第7話

 見るものの憂鬱を吹き飛ばすかのような快晴となった祭り当日。晴豊は早朝から家を飛び出し粟見をウロウロと歩き回った。外に出てさえいれば、誰かが手伝ってくれと晴豊を呼び止めた。大きなイベントを直前に控えた期待と不安の混じった慌ただしさが、晴豊は好きだった。

「晴豊や、なんで今日もそんな格好しているのかね。ちっとはマシな服は無いのかい?」

 図書館であちこちに飾ったお手玉の最終調整をしていたイネさんがいつも通りの擦り切れたズボンによれたTシャツを着た晴豊を見てそう聞いた。

「え?良い格好をしないと出ちゃいけなかったのか?」

「そんなことはないがね」

「舞の本番はちゃんとした浴衣着るからさぁ、許してよ」

「当たり前だろう、ちっとはマシな踊りが出来るようになったのかね?」

「任せてよ、イネさんも見に来てくれよな」

 と、のんきに話していると入口から大きな金切り声がした。図書館の手押しのドアを思い切り押し開いたせいで鳴る音だった。転げるように誰かが入ってくる。

「は、晴豊、ここにいたのか」

 息も切れ切れに声を絞り出したのは修だった。あちこち探しまわっていたのか汗だくで、膝に手をついて息を整えている。

「美世が、具合が悪いらしいんだ。見に行ってくれないか?」

「分かった。家にいるんだな?」

「うん、悪いが僕もささめも祭りのあれこれで手が離せなくて。美世もそれを知っているから下手に行っても追い返されると思うんだ」

「分かった。任せろ」

 晴豊は図書館を飛び出した。一目散に美世の家へと駆けて行く。自分が行ったところで何かが出来ると確信していた訳ではないが、いてもたってもいられなかった。必死に走る晴豊を見て驚く人は多かったが止められる人はいなかった。

アスファルトを抜け土が剝き出しの登り道に突入すると、晴豊は疲れるどころか増々力が湧いてくるような気がした。山道をはずむように走り抜けて、美世の家の門前まで辿り着く。いつも通り門扉は開け放たれていた。

「美世!」

 自分が思っていたよりも大きな声で叫んでしまった。美世は具合が悪いのにと後から後悔した。

大声に応えるように庭の奥にある母屋のドアが開いた。出てきたのは白いシャツに灰色の地味なスラックスを穿いた穏やかそうなおじいさんだった。

「晴豊君じゃないか。お見舞いに来てくれたのか」

「すみません、勝手に来て、大声で」

 晴豊は慌てて頭を下げた。確かこの人は美世のおじいちゃんだ。稽古場にはほとんど顔を出さず庭の木々の手入れをしているのをほんの数回見たことがあるだけだが、庭木や花に小さな声で話しかけ楽しそうに手入れをしていたのが晴豊には印象的だった。

