第3話
三
「告部島(つぶじま)から来ました、青野晴豊です。こう見えて女です。よろしくお願いします」
異色の転校生はすぐさま学年中の噂の的となった。晴豊はボロボロの黒いランドセルを背負い服装は半袖短パン、ぶかぶかの半袖や短パンから出るひょろっとした手足は日に焼けた赤茶色で、身長ばかりが高いからどうしても男の子のように見えてしまう。見た目だけでなく中身も男の子のようなところがあって悪く言えば少々ガサツだが明るくて気の良い奴だから、美世が思っていたようにすぐにクラスの人気者になった。
「何で黒いランドセルなの?」
「島の兄ちゃんのお下がりもらったから」
「告部島ってどこにあるの?」
「ここよりもうちょっとあったかい所だよ。つぶみたいに小いせぇからつぶじまって名前になったんだって」
かわるがわる話しかけてくるクラスメイトに晴豊は嫌な顔一つせず答える。
「俺たちも去年転校してきたんだよ」
そう晴豊に話しかけてきたのはあの春休み中にグラウンドにいた男の子たちだった。
「初めはこんな何にもない田舎に来て超つまんねぇなって思ったけど住んでみれば悪くないから」
転校初日の放課後、晴豊はこの男の子たちに囲まれた。晴豊に少し先輩風を吹かせて話す子の名前は一久(かずひさ)で、周りを従えるのが当然のような気迫があった。
「案内するところも大してないけど今日は一緒に帰ろうぜ」
「いや、いい。もう案内はしてもらってるから」
晴豊はそうきっぱりと断ると帰り支度をする美世の席へ向った。美世と晴豊は同じクラスに振り分けられていた。
「美世、一緒に帰ろう」
クラスの空気が凍り付いた。美世は一瞬驚いた顔をして、直ぐに嫌そうな表情をした。
「おばあさまがそうお命じになったのなら仕方がない」
「は?玉美さんが?」
美世は晴豊を鋭くにらんで黙らせると腕をつかんで有無を言わさず教室を出た。そのまま学校を出て美世の家がある山の手前に来るまで一言も話さず、腕も放さなかった。
「学校では僕と関わらない方がいいと言ったよね」
やっと腕を放した美世が責めるように言った。
「言った。けど俺は美世と一緒に帰りたかった」
美世は面食らったような怒ったような戸惑うようなひどく複雑な表情をした。
「…僕に君の面倒を見る余裕は無いから」
それから晴豊を置いていくようにずんずん歩いて行ってしまった。が、突っ立っている晴豊を振り返って
「用が無いなら一緒に来れば?」
と言ったので晴豊は喜んでついていく事にした。
「春休みの間はタダにしてくれたけど今日から金かかるのか?」
「今日は稽古の前におばあさまから話がある。多分それ次第だ」
屋敷に辿り着くと晴豊はいつもの一階の稽古場ではなく初めて二階に通された。美世は日差しのよく入る洋間に晴豊を案内した。部屋の中央にある木製テーブルには既にクッキーやケーキや晴豊には名前の分からない甘い匂いのする焼き菓子たちが美しく皿に並べられている。
「座っていて。ささめと修もじきに来るから」
洋間は所謂ダイニングキッチンの作りになっていて美世はキッチンからティーポットとカップ、取り皿を持ち出した。
「紅茶に砂糖何杯入れる?」
「紅茶飲んだこと無ぇよ」
「じゃあ僕と一緒にしておく」
晴豊は小さな皿に乗っかったティーカップを奇怪なものを見る眼差しで眺めた。
「何で皿の上にコップ置いてあるんだ?」
「さぁ?僕はそこに疑問を持ったことが無い」
美世が取り分けてくれたお菓子を食べているうちにささめと修がやって来た。修はランドセルとは別に風呂敷を抱えている。
「遅くなってごめん。今回のは一度でも落としたら壊れるのが確実なものだから慎重に運ばなくてはならなくてね」
修はそう言うと風呂敷をテーブルの奥にあるソファーに丁寧に置いた。
「美世と晴豊、同じクラスになれたのね。良かったわ。私と修もまた同じクラスになったの。これで五連続同じクラスだわ」
ささめはそう微笑んだ。
二人がやって来たのを見越したかのように部屋に玉美が入ってきた。今日は薄水色の着物に濃い緑の帯を締めている。
「いらっしゃい。急に呼び出してごめんなさいね」
玉美は晴豊と美世の向かい側に座り、その両側に修とささめが座る。今日も玉美さんはなんかオーラがあるなぁと呑気に晴豊は思っていた。
