第4話
四
五月遠足。粟見小にはこういう名のイベントがある。文字通り五月に行く遠足のことなのだが、学年によって行き先が異なる。低学年は歩きで向かえる距離、つまり移動手段は徒歩なのだが高学年になるとバスが手配され、動物園や植物園、水族館などに向かえるのだ。
晴豊は断然水族館に行きたいと思い、美世はどこにも行きたいとは思わなかった。出来ることなら教室で一人留守番でもしていたい。でも休むと負けた気がするので絶対に休もうとは思わなかった。
「遠足の班決めはくじ引きにしまーす!」
担任の先生は空気を読まず元気にそう言った。もちろん生徒の返事はブーイングだ。しかしメンタルの強いこの女性教師には大した攻撃にならなかった。
「小学校生活も六年目になると人間関係だいたい決まっちゃっているでしょう?たまにはあまり会話しない子とも同じチームになる経験が必要です」
自信たっぷり異論は認めませんと言った感じで先生は皆にくじを引かせた。二十二人の生徒が五、六人ごとに四つの班に振り分けられる。晴豊と美世が同じ班になり、一久とその取り巻き立ちが別の班で固まる結果となった。この結果は担任教師的にはあまりいいものではなかった。彼女は彼女なりに孤立する美世をクラスの輪に何とか入れてやりたいと思っていたからだ。そのためにはこのクラスの中心的存在の一久ともう少し良好な関係になる必要がある。彼女の視点からすれば二人は完全に敵対している訳ではなく、多少の行き違いがあるに過ぎなかった。でもくじ引きを提案したのは自分なので今更変更するわけにもいかない。しかし年度はまだ始まったばかりだ、いくらでもチャンスはあると楽天的に考えていた。彼女は決して考え全てを口にはしていないが美世にはそんな考えがお見通しだった。正直言ってありがた迷惑だ。だがまだ若く希望に満ち溢れている彼女にそれを言っても通用しないだろうということも分かっている。新しいクラスは美世にとって非常にしんどいものだった。
「俺、アザラシのショー見たい!」
班ごとの行動ルート話し合いで晴豊が意気揚々にそう言った。結局美世と険悪になったのはあの日だけで、次の日以降晴豊は何もなかったかのように頻繁に美世に話しかけていた。美世は言葉や態度で迷惑だと表現していたが晴豊は気に留めていないようだった。しかし晴豊は美世が本当に話しかけて欲しくない時にはこちらに来ないという絶妙な機微を感じ取る能力も持ち合わせていたので、美世も晴豊のことを嫌いになりきれずにいた。
「じゃあ行き先は水族館できまりで良いかな?」
班長(これもくじ引きで決められた)の土岐(とき)が班員に問い掛け、他の班員から異論は出なかった。土岐は温和な性格の男の子で、他の班員であるカレンと祐美も自己主張が控えめの大人しい女の子たちだったのでルート決めは淡々と進んだ。
「あれ?あの班男子一人だけじゃん」
「かわいそうだな、土岐」
「おい、赤野はあんなでも男子だぞ」
馬鹿にして笑う三人の声が聞こえた。一久たちがわざと聞こえるように言っているのだ。晴豊以外の三人は、自分に言われている訳でも無いのに肩をすくめて怯えるように顔を下に向けた。
「よく毎日飽きずにちょっかいだしてくるなぁ」
晴豊は呆れてついそう言ってしまった。三人に直接言ったのではなかったが、いかんせん声が大きいので一久たちを刺激する結果となってしまった。
「あぁ、青野も男子か。悪かったなぁ」
「馬鹿、青野は女だよ」
「あんなのでもな」
一久たちは晴豊を逆上させようと囃し立てる。
「相手にするな。時間の無駄だ」
小さな声で美世が晴豊を諫めた。
「ごめんね、迷惑をかけて」
美世は他の班員三人に謝った。三人は同情と申し訳なさの入り混じったような表情で曖昧に返事をした。何故美世が謝らなければならないのか、晴豊はじめじめと嫌な気分になった。
「アザラシのショーを最前列で見ていたら思いっきり水被ったってお姉ちゃんが言ってたから、替えの服持ってきた方が良いかもね」