「どうやらうつる病ではないようだから、上がっていってくれ」

 そう言っておじいさんは美世の部屋の手前まで晴豊を案内してくれた。美世の部屋は二階の奥、南側の位置にあった。おじいさんは茶色の扉をノックし、声をかける。

「美世、晴豊君が来てくれたよ。入ってもいいかね」

「はい」

 答えた声は少し掠れていた。晴豊が部屋に入ると、窓際のベッドで半身を起こした美世が見えた。

「来てくれたのか」

 声音に少し皮肉が込められていたが晴豊はそれよりも声に力が無いのが気になった。色白の顔が更に紙のように白くなっているような気もする。

「吐き気とか、熱がある訳ではないのだけれど、身体が重いような気がして。舞いに支障が出るかもしれない」

 首の下の鎖骨が痛々しいほど浮き出ている。薄青のパジャマは美世の手元で布地を余らせていた。

「でも、こんなにガリガリになっちまって」

「具合が悪いのは今朝からだ。…ガリガリはもとからだよ」

 受け答えを聞いて元気はありそうだなと晴豊は思った。

「病気なのか、そうじゃないなら緊張とかか?」

「僕が舞の前に緊張することは無い。絶対に」

「なんで?」

「楽しいから。どんな踊りでも。それ以外の感情に支配されることは無い」

「そうだろうなぁ。踊っている時の美世楽しそうだもんな」

 美世は意図せず顔をほころばせた。

「踊っている時は、楽しくて、ずっと続けばいいと思う。足が止まって初めて自分が疲れていたことに気づく。誰かの前で踊るときはその誰かの気持ちまでわかるような気がするしどれだけ多くの人に見られていてもひとりひとりの顔が分かる。嘘だと思うかもしれないけれど」

「思わないよ。美世が一番輝いて見えた」

 真っ直ぐにそう言われて美世は頬が熱くなるのを感じた。

「とにかく、調子が悪いのは多少だから。集合時間には学校に行くし、君はお祭りを楽しんできていい。心配してくれてありがとう」

 美世の言葉は嘘ではないが真実でも無かった。全身を覆うようなけだるさだけでなく肝が冷えるというか、悪寒がするというか、言語化し辛い不快感があった。身体がどこか悪いのではなく心に何か引っかかりがあるように感じていた。玉美には不調を伝えたが奉納舞の実行責任者にして祭りの執行委員でもある彼女が美世につきっきりになる訳にも行かない。美世は心配かけさせないためにも具合の悪さを過小評価して伝えていた。

「うーん…でも、美世が嫌じゃなければだけどさ、ここにいてもいいか?」

「どうして?」

「祭りもいいけど美世と二人で話すことって意外と少なかったから」

「…じゃあそこの椅子にでも座って」

 晴豊は嬉しそうに学習机の下にあったコロ付きの椅子をベッドの近くまで引き寄せた。

        *

 結局晴豊は夕方ごろまで美世の部屋に居座った。本当にどうでもいいことばかり話していたらもうそんな時間になっていた。

 西日になりつつある陽が部屋に差し込んできたとき、誰かが部屋のドアをノックした。

「美世、具合はどうですか?」

 玉美の声だ。

「はい、もう大丈夫です」

 返事をした美世のかわりに晴豊がドアを開ける。晴豊を見ても玉美に驚いた様子は無かった。

「本当ね、随分顔色が良くなった」

 確かに朝方よりも体調はかなり回復していた。晴豊としゃべって気が紛れたのかもしれない。美世は早く着替えて舞台に上がりたい気持ちでいっぱいになっていた。

「もう時間も無いから、二人ともここで着替えて学校へ行きなさいな。学校へは車で送っていってあげましょう」

 玉美はそう言うと、晴豊を別室に連れて行った。本番で着る浴衣は当日までのお楽しみということで一切見せてもらえなかったので、晴豊は初めてその絢爛な衣装を目にした。

「なんか高そうだなぁ。本当にタダで着ていいのかな?」

 晴豊に差し出された浴衣は、淡い紫色に金色の筋で大輪の花が描かれていた。地色の紫は首元近くになるにつれて少しずつ濃度を上げている。帯はそれに対抗するかのように真っ白でよく見ると菱形の花文様が描かれていた。着物に詳しくない晴豊でも、手の込められた逸品であることは見て取れる。晴豊の感想を聞いた春子は少し笑っていた。

「昔はこの浴衣着たさに村の女の子たちはこぞって奉納舞に出ると言ったものですよ」

「昔は女の子しか踊らなかったの?」

「ええ。今は人が少なくなったので女の子に限定しなくなりましたけれど」

「へぇ。今よりもたくさん人がいたんだ」

「村の規模は今よりも小さいくらいでしたけれどね、活気はありましたよ。それでも奉納舞に出られる子は赤野の一族が多かったわね。昔は粟見のあちこちに赤野の家がありましたから」