「あなた達には今日、あちら側へ行っていただきます」
晴豊以外の三人は特段大きな反応を返さなかった。まぁそうでしょうね、といった感じで事情を知らない晴豊だけが呆けた顔になる。それに気が付いた美世が
「今回は晴豊も行くのでしょうか?」
と話を向けた。
「ええ、晴豊にもお願いしたいのだけれど」
「お、はい、行く!行きます」
「よく知りもしないのに返事をしない方がいいよ。あちら側に行くってことは死ぬかもしれないし死にそうな状況になっても誰も助けに来てくれないってことなんだから」
修が紅茶の湯気で曇った眼鏡を拭きながらぼやいた。
「そうね、残念だけど修の言ったことは過言でも脅しでもないわ。あなたが美世を助けてくれたあの場所は、人間の法が及ぶところではないの。この子たちはそこに何度か行って幸運にも無事に戻っては来られたけれど、次もそうである保証はないわ。美世の話を聞く限り、あなたはその危うさを身をもって感じたのでしょうね」
「うん。よく分かんないけど、美世たちがあのよく分からん場所に行くなら俺も行くよ」
玉美はゆっくりと諭すように言ってくれたが、晴豊の能天気さは変わらなかった。それを聞いて玉美の様子が見て取れるほどに明るくなった。
「そう言ってくれると思いました。では早速向かっていただきましょう。口で説明すると余計な事ばかり喋ってしまいますから」
玉美がさも嬉しそうに笑い、他の四人を促すように立ち上がった。
「おばあさま、晴豊への説明はこれだけですか?」
たまらず美世が問いかけた。
「ええ、これで充分です」
美世は素早く左右のささめと修を見遣ったが、二人とも首を横に振るだけだった。
玉美の決めたことを覆すことが出来る人間など、この粟見に一人もいないのだ。
*
あちらに向かう前に準備があると美世が言うので、晴豊とささめと修は門前で待っていた。
「あちら側というのはね」
修が話し出す。
「特定の場所で特定の掛け声を複数人で発すると辿り着ける場所だ。一人で行くと戻ってこられないと言われている。でも複数人の内一人でも受け入れられない者がいてもダメだ。何度やってもあちら側には行けない。君は僕たちが教わっていたこのやり方を全く無視してあちらへ侵入してきた」
「勝手に入っちまって悪かった…のか?」
「奇跡だよ。生きているのが」
「私たちは小さい頃からあちら側の恐ろしいお話をたくさん聞かされているのでとても慎重に昔からのやり方を守っているのです。それが無いあなたが怖いような新鮮なような気持ちがしてまたあちらへ向うのに躊躇いがありました。玉美さんはそれを見透かしていたのでしょう」
「その危ない場所、何度も行っているんだろう?」
「僕たちは未熟で玉美さん以外の先達者たちとの世代的断絶もあるからあちらへ顔を出す訓練を繰り返しているところだったんだ。少しずつその頻度を上げていたのだけれど、君が来てからあちらには一度も向っていない」
「そっか、俺を連れていく決心がつかなかったんだな」
「有り体に言うとその通りだ」
「でもいつまでもそれではまかり通りません。あちら側との絆を保つ役割は私たちにしかできませんから」
「あちらで何をするんだ?」
「それは三者三様だ。美世を見ればわかるだろう」
修が門の内側を視線で指示した。玉砂利を鳴らして美世がこちらへ走り寄ってくる。
「待たせてごめん」
着替えと化粧を施した美世に晴豊は釘付けになった。
「テレビの人みたいだ」
「それは良かった。なるべくテレビの人間に寄せたんだ」
「今回はアイドルなのね」
「うん、これがあちらの要望に一番近い仕様だから」
美世はキラキラ光る黒いジャケットにひらひらした白いスカートを穿いている。ジャケットの袖口からも襞のたくさんついたブラウスがはみ出ていた。長い髪にはリボンのヘアピンが留めてある。最近流行している集団で歌って踊るアイドルの衣装を模していることは晴豊にもわかったが、そのアイドルのことはよく知らなかった。
「さすが春子(はるこ)さんだな。完璧な仕事だ」
修が美世の衣装をジッと見て呟いた。春子さんというのは晴豊がここに来た初日に美世の世話を焼いていたあの背の高い婦人のことだ。晴豊も稽古場で何度か顔を合わせている。