カレンが話を戻すように言い、会話は班の内側に戻った。話し合いの時間が終わった後に張り出された各班の目的地を見ると、一久たちの班は動物園へ行くことになっていた。美世はそれに少なからずホッとしていた。
*
五月遠足当日。まず晴豊を魅了したのは水族館へ向うために手配された大型バスだった。
「でっかいなぁ!」
「そっちは入口じゃないよ」
動き回る晴豊を美世が何とかバスに乗せ、窓側の座席に座らせると興奮冷めやらぬ晴豊は今度は窓に貼りつくようにして外の景色を見始める。
「あ!ささめと修がいる!」
晴豊は隣のバスに座っていた二人に気が付くと大きく手を振った。うるさい動作が目に入ったのか、窓側のささめが気が付いて手を振り返す。隣に座る修は手にした本から目を離そうとはしないが片手を軽く振ってくれた。
「修たちは植物園に行くんだっけ」
「そうだよ、二人とも植物が好きだから」
バスが動き出すと、晴豊は増々外の景色に夢中になった。山間のガタガタと揺れる山道から開けた何車線もある大きな道路に出て高速に乗ると、窓から見えるのは背の高い銀色の壁ばかりになるのに飽きもせず窓に張り付いて見続けている。
「何がそんなに面白いの?」
「速いところ」
まだまだ窓の外に夢中な晴豊とは対照的に美世は早くも疲労で眠くなっていた。最近は普段の稽古とは別に体を動かすことがあるので疲労回復が追いつかない。ささめに何か食事を作ってもらえばいいのだが、美世はこの特訓のことを誰にも話すつもりは無かったのでささめの力を借りることは出来なかった。
美世が密かに練習していたのは晴豊の動きの模倣だった。晴豊に俺より強くなればいいだろうと言われたことを、自分に嘘がつけない美世は何気にかなり深刻に受け止めていた。
実を言うとは助けてもらったのに喧嘩を売ってしまったのを悪かったと思っているのだ。自分でもなぜあんなに意固地になってしまったのか分からない。しかし今更蒸し返してあの時はごめんなどと言うのも何か違う気がするので今の自分に出来る努力をすることにした。踊りをやっている者として、一度見た動きを忘れないという自負はある。それでもあちら側の作用も働いていたのであろう晴豊の動きを再現することはほぼ不可能だった。今の自分に出来る範囲で晴豊の動きを真似しようとするのだが、真似すればするほど彼女の動きには迷いのない力強さと相手の攻撃を先読みする直感力が備わっていることを感じさせられる。どちらも自分には無いものだ。
羨ましい。
そうだ、僕は晴豊が羨ましい。誰かをこんなにも羨ましいと思ったのは初めてだ。
その新鮮な感情をまだ持て余しているだけなのだ、と結論付けているうちに本格的に眠くなってきてしまって、美世は水族館に到着する直前までうたた寝をしていた。
到着したその水族館の名前を天の川水族館という。壮大な名前だが割と普通の水族館である。しかしそもそも水族館が初めての晴豊にとってはそれはもう立派で最新式の建物に見えたのだった。入場チケットにスタンプを押してもらい、入場ゲートから数歩歩くだけでも晴豊はおおいにウロウロし、壁の注意案内を用心深く読み、水槽に顔を近づけすぎて美世に背中を引っ張られた。
「アシカショーは十一時からだ」
「一時間以上も先だね」
「まぁ道順通りに見て回ろうか」
水槽一つ一つを真剣に覗き込み周囲に笑顔で話しかける晴豊に、つられて周りも夢中になる。暗い通路の途中途中に、瞬く星のように(とパンフレットに書いてあった)小さな水槽が両脇に並ぶ様は確かに美しい。
「変わってるなぁ。魚の種類で水槽を分けるなんて」
「…水族館はそういう方針のところがほとんどだと思うよ」
「そうなのか。なんでだろうな」
「ただでさえ水槽は海や川より小さいんだからあんまりいろんな生きものを一緒にしたら食う食われるが凄まじいじゃないか。まぁ数種類を同じ水槽に同居させることもあるけど」
晴豊はこういう誰もが当たり前に思っていそうなことを質問してくるので答える美世が苦戦することもある。