「この家以外にも赤野さんがいたのか」

「もちろん。ここは宗家ですが周囲に分家の方々が多く住んでいましたよ」

「その人たちはどこに行っちまったの?」

「そうねぇ…村の外にお嫁に行ったり、家族で引っ越したり、色々ね。段々と人が少なくなったから、住み辛くなってしまったのよ」

 浴衣を着た晴豊はさらに春子さんに化粧と髪のセッティングをしてもらった。鏡で自分の顔を見るとあまりにもいつもの自分と違い過ぎて目をこすりそうになった。春子さんが慌てて腕を引っ張ってくれたおかげで目じりの朱色の線を消さずに済んだ。この後も鏡や窓ガラスなどに自分の顔がうつるとその度にぎょっとした。白粉で真っ白になった顔が、どうしても自分のものだと思えなかったのだ。

「顔だけどこかからもらってきたみたいだ」

 春子さんが差し出した鏡を恐る恐る覗き込んで晴豊が言った。

「あながち間違いではないわね。面のかわりに化粧を施したと思えばいいですよ」

「面?」

「神に見せるのに相応しい姿を借りるということです」

 正直晴豊にはよく分からなかった。

 春子さんに屋敷の裏手に案内されると、横に長く黒いセダン型の車が後部座席のドアを空けて待っていた。

「おお、見違えたな晴豊君」

 運転席の前に立っていた美世のおじいさんが感嘆したように言った。どうやらおじいさんが運転してくれるらしい。助手席には玉美、後部座席には美世がもう座っていた。

「なかなかそれっぽくなったね」

 晴豊を見た美世の感想だ。美世の方はと言えばさすが自分とは比べ物にならない程様になっていると晴豊は感じた。浴衣は晴豊よりも少し濃い紫色で銀色の筋で小花が散らされていた。顔は晴豊と同じ様に白く塗りこめられた上に目じりに朱色を引いてあるのだが、それがしっくりくると言うか、似合っている。

 車は安全運転で四人を学校まで連れて行ってくれた。学校に到着するや否や玉美は貫禄ある大人たちに難しい顔で話し込まれ、どこかへ行ってしまった。晴豊と美世は舞い手の控室でもある体育館に向かった。草履を脱いで素足で館内に入ると、もうあらかたの参加者が集まっているようであった。確信が持てないのはそれぞれがすでに化粧をしてあるのでよく見ないと誰が誰だか分からないからだ。

緊張で浮足立っている人たちが多いのか、体育館にはせわしない話し声がいくつも湧き上がっていた。白い顔の人たちの間を縫うようにして、案内係の腕章を付けたささめと修が近づいてくる。

「美世、大丈夫?」

 そう聞いたささめの瞳が少し潤んでいる。

「うん、もう大丈夫。夕方になるにつれて良くなってきたから。ありがとう」

「良かった。美世がいなければ奉納舞が上手くいくわけがないからね」

 この修の言葉は大袈裟かもしれないな、と美世も思ったが思わぬところから反論が出た。

「出たよ、古参の奴らの赤野信仰が」

 言い放ったのは腕を組んだ不機嫌そうな一久だ。言葉には嘲笑が含まれていた。

「一久か。誰かと思った」

 一久に萎縮しかけた美世とささめと修の三人は、晴豊のこの言葉を聞いて少し笑ってしまった。一久は学校では前髪を後に撫でつけてみたり顔の側面を刈り上げてみたりと、かなり外見に気を遣っているようなのだが、白塗りにされてしまうと存外に個性の薄い風体になってしまっていた。晴豊は決してそれを嘲って言ったのではなかったが、そこにいる全員が思っていたことだったので他三人も笑ってしまったのだ。もちろん三人も馬鹿にする気持ちで笑ったのではないけれど、一久はこれをかなり悪い方向に受け止めてしまったようでみるみる鬼のような形相になってしまった。