「あれ?玉美さんは?」
「おばあさまはここには来ない。これから僕たちだけで向かうんだ」
美世は門からまっすぐに伸びる石畳ではなく、塀に沿って歩き始めた。
「どこ行くんだよ?」
「もちろんあちら側だよ。あちらから帰ってくる道と向かう道は同じではないんだ」
修がそう教えてくれた。四人は塀の先にある細い小道を一列に登って行った。小道はほんとうに狭くて、両足を並べられるだけの幅しかない。たまに親切なのか石を階段状に積み上げて登るようにしてあるところもあったが草や木の根に覆われて一部しか表出していないので気を抜くと足を引っ掛けそうになる。先を行く晴豊以外の三人には慣れた道であるからなのか、誰も転びそうになることは無い。
登り道は周りの木の三倍以上は幹の太い大木の前まで続いていた。その木を中心にして半径二、三メートルほどは草も生えない更地となっている。何となく感じていた生き物の気配、鳴き声や足音だけでなく風が鳴らす枝の囁きすらもその更地に踏み入れた途端に遮断されてしまったかのように一切聞こえなくなってしまった。
巨木は青々とした葉を枝に繁らせていた。確かに枝が風に揺れているのに音もしなければ葉が舞い落ちてくることも無い。晴豊なら登ろうと思えば枝に手をかけることも簡単に出来るはずなのに、一番下に生えている枝にすら自分の手が届く気がしない。見えているよりもずっと遠くに巨木があるような気がする。不思議な感覚に支配されて巨木を見つめていると美世に背中を叩かれた。
「ぼうっとしていればあちらに行ける訳ではない」
「ごめん、つい」
「なかなかお目にかかれないものから目が離せない気持ちは分かるけどね」
修がささめの隣で呟いた。
美世が何も知らない晴豊に説明をする。
「作法は簡単なものだ。全員が手を繋いでからある掛け声を発するだけ。ここでそれを言ってしまうと言った者だけがあちらに向かってしまうかもしれないから僕の口からは言えない。君はこれを見て声を発してくれ」
美世は白い長方形の紙切れを晴豊に差し出した。
「僕たちが手を繋いでからひっくり返して言葉を見るんだよ」
「やけに慎重だと思うかもしれないけれどそれだけ一人で向かってしまうことを恐れているということを忘れないで」
修の言葉に頷いて、晴豊は美世から紙切れを受け取った。片手に風呂敷を持つ修、ささめ、美世、晴豊の順に一列に手を繋ぐ。美世に目で促されて晴豊は繋いでいない方の手に持った紙切れをひっくり返して文字を見た。握られた手に力を込められたのを感じ美世に視線を向けると美世は声に出さず口の形だけでせーの、と言った。
「声に応じて我らは来たり我らを呼ぶは粟見なり」
巨木の枝から葉が一斉に舞い降りてきた。晴豊はたじろいだが美世が固く手を握ったままなので動いてはいけないようだと察知した。薄緑の葉が視界いっぱいを覆う。晴豊は息もせずにそれを受け取った。青葉が顔から流れ落ちた後に現れたのは紅葉真っ盛りの山の中だった。
「秋か。悪くは無いな」
修が手を離して落ち葉を拾った。
「君を連れたままあちらに来る、はクリアできたね」
珍しく美世は晴豊に笑いかけた。しかし晴豊はさすがに驚いていて笑い返すことは出来なかった。
「あちらは私たちの世界と違って季節がバラバラなの。向かってみないとどの季節か分からないのよ」
ささめはそう言うが季節どころか場所さえもさっきとは違っている。巨木は姿を消し、落葉樹の群れの向こうに幾つも聳える山々が見える。晴豊の覚えている限りそちらには海があるはずの方角だった。
「俺たち、迷ったのか?」
呆然とする晴豊に
「それはこれから次第」
と美世が答えた。
美世と修が前列、ささめと晴豊が後列となり一行は秋の山を下るように歩いた。人の手が入っていないのか道と呼べそうなものは無い。だが晴豊を含め四人は足を踏み外すこともなく淡々と下って行った。野生児の晴豊は当たり前だが他三人もかなり山歩きになれている。
晴豊は夜でもないのに鈴虫の鳴くような音がするのが気になった。
「どうやら僕を贔屓にしてくれている方が近いみたいだ」
「それならしばらくは安心だね」
この前列の会話に加わろうと晴豊が口を開いたその時だった。
「しゅ―」
ささめが慌てて晴豊の口をふさいだ。