通路の突き当りにはアシカのいる大きな水槽があった。これには班員全員が夢中になった。水槽の前には既に他の来場客や同級生たちが群がっている。多くの人が足を止める理由は、飼育員が丁度餌やりをしているところだったからだろう。アシカたちは水中に投げ込まれる小魚を優雅に泳ぎまわっては口にする。
「泳ぐのが速すぎて何頭いるのか分からないね」
祐美がアシカを目で追いながら言う。
「五匹、かな」
「俺もそうだと思う」
美世と晴豊は意図せず同じ目の追い方をしていた。
「よくあんなに速く泳ぐのにぶつからずに済んでいるね」
土岐はアシカをカメラに収めるのに苦戦しながら呟いた。土岐はこの道中にいた多くの水棲生物を、手にした小さなデジカメで撮影していた。
「この子たちはきっとショーには参加しない子たちだよ。こんな時間にご飯もらっちゃあ集中できないもん」
カレンがまるで関係者のように言う。
「じゃあショーに出るアシカはどこにいるの?」
「多分屋上のメイン会場でリハーサルか控えの部屋で休憩中だと思う」
祐美の質問にも素早く返事をする。
「詳しいな、カレン」
「私水族館好きだから」
感嘆する晴豊にカレンは少し照れながら答えた。
餌を全て食べ終えてしまったアシカたちは、奥にある壁と同色に塗られた門が引き上げられるとそちらへ続々と泳いで行ってしまった。空っぽになった水槽にダイビングスーツを着た飼育員らしき人が潜水する。手にしたモップで地面を磨き、上の水面では浮かんできた汚れを回収するために誰かが網を振っているのが見えた。水槽の清掃もあまり目にするものではないので面白いと言えば面白いが、やはり主役のいなくなった水槽を見続ける人は多くは無い。次第にたくさんの足音は遠ざかり、残っているのは美世たちだけになってしまった。本当は土岐もカレンも祐美も移動しようとしていたが、晴豊がまだ魅入られたように瞬きもせずジッと水槽を見つめているので動けずにいた。その微動だにしないところが不自然に思えて、美世は晴豊の肩を何度か叩いてみた。全くの無反応だった。
まったく。この変わり者は僕が引き受けるしかないじゃないか。
「先行ってて。晴豊は僕が連れてくるから」
申し訳なさそうにしつつも土岐たち三人が立ち去ってしまうと水槽の前にいるのは晴豊と美世の二人だけになった。美世が再び晴豊の表情を伺ってみると、その顔は驚きと恐怖で固まっていた。
晴豊には、アシカたちが水槽から立ち去った時からそこにいた誰とも違う景色が見えていたのだ。
奥の水門が開いたとき、青く暗い先の見えない不穏な空気が水槽だけでなく晴豊の周囲全てに広がった。晴豊は一人そのただなかに取り残された。
青い…暗い?いや、濁ってる…音はしない…
いや、水が耳元で鳴っている。ゴボゴボ鳴っている。
何だ?何も見えないけど、何かが近づく音がする…。
晴豊は無意識のうちに身構えた。しかしそれは間際に来るまで察知できないものだった。
気が付いた時には頭の少し上をそれが通過していた。横たわる誰かが。
その人が身に着けている黒っぽい袴には縦に銀の筋が入っていた。上の着物も黒っぽいな。こっちに背を向けているせいで顔は見えない。長い髪を後ろに一つで縛っているけど、首の太さと手首の感じからして多分男だ。でも不安定な水中で体が緩く回転している。もうすぐ顔が見えそうだ。
ゆっくりと、もしかしたらずっとこのままかもしれないと思えるほどにゆっくりと、でも確実にこちら側に顔が向く。
皮膚の色は浅黒く、切れ長の瞳は刺すように鋭い。頬骨が高く一切の無駄のない輪郭が印象的だ。晴豊はそこに数多の戦いを戦い抜いてきた者の壮絶な表情を読み取った。さらに晴豊を驚かせたのはこの強者が自分より数個年上でしかない若者のようだということだ。
この人は腰に短剣一本しか持っていないがもし敵対しなければならないのならまず自分に勝ち目はないだろう。
その人の口から小さな泡が洩れた。晴豊に向かって言葉が繰り出される。水中なのに声は鮮明に晴豊に届いた。
オマエハ オレノヨウニハ、 ナルナヨ
―はるとよ、晴豊!
