃してくる者はいなかった。クラス全体が腫れ物を扱うかのように晴豊と美世を取り巻いている。
この暗い空気が少しだけ変わったのは、お昼休みになってからだった。教室の前方にある入口からまだ包帯が顔の輪郭を覆っている一久が入ってきたのだ。
「「一久!」」
龍太と真司が駆け寄る。
「もう学校来れるのか?」
喜びを隠しきれない真司の声に一久は頷いた。
「まだ、あんまりしゃべんなって、言われてるけどな」
一久の声は小さくてまごついていた。まだ顔を動かすと傷に障るのだろう。一久はいつもどおりダルそうに自分のロッカーにランドセルを投げ込むと、晴豊の席までだらだらと近づいてきた。
クラス中が緊張して二人を見つめる。
「やべぇだろ、うちの親」
一久はそう晴豊に切り出した。
「似た者夫婦だからどっちも怒ると手が付けられなくなる。お前の親父、可哀そうだったな」
いつものように小馬鹿にした感じで話し出す。晴豊はうなだれて聞いていた。
「でも、そんな親でも馬鹿にされれば腹が立つ。だから、俺もごめん」
聞き間違いかと思った。晴豊は驚いて顔を上げた。一久の顔はあざが広がって更に腫れ上がっている。想像していたよりもずっと酷い怪我を負わせていたのだ。
「お前らだけ謝らせて悪かった」
何か言う前に晴豊の頬を涙が伝った。
「気色悪いからいつまでも落ち込むなよ」
この時初めて一久と晴豊は笑いあった。二人のわだかまりは解けても、周囲の目がすべて変わったわけではなく、晴豊に対する怯えと嫌悪の目を小学校を卒業して中学生になっても持ち続けたままの子も何人かはいた。それでも晴豊は、一久が赦してくれたことに、どうしようもなく救われた。
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