「ここで名を呼んではだめ」
鬼気迫る表情に気圧されて晴豊は口をつぐんだ。後ろ二人の様子に気が付いた修が振り返る。
「僕を贔屓にしてくれる方はとても強力な方だ。かの方の近くで騒ぎを起こそうとする者はそうはいない」
晴豊は分かったというかわりに何度も頷いた。ささめの手がまだ口から離れていなかったからだ。
「急にごめんね」
ささめがそっと手を外す。
「彼女が必死になるのも無理はない。名を呼ぶと縁…繋がりができてしまうから。戻れなくなるって言われているんだよ。だからここでは個人名は言えない。はじめに教えられれば良かったのだけれどあちら側のことはあちら側で教えると言うのがおばあさまの基本方針だから」
美世はこちらを振り返らずにそう言った。
「おっかないところなんだな」
思わず晴豊は呟いた。
「ええ、危険もあれば恵みもある。その恵みのために幾人もの方が戻ってこなかったと言われているわ」
「戻ってこれなくなるかもしれないのに欲しいものがあるのか?」
「きっとあちら側に来た者にとって一番重要なのはそれじゃないんだ。ここは自分の一番得意なことを武器にして渡り合う世界だから」
修がいつも如く独り言のように呟いた。虫の鳴く声が一段と大きくなってきたので晴豊にはより聞き取り辛かった。しかも鳴き声の種類も増えてきたような気がする。
リーンリーン、ギチギチギチ、ガーガーガーガー、ギィ、ガッチャン
虫の声が大きすぎて体が揺さぶられる。いや違う。おのずと体が震えていた。歯の根も噛みあわないような震えが止まらない。
「なぁ、なんか、震えが、止まらないんだけど。俺だけ?」
たまらず晴豊は皆に問いかけた。
「君、鋭いんだね」
不意に修が立ち止まる。それに合わせて他二人も歩くのを止めた。
「僕の交渉相手の住処だ」
修が指さした先に木々に隠されるようにしてひっそりと佇む洞穴があった。晴豊にとって洞窟が特に物珍しいという訳ではない。むしろ島の奥地にある崖の窪みを洞穴と認識し、勝手に秘密基地にして木の実やお菓子を持ち込んでいたこともある。しかしいま目に見えるそれは、今まで洞穴と呼んでいたものよりも遥かに洞穴と呼ぶにふさわしいのだと感じざるを得なかった。いびつな形の入り口には天井から刃のように鋭い氷柱が生え、しかもそこからは冷たくて湿った嫌な臭いのする風が吹いてくる。晴豊にはその怖気のする風がダイレクトに伝わってきていた。この中へ入るなんてとんでもない、とても恐ろしくてやりたくないことだ。
「ここから僕と君たちは別行動だ。君は二人についていってくれ」
修がそう言った。
「一人で行くのか?」
思わず晴豊が引き止めるように問いかける。
「いつもそうしているよ」
「でも…危ない、気がする」
「君たちならね。僕は平気」
そう言って本当に一人で洞穴に入ってしまった。たまらずに追いかけようとした晴豊を美世とささめが両脇から止めた。晴豊は二人に両腕を抑えられたまま修の姿が完全に洞穴に呑みこまれてしまうまで見守ることしかできなかった。
「行こう、僕たちにも待っていて下さる方々がいる」
腕を放した美世がそう言った。三人はまたあても無く山を歩きだした。晴豊はまだ修のもとへ行った方が良いのではないかと迷っていた。それを見越してか晴豊は両脇を美世とささめにがっちりと挟まれた。
「まだ、自分しか受け入れてもらえないようだと言っていたわ」
左側のささめが言う。修のことを話しているらしい。
「その方はね、見ただけで分かってくださるのですって。自分が造形のどこにこだわりぬいたのか、頭の中で浮かんだどんな情景を表そうとしているのかを。雑念や思い通りにならなかったことも全て分かってしまうのですって。それをとても幸福なことだとあの子は思っているわ」
初めてくる自分よりも二人はこの場所のことを理解しているし修のことを信頼している。晴豊の修を置き去りにしたように感じていた後ろめたさは少し薄れた。
「君、閉所恐怖症なのかな。洞窟を異常に怖がっていたようだし」
美世が聞いてきた。
「洞窟がっていうより雰囲気っていうか…嫌な気配がしただろう?臭いとかさぁ」
ささめも美世も感じていなかったようで怪訝そうな顔をする。
「あの子もあなたのことを鋭いようだと言っていたから分かる人には分かる何かが発せられているのでしょうね」