「お前こそいくら顔を白く塗りたくっても卑しい貧乏人面が消えてねぇぞ」

「下らない。奉納舞は心を一つにしなければ上手くいかないのだから貶しあいなんてしないでよ」

 一久を諫めたのは美世だった。美世が真っ向から一久に口出しするのを、晴豊は初めて見た。

「何?お前まだ粟見のボス気取りでいやがんの?」

 嘲笑と、威圧を込めて一久は美世に言った。美世は一久のこういうところが嫌いだった。一久は誰に圧をかければ効果的にその場の空気が支配できるのかを心得ているのだ。

「甘やかされたお嬢さまみたいに育ったお坊ちゃんのくせに?」

 一久が転校してくるまで、美世はこんなふうに言われたことは無かった。だからそう言われたとき、反論できなかった。今でも一久の言葉は間違ってはいないのではないかと感じてしまう。

「一久、やめようぜ。いくら美世のことが好きだからってそんな風に気を引いても上手くいくわけないじゃん」

 時間が止まってしまたのかと思うくらい、一久も美世も修もささめも微動だにしない一瞬があった。

一久は今度は赤くなった顔を真っ白に戻し、無の表情になってしまった。

「何言ってんだよ、おまえ。頭おかしいんじゃねぇの」

 怒鳴るでも無く静かにそう言って、一久は四人から離れた。

「最悪だ」

 美世が言った。

「最悪な言葉を言ってしまった」

「ごめん」

 なぜ美世がこんなにショックを受けているのかは分からないがとりあえず晴豊は謝った。

「時に真実が一番人を傷つけることもあるからね。でも君が悪いんじゃない。アイツが勝手に自滅したんだ」

 修が晴豊を慰めた。言葉は平坦に放たれているけれど、修が人を気遣う言葉を投げかけるのは本当に親しい人間に限られることだった。

「いつかは誰かが歯止めをかけなければいけないことだったのよ。ごめんね、晴豊に言わせてしまって」

 そうささめが謝った。

「一久とのいざこざを話してこなかった僕も悪かった。祭りが終わったらその辺も話すよ」

 美世がそう言うと修も頷いた。

「明日あちらに行くことはほぼ確定だから誰かに聞かれたくない話も出来るだろうしね」

「え?そうなのか?」

「毎年祭りで集まったお手玉をあちらへ持って行くの。話してなかったかしら?」

「うん」

「ごめん。僕たちにとって当たり前のことだったから君も当然知っていると勘違いしてしまった」

 美世はそう言って苦笑した。

「持って行くお手玉って、どのくらいだ?まさか全部じゃないよな?」

 車でここまで連れてきてもらったとき、横切った通りには見物客らしき人々がたくさんいた。普段は何もない空き地に屋台が幾つもやって来ていて、揚げ物や甘いものや醤油を焦がしたような良い匂いが細く開けた車の窓から漂ってきたのだ。来場客がとんでもない数なのは晴豊にも想像がつく。お客さんの全員ではないにしても、かなりの人がお手玉を縫い綴じたのではないだろうか。

「全部だよ。本当に全部」

 修はうんざりした口調になって言った。

「粟見のお婆さん連中にとってお手玉を作るのなんて朝飯前だしお客さんは最後のほんの数針を縫えばいいだけだからね。あっと言う間にお手玉の山を築いてしまう。毎年お手玉の山を担いであちら側とこっちを何往復もするんだよ」