美世の声が晴豊を急速に現実へ戻した。晴豊は悪い夢から目が覚めたばかりかのように、しばらく呆けて口がきけなかった。段々と周囲を認識できるようになると、美世のあきれた顔がまず目に入った。
「君って空っぽの水槽さえも珍しいの?」
「ああ…うん…」
晴豊のはっきりしない返事を聞き、美世は柳眉をひそめていよいよ心配そうな顔になった。
「どうしたの?具合悪い?」
「変なものが見えたんだ。あれは絶対現実じゃない」
美世の心配げな表情に真剣味が加わった。
「座って話そう」
アシカのいた水槽から踵を返して通路を少し進めば自販機とサイコロ型の布地の椅子が並ぶ休憩コーナーがある。二人は持参した水筒を手に椅子に腰かけた。
「土岐たちは?」
「先に行ってもらっている」
美世が腕時計を確認した。
「もうアシカショーまで五分も無い」
「ごめん」
「いいよ、僕は君の見たものの方が気になる」
晴豊は自分の見たものをなるべく正確に伝えようとした。美世は黙って聞いていたが、話し終えて水筒からお茶を飲む晴豊をしげしげと見つめて、
「君って霊感とかある方なのかな」
と問いかけた。晴豊はお茶を吹き出しそうになった。
「…わかんねぇ。でも島にいたときにこんなおかしな目に遭ったことは無い」
「そう、変なこと聞いてごめんね」
美世は水筒のキャップを開けたり閉めたりを繰り返しながら自分の考えをぽつりぽつりと言った。
「僕は君が粟見に初めて来たのにもかかわらずあちら側にまで来られたのは粟見そのものが君を望んでいたからだと思っていた。でも粟見でない場所で粟見に関する干渉が起ってしまったから君自身にも何か要素があるのかもしれない、って気がして」
「粟見に関係するのか?俺が見たもの」
「おそらくね。君が見た男、袴姿で腰に短刀しか帯びていなかったのだろう?」
「うん」
「君が見たものは多分〝果泥〟の最期の人間だ。武を持って粟見に仕え、あちらで禁忌を犯し、あちらで粟見に貢献するすべての人々を裏切った」
「裏切った?」
美世はさらに慎重に言葉を繰るため、箇条書きのような言い方になりながらも話を続けた。
「あちらで絶対に関わりを持ってはならないモノがある。それは粟見に生きる人間をいつだって狙っているから。それは集団でいるときには声をかけてこない。一人で取り残された人間を取り込もうとするから。だからあちらで一人になることは最も恐れなければならないことだ」
美世の表情に暗い影が差した。
「おばあさまと同世代だった当時の果泥の当主はそれに心を奪われてしまった。おばあさまは粟見を守るために果泥を追放しなければならなかった。結果、果泥は一族全て粟見から去り、彼らの存在は無かったことにされた」
「じゃあ俺が見たのはずっと昔に追い出された人間ってことか?」
まだ自分から見ても若者の域を出ていなかった彼の面影を思い返しながら晴豊は尋ねた。
「実物ではないだろうけどね。観念が独り歩きして君に降り注いだのかもしれない」
「なんだそれ。意味わかんねぇな」
「同感だね」
「それに何で美世は顔とか服の特徴だけで誰か分かったんだ?」
「僕は彼らの話をおばあさまから聞いている。彼らを追いだした赤野の人間だけは彼らを忘れてはならないというのがおばあさまの方針だから」
「そもそも何で俺の前にだけ出てきたんだろう」
美世が疑問に答えてくれることをいいことに、晴豊は質問をぶつけ続けた。
「君はあちらで武を披露する役割を背負ったからね。その共通点が果泥を引き寄せてしまったのではないかな。厄介なものに目を付けられてしまったね」
美世の言葉で晴豊が少しだけ不安そうな顔をした。晴豊は良くも悪くも分かりやすい。
「気に病むことは無い。君が一人で悩まなければいいだけの話だ。今度もしこういう不思議なことが起ったら僕に教えて」
「分かった」
正確に言うと晴豊は不安だっただけではない。美世に伝えなかったことがあることに罪悪感があったのだ。
お前は俺のようにはなるなよ、と言われたことを晴豊はどうしてか美世に言えずにいた。
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