「なぜ初めて来る君に分かって僕たちに分からないのかが気になるな」
虫の音は洞穴を離れてから徐々に遠ざかり、それと関係あるのかはわからないが地面に降り積もる落ち葉も少しずつ減ってきた。それもそのはずだ、周囲に生えていた落葉樹が少なくなってきている。しかも心なしか下り坂の傾斜が緩くなっているようで歩きやすくなってきた。もうすぐ山を下り終えることになるのだろうか。
樹が少なくなることで視界が開けてきたので、晴豊には先にある黄金色の絨毯が見えた。
「田んぼだ!馬鹿でかい田んぼがある!」
二人にもそれが見えたようで
「次は私ね」
と、ささめが前に歩み出た。彼女が大きく手を振ると、稲穂の上を何かヒト型の輪郭が薄く浮かび上がった。
ふふ…うふふ…ふふ…
女の人の笑い声だ。
「あれが彼女を特別に思って下さる方だよ」
「み、お前にも見えるのか」
「見えるし聞こえている」
晴豊は美世の声に若干の不機嫌さを感じ取った。
「もしかしてさっきの洞穴のこと根に持ってるのか」
「持っていない」
「持ってるじゃん」
「下らないことで揉めないで。行きましょう」
二人はささめの後に続いて秋めいた景色とは裏腹に青々と生い茂る草を踏みしめて田んぼへ近づいていった。周りには道や家などの人工的なものは全くなく、川から水を引き込む為の溝も見当たらない。平地に突然どこかから持ってこられたかのように不自然に設置された田んぼだった。近づくにつれて、稲穂の上の輪郭もよりはっきりと見えてくる。
それは稲穂の舞台の上で踊る女性のように見えた。長い黒髪を後に緩く束ね、額に金の飾りを輝かせている。白い着物に赤い袴の巫女のような衣装で、片方の手に鈴が山の形に連なった楽器のようなものを持ち、もう片方の手でこちらを手招きしている。不思議なことにその楽器の音や衣擦れの音は一切しないのに、女の声らしきものだけが聞こえてくる。
おいで…こちらへ…
彼女が青く塗られた瞼を開ければ、黒く輝く瞳が三人を吸い寄せる。白い頬も深紅の唇も、言葉に言い表せないほどの魅力に満ちていた。晴豊はふらふらと彼女のもとへ足を進めようとした。しかしささめがその腕を引っ張って引き留めた。
「あまり近づいてはだめ。美世と一緒に下がっていてね」
一足先に我に返っていた美世が晴豊の手を取った。美世とささめが頷き合い、ささめだけが金の稲穂の中に足を踏み入れた。
「こんにちは、稲穂の君」
ささめが彼女に話しかけると、彼女はパッと微笑んだ。
「待っていたわ!話したいことがたくさんあるのよ!」
彼女は稲穂の上をすべるように走り、ささめの手を取った。
「さぁ、こちらへ来て!」
彼女の声とともに稲穂が広がる。まるでお金持ちが自分の歩く道に敷く赤いカーペットのように、稲穂の道が伸びていった。
「今のうちに行くよ」
美世は小さな声で彼女たちとは逆方向に晴豊を引っ張った。二人はささめたちに背を向けてこそこそと草むらの中を分け入っていった。
「ここじゃあ名前を呼んだらダメなんだろう?」
ささめたちが点のように小さく見えるようになってから晴豊は美世に訊ねた。
「正しくは名前を呼ばれる、だ。こちらから方々に呼びかけるのはその方と信頼関係が築けているのなら問題ない。さっきの方は季節によって現れる景色が変わるから、その情景に合った呼びかけをすれば良いそうだ」
黄金の田んぼから遠ざかった二人は山からも離れて平野を進んでいく。田畑、民家、道路などといった人工的なものはやはり見つからず、ふくらはぎをくすぐる雑草が一面に広がり時々塊になって生える貧弱な木々がぽつぽつと見えるばかりだった。晴豊は茶色に枯れだした猫じゃらしをちぎってみたりカラスムギの実を手でバラバラにほぐしてみたりした。どちらも現実の感触と変わりないように感じる。
「これ、乱暴に扱うな」
どこからか声が降ってきた。
「乱暴者だ」
「乱暴者だ」
「頭をもいだ」
「頭をもいだ」
「首を千切った」
「首を千切った」
小さな声が幾つも幾つも湧いてくる。どうやら晴豊のことを責めているらしい。
「ご、ごめん。千切って悪かったよ」
晴豊がそう言うと反響する声は小さくなり消えていった。
「命拾いしたね」