「時期も時期だし熱中症にも気を付けなければならなくて控えめに言ってもかなり重労働なの」

 修とささめの言葉には本当に苦労に思っていることが滲み出ていた。

「へへっ」

 晴豊の口から自然と笑い声が漏れた。

「何で笑えるの?」

 美世は少し引いていた。

「俺そういうのは得意だから」

「…君が来てくれて良かったと初めて思ったよ」

 美世の言葉に修とささめは目を合わせて何も言わず笑った。美世が素直じゃないことはずっと昔から知っている。

「奉納舞の披露まで残り十分となりました。舞い手の皆様は、舞台に集まってください」

 体育館のスピーカーからそう案内する声がして、舞い手たちの緊張感が一気に高まった。

「じゃあ、僕たちも持ち場に戻るよ」

「美世、晴豊、楽しんでね」

修とささめが立ち去り、晴豊と美世は舞い手たちに混じってぞろぞろと舞台の設置された運動場へ向かった。

 舞台は鉄骨の枠組みに外から見ると全部木で作られているのではないかと思わせるよう隙間なく木の板を張り巡らせた、巨大な長方形の形となっていた。舞台はグラウンドの中央に堂々と鎮座し、四方には周囲と切り離すかのように欄干が設けられている。しかし観客が舞いを見やすいようにするためか、欄干は低めで細い角材を上下に二本付けているだけの簡素なものだった。凝っていることに角材はよく見ると植物のようなものが彫りこまれている。階段から舞台に上がるわずかな間で、晴豊はそれが稲穂のようなものであることを確認した。

 練習ではこの舞台を使うことは許されなかった。本番の一回だけのためにこの舞台は存在し、翌日には解体されてしまうのだそうだ。木の板を草履の足裏で踏む感覚は、晴豊には体育館のそれよりも弾みが大きいように感じられた。しかも舞台の上からは、グラウンドを埋め尽くしそうなほどのたくさんの人が見えた。いつかあちらで見た美世の舞台のときみたいだった。あの時と違うのは自分は観客の一人ではなく披露する側の人間だということだ。自分の心臓がうるさいくらいに脈打ち、晴豊は人生で一番の緊張を味わった。周りが見えているのに見えていないような、不思議と視野が狭くなり音も遠くなるような気がして、早く終わって欲しいという思いで頭がいっぱいになる。

「大丈夫」

 隣にいる美世が小さな声で晴豊に言った。

「舞台の四隅を見て。いつもの笛の先生方がいる。僕たちの左隣にも、君の右隣から三番目にも、舞いを教えてくれた先生方がいる。もちろんおばあさまもいる。先生方が道筋をつけてくれる。いつも通りそれを追いかければいいだけだ」

 美世は声を落としてそうゆっくり言った。晴豊は美世の目を見て頷いた。

 周囲をつんざくような笛の音が響いた。舞いが始まる。晴豊の体は叩き込まれた動作を正確に再現した。始まってしまうともう、晴豊に何かを考える余裕は無かった。

 大きく両手を打ち鳴らしてから右手の先で空を仰ぎ、目線も空へと上げる。空はまだ夜空となることを拒み、薄青の端に夕焼けの赤がじりじりと迫っている。緩やかに手を下げて、足元の木目を見つめながら苗を植える動作をして一歩、また一歩とぐるぐる円を描くように回りだす。自分の手と、足と、床板しか見えない。何歩目と数えたわけではないけれど、上半身を伸ばすタイミングが分かった。そして大きく拍手をする。何度もその動作を繰り返すと、次第に聞こえてくる声がある。

 〝遠くからの、我らの声が、遠き粟見に、届きたる〟

 初めて奉納舞を見た日に聞こえた声が、今ははっきりと聞こえる。幼い声で、複数の誰かの声だ。しかしその声は晴豊の耳には届いても意識には届いていなかった。いや、声としてではなく別の作用となって意識に働きかけた。

 晴豊は無心になって舞いを続けた。集中とはまた違った、意識さえも確かではない不思議な不在感だった。そして意識は、情景が見えるにつれてはっきりとしだした。

 まず変わったのは床板だった。薄茶色の木目がだんだん透明に近い水色に変わっていく。それは空の薄青を映した水だった。水底には柔らかい灰色の泥があり、手にした苗を泥に植える。冷たい水が心地よく、清々しい初夏の風が額の汗を撫でていった。晴豊はいつの間にか本当に田植えをしている。しかし晴豊に違和感は無かった。水の中にはヤゴやオタマジャクシが漂い、田んぼは多くの命のゆりかごとなっていた。