澄ました声で美世が言った。
「僕を贔屓にしてくださる方々が思ったよりも近くにいたみたいだ」
「こういうことは前もって教えてくれても良かったんじゃないか」
「自分で恐ろしい思いをしなければ覚えないから仕方がない。自転車に乗れるようになる前に転ぶのと同じだ」
「わかんねーよ、俺自転車初めから乗れたもん」
「は?初めから?」
「三歳ぐらいの時には島のじいちゃんの自転車勝手に借りて乗り回してたんだってさ。ペダルをこぐほど足長くなってなかったから蹴り飛ばしながら漕いでたんだって。乗り方なんて誰も教えてないから見ながら覚えたんじゃないかって。だから俺記憶がある頃には自転車乗れてたんだよ」
「自慢話はよしてくれ」
「自慢なんかしてねーよ。そっちが自転車の話したんだろ?」
美世は増々晴豊が気に入らなくなった。
「お前をひいきにしてる方ってどこにいるんだよ?」
「よく草むらを見れば見つかる」
そうややつっけんどんに返されたので、晴豊はしゃがんで草と地面の間をじっと見つめてみた。緑色や茶色の茎、葉、落ちている花びらやもみ殻…変わったものなど見当たらない。
「草しかねーよ」
そよぐ草が髪や頬や鼻をくすぐり、晴豊は雑に払いのけた。
「乱暴者だ」
「こいつは呼んでいない」
「侵入者だ」
また声がした。しかもさっきよりもずっと耳元でだ。どこから声がするのか、晴豊にもやっと分かった。
「く、草がしゃべってる」
「そうだよ。僕の大事な観客だ」
美世は周囲を見回して、自信ありげに笑みを見せた。
「今日も方々に舞を披露しにまいりました」
草木が一斉に騒めいた。さながら主役の登場に沸くライブ会場のように熱気が駆け巡る。
美世の足元に生えていた草が、生き物のように蠢いてその場を離れる。美世を中心にして円状に土がむき出しになり、さながら舞台のようだった。
「これじゃ狭すぎる!もっと広げて!そこは花道!あっちはスクリーン!二階席!照明!音響!」
美世の声とともに世界にライブ会場が湧き出てくる。鉄骨の舞台、その周りを囲む客席、更に遠くで草木たちがぐんと伸びあがり、青空を遮るように天井までもを作ってしまった。
その暗い天井から幾つものライトがただ一人をめがけて降り注ぐ。晴豊はいつの間にか客席の最前列で観客の一人となっていた。周囲に密集する気配を感じるのに人の姿は見つけられない。暗闇に呑まれた客席は、目には見えない誰かが手に持つペンライトの様々な光によってその巨体がいかに大きく辺りを取り巻いているかを晴豊に示した。晴豊はもちろんライブ会場など今までに行ったことが無い。その圧倒的な人数が生み出す熱気、残像がうつりそうなほどの強烈な光、挨拶がわりのギターやドラムの応酬に、目眩がするようだった。余りにも沢山の刺激を様々な器官に受けてほとんど混乱状態になる。
「どこを見ているの?」
美世の声が晴豊を混乱から取り戻した。
「主役は僕だ」
それは歌詞の一部のようだった。だから晴豊に直接言ったのではなかったのかもしれない。でもここにいるのであろう誰もがそうであるように、晴豊には自分めがけて言われたように感じたのだった。
それで眩暈のするような雑音は消え去った。美世の声、体の動き、表情の一つ一つが他の何よりも晴豊の耳目を惹きつけた。その楽曲はキラキラした可愛らしい女の子たちが何人も集まって歌い踊るものであることは晴豊も知っていた。しかし美世は一人でさも当然のように踊って見せた。一人のものにしてしまった、と言う方が正しいかもしれない。構成の何をどう変えたのかなど晴豊には分からない。でも今美世が見せているものは、晴豊が何となく知っていた以前のものとはまた違うものだということは感じ取れた。
歌声や踊りが晴豊の心をここまでどうしようもなく掴んだのは、これが初めてのことだった。しかしその陶酔は突然舞台に落ちて来た侵入者によって消え去った。
最初の衝撃は美世の背後にあった照明器具が落ちてきたことだった。照明のレンズが粉々に砕けてあたりに散る。あと数センチ違っていたら美世に直撃していたかもしれない。
晴豊は美世が無事なのを一瞬で確認すると、照明が備え付けられていた天井付近に素早く視線を移した。これだけでは済まないという気がしてならなかったからだ。
照明があったと思しき所から外の光が差し込んでいた。穴が空いてしまったらしい。そこから何者かが天井からの結構な高さをものともせずに飛び降りてくる。
侵入者の正体は立派な甲冑に身を包んだ鎧武者だった。まるで演出なのではないかと思われるほどに派手でものものしい登場だ。
一体何が目的で、どうやって侵入してきたのかなどという疑問を持つ前に、晴豊の体は動いた。ステージに飛びあがり、美世と武者の間に割って入る。武者が左脇の刀を抜き美世に切りかかる直前で、晴豊はその手元を叩き刀を落とすことに成功した。武者は腰に差したもう一つの刀に手を伸ばす。晴豊は武者の腹を強烈に蹴りつけて体勢を崩させるとその隙に転がっていた刀を手に取った。
「逃げろ!」
武者から目を離さずに晴豊は叫んだ。相手は既に刀を手に構え直していたからだ。斬りかかってくる、と思った瞬間に構えた刀を衝撃がつたう。重い衝撃を、今までろくに手にしたことも無い刀で防ぐのは無理な話だ。父親が刀鍛冶だからと言って晴豊も刀に触れてきた訳ではない。むしろ子どもは危ないから手を出すなと言われ遠巻きに見るだけだったのだ。競り負けて刀を落としてしまったところを武者に切りつけられる。
切っ先が振り下ろされるところを晴豊は瞬きもせずに見ていた。少しでも身をよじれば怪我を最小限に出来るかもしれない。でも早く動きすぎてもダメだ。相手に気取られる。
軌道ギリギリで躱さなければ。恐怖は無い。生き残るための最善手を考えるだけだ。
しかし刀の動きは不自然に止まった。美世が頭の飾りを武者の顔めがけて投げつけたからだ。軽い飾りだったが正確に面頬に当たったので武者の動きが一瞬止まる。晴豊はその一瞬をまた相手の刀を振り落とすことに使った。刀勝負では負けが目に見えているので何としても素手での戦いに持って行きたかったのだ。相手がまた刀を取り落としたのを喜ぶ間もなく今度は硬い拳を鳩尾に喰らってしまった。鈍痛と急激な吐き気がこみ上げる。
「刀も持てぬ軟弱者が此度の相手か。くだらんな」
低く淀んだ武者の声を聞いて晴豊の中をカッと熱いものが駆け巡った。
何を言っているのかよく分からないが自分の実力不足をあげつらわれたのは明白た。自分でもそれが分かっていたからこそ、余計に晴豊は怒りの感情に呑みこまれてしまった。
「誰がくだらねぇんだオラァ!」
晴豊はしゃにむに武者に突進した。暗赤色の鎧が武者の胴体を包み、腕にも脛にも籠手や脛あてが覆ってあるのでただ殴りつけるだけでは大した攻撃にならないだろう。それでも晴豊は体ごとぶつかりながら兜の下の面頬に手を伸ばした。そこが武者の全身を覆う鎧の中で唯一簡単に引きはがせそうだと思ったからだ。
幸運にも武者に払いのけられる前に指先が届く。晴豊は全身を投げ飛ばされたが辛うじて相手の面頬を掴んだ。しかし背中から客席に落ちた衝撃で簡単には起き上がれそうにない。だがこれで狙う箇所が出来たはずだと晴豊は相手の顔を見る。しかしそこに期待したものは無かった。
面頬の内側には何もなかったのだ。それなのに顔の上の兜はバランスを崩すことなく乗っかったままでいる。素肌の一切見えない容貌からして相手には中身が無いらしいと、恐ろしいことだが二人には分かってしまった。二人は決して口には出していなかったが、武者に恐れが伝わったらしい。
「左様。我は生身のない亡者よ。生者が亡者に負けるとは何事か」
武者は落とした刀を素早く拾って転がる晴豊の肩に突き刺した。晴豊はなんとか体を動かしたが肩の浅い所を刃が掠めた。焼けるような痛みと生温かい血の感触が肩と頬に伝った。
「ぅぐうっぅぅ」
唸りながら肩に手を当てて血を止めようとする晴豊を、美世は見ているだけではいられなかった。
「止めて下さい!なぜこんなことをするのですか?」
空っぽの顔が美世を見た、ような気がした。
「武辺者が武を示さずして何とする」
武者は晴豊の肩を、その傷口を覆っている手を、足で踏みつけた。たまらず晴豊が叫び声をあげる。美世の焦りが一段と大きくなった。
「その者は僕の付き添いだ。文句があるなら僕に言っていただきたい」
「お主がこの者の力不足を贖うか。良いだろう」