 ああ、今年も苗を植える時期まで来た。秋に多くの実りがありますように。

 それを思っているのが晴豊なのか、他の誰かなのかも分からない。

 水面から細い緑の葉っぱを出す苗の何とか細いことか。しかし陽が落ち、また昇るたびに苗はどんどん成長した。背が伸び、太くなり、大雨や嵐に倒されることもあったけれど、そのまま起きあがれないものもあったけれど、それらは豊かな金色の一面を見事に作って見せた。その実りが見えたとき、晴豊の心には大きな喜びがあった。

 稲穂を刈り取る誰かの屈んだ後ろ姿が見える。自分も同じように刈り取った稲を腰に括り付けている。誰かの背中でおんぶされた赤子が泣いている。母親の優しい歌声が聞こえる。誰かの嬉しそうな笑い声も聞こえる。晴豊も笑っている。周りは皆、生成りの粗末な着物を着た人ばかりだったけれど、どの顔も満ち足りた笑みが浮かんでいた。

 見上げた空は青空ではなく、星々の瞬く夜空に変わっていた。パチパチと松明のはぜる音もする。

 祭りの夜だ。飲んで歌って、浮かれた声が飛び交っている。人々の輪の真ん中に、四方を松明で囲った一段と明るい所が見える。その中央は土が盛ってあって、鏡餅を乗せる土台みたいなものが置いてある。そこに供えられていたのは、刈り取られたばかりの稲穂だ。 

数多の稲穂の中から最も堂々として美しい形の稲穂が、神に捧げられていた。稲穂から視線を上にあげると大きな満月が空の一番高い所で自分たちを見下ろしていた。この月に、稲穂を捧げているのだろうか。

 周りで騒ぐ人々の顔にどれも見覚えは無い。それなのに懐かしくて、悲しくて、いつまでもここにいたいと晴豊は思った。晴豊はもう、自分が自分であることも忘れかけていた。

 誰かが自分を呼んだ。

振り返ってその顔を見ようとする。しかし誰かは分からなかった。顔が見える直前で大きな笛の音がしたのだ。それもひどく耳障りで耳を塞ぎたくなるような音だ。高い音も低い音も混ざった不協和音はそれまでの風景をかき消して現実の光景を晴豊に見せた。

舞台の上の舞い手たちが舞の途中の中腰のまま固まっている。ああ、みんな今、自分と同じところから戻ってきたのだと晴豊には分かった。

「今年も全員が一体となった、素晴らしい舞いとなりました。ご協力に感謝いたします」

 玉美が舞い手たちの作る円の中心に立っていた。いつの間に輪の中にやって来たのか。

 玉美は片手にマイク、もう片方の手に小さな横笛を持っていた。玉美は横笛を素早く懐に仕舞った。

「この後十九時から、打ち上げ花火が始まります。粟見夏祭りを締めくくる夜空の花、是非ご覧ください。ありがとうございました」

 玉美が深々とお辞儀をすると、客席は拍手喝采となり舞い手たちは奉納舞が終わったのだと初めて実感した。舞い手たちは決められていた手順通りに舞台を降りて体育館へと戻った。観客たちからの視線から離れると皆それぞれが体験したことを興奮気味に喋りだした。

「奉納舞をすると何か懐かしい気分になることはよくあるけど、こんなにも風景や実際に田植えをする感覚を感じたのは初めてだよ、今年の粟見は何かあるかもしれない」

 奉納舞参加通算二十回以上を誇るひろ子さんが早口にまくしたてると、参加した大人たちは口々にその通り、本当にと相槌を打った。子どもたちも田んぼにいた、とか昔の人みたいなのがいっぱい見えたとか自分が見たものを言葉で表せる限りに話し、答え合わせをするかのように話した相手には何が見えたのかを聞きたがった。

「なぁ、一久には何が見えた?」

 晴豊は偶々近くにいた一久に聞いてみたが、こっちの声は聞こえているはずなのに一久は振り向きもせず他の子の方へ行ってしまった。

「晴豊、ちょっとついて来てくれないか」

 美世に呼ばれて晴豊は体育館を出た。どこへ連れていくのかと思ったら、グラウンドとは逆方向の裏門側の花壇の傍でささめと修が待っていた。夕焼けはもう夜空にほとんど空を明け渡していて、門の外にある街灯がまばたきを何度か繰り返してから点灯した。

「僕は最後に誰かに呼ばれた気がして、振り返ろうとしたところを玉美さんの笛で呼び戻された。皆もそう?」

 口火を切ったのは修で、晴豊も美世もささめも頷いた。

「修とささめにも見えていたのか」

「ええ、観客にも奉納舞が作用することがあるのよ。一部の感受性が敏感な人に限定されるようだけれど。でも今年はいつもより見えた人たちが多いように感じたわ。舞いが終わった後の動揺が空気に感じ取れるくらいあふれていたもの」

 ささめの声はどこか不安げだった。

「僕も今回の舞はいつもよりももっとたくさんの声が傍にあった気がする。だから効果が大掛かりになってしまったのだと思う。でもそれよりも大事なことは自分を呼ぶ誰かを見た人が他にもいるかもしれないということだ。確認するけどここにいる全員はその正体を見ていないよね?」

「う、うん」

 真剣な美世に気圧されながらも晴豊は答えた。修とささめも頷いた。

「僕たちの背後にいたものがあれだと?」

「うん。確証はないけれど」

 修が尋ねると美世は神妙な面持ちのまま頷いた。

「でもそれなら呼ばれたのは多分僕たちだけで間違いないだろう。あちらに行けるのはこの四人だけなんだから」

「僕もそう思いたいけれど晴豊は外からあちらにやって来た。普通は出来ないはずのことが出来てしまったんだ。全く関係のない人があれに狙われないとは言い切れない」

「まるで晴豊のせいで何か起ってしまうのではないかと思っているみたいだね」

 そんなつもりで言ったのではない、と美世は言いたかった。でも修に言われたことは美世の気付いていない本心でもあったのですぐに否定が出来なかった。

「…何かが起こるのなら、明日あちらに行った時に気づくことが出来るでしょう。私も奉納舞を見たお客さんに何が見えたか、気になることがあったか色々聞いてみるから」

 険悪になりそうな空気を打ち消すようにささめが言った。四人の間に沈黙が下りる。

「じゃあこの話はもう終わりでいいか?」

 この重い空気も自分が疑われたことすらも気にせず、あっさりと晴豊は皆に聞いた。

「…うん、まぁ」

 不承不承に美世は言った。

「それじゃ花火見にいこーぜ!」

「えぇ?この空気で?」

 つい美世は言ってしまった。

「みんなは花火見たくないのか?学校の屋上からならよく見えると思うんだ。これ内緒にしてほしいんだけどさぁ、屋上に出る扉のカギ、かかっているみたいに見せかけてるけど、あれ本当は壊れてる。この間ちゃんと確認した」

 晴豊はしたり顔でそう言った。どこからどう見てもいたずらっ子の笑い方だ。つられてたまらず最初に笑い出したのはささめだった。修もほんの少しだけ口角を上げて言う。

「そういうところは優秀だね、晴豊」

「本当ね、あとは美世に行く気があるかどうかね」

「頼むよ美世。なんか食いたいものとかあったら俺買ってくるからさぁ」

 三人に縋るような目で見られ、たまらず美世は音を上げた。

「…分かったよ。行けばいいんだろう」

 勝手に校舎の屋上に上がって花火を見るなんて、晴豊が来なければ考えることすらなかっただろう。四人は屋台でそれぞれ食べ物やジュースを買いあさり、こっそり学校に戻った。この日以来毎年花火を見るために屋上に上るのが夏祭りの恒例となるのだが、そんなことを今の四人が知る由もなかった。

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