武者が美世に刀を振りかざした。何か言葉をぶつけて時間を稼ぐか、一目散に逃げるべきか、逡巡した時点で美世に勝ち目は無かった。無感情に刀が振り落とされる。晴豊と違って美世にその瞬間を目に焼き付ける度胸は無かった。だから固く閉じた両目ではなく両耳が異変を聞き取った。鋭利なものが固いものを貫く重く低い音だ。恐る恐る目を開けると武者の腹から刃が突き出ていた。晴豊が武者の背後から刀を突き刺していた。その顔に何か感情などというものは一切込められていなかった。武者は膝から崩れ落ちた。
「お前は他者が痛めつけられんとそれができん。無情になれぬというのは武の道において最大の障壁よ」
兜の下から武者が言う。体の無い相手にどれほどのダメージを与えられたのか定かではないが、傷口を庇うように緩やかに屈むような姿勢や力の抜けた手先が武者はもう戦えないことを物語っていた。
「俺は人殺しにはならねぇ」
まだ、声は乾いていたが晴豊はそう応えた。
「刀はお前にくれてやる。せいぜい励めよ」
地面に転がる鎧が次第に薄れていった。兜の立派な金飾りも、武者が手にしていた白銀の刃も形を失って地面に溶けて吸われていく。晴豊の手にした刀だけが、形を保って美しい刀身を晒していた。晴豊はまだ、呆けたような表情でただ刀を握っていた。
「大丈夫?」
美世が声をかけても返事をしない。
「動けそう?」
声をかけながら美世が晴豊の背中に触れると、じっとりと汗をかいているのが分かった。しかもまだ両肩が動くくらい激しく呼吸をしている。
「君のお陰で助かったよ。ありがとう」
晴豊にちゃんと聞こえるように、美世はゆっくりと喋った。
晴豊は呼吸が落ち着いてくるとともに、ちゃんとあたりが見えるようになってきた。髪はぐしゃぐしゃ、足には擦り傷をつくった美世が、自分に微笑みかけている。
「…良かった…生きてて…」
晴豊が小さな声でそう言ったので、美世は少し安堵した。
「いい舞だった」
「いい舞だった」
「途中がすごかった」
「途中がすごかった」
「良かった生きてて」
「良かった生きてて」
またあの声たちがあたりで騒めいた。
「良いものだったので帰してやる。次も待っているぞ」
一際大きい声がそう言ったので美世は慌てた。
「お待ちください。次は何を所望されますか?」
「またお前たち両名で来ることを」
この言葉を皮切りに即設ステージは音も無く消え去った。取り残された二人を夕焼けが照らす。辺りは平野に戻っていた。
「刀、持って帰らなきゃいけないのかな」
晴豊が呟いた。嫌であるのが態度にも言葉の端にうかがえた。
「あちらの方から譲渡されたから置いていっても無駄かもしれないね。大人しく持ち帰るのが良いと思うよ」
「どこから帰ればいいんだろうな」
「安心して。僕たちは方々から帰してやると言葉をもらえたのだから。歩けば必ず帰り道が見つかる」
「あてずっぽうに歩けば帰れるのか」
「そうだよ。いい加減だろう?」
「それなら先に別れた二人を探しに行った方がいいか」
「その必要はない。二人は各々帰されているはずだ」
「行きはあんなに一人で向かっちゃダメだって言ってたのに?帰りは一人でもいいのか?」
「目当ての方にお会いできたということはね、機嫌を損ねなければ無事に帰してもらえるってことなんだよ。僕たちにできるのは二人が方々に認められて帰ることを許されたと信じることだけだ」
山の端に沈みゆく夕日が二人に斜めに差し込んだ。二人はそれを肩に受けながらとぼとぼ歩きだした。
「肩、痛む?」
晴豊はまだ傷口を左手で抑えていたが、血は乾いてきているようだった。晴豊は傷を受けてからずっと手で押さえている。つまり片腕だけで武者を刺したのだ。晴豊の身体能力の高さに美世は圧倒されていた。
「あんまり痛くねぇよ。全然痛くないまではいかないけど。なんか手まで血でくっついちまったみたいだ」
「そのままの方がいいか。家でちゃんと手当をしよう」
「お前はすごいな。一人で大勢を感動させてた」
晴豊の言葉は率直で、嘘が無い。
「君だって。不意の攻撃に対応した。僕には出来ない。すごいことだ」
「すごいことなんてしてない」
晴豊は自分が強いことをちっとも自慢に思っていないようだった。
平野の中にポツンと細長い影が見えた。初めはただの木のようでもあったが近づくと案山子のような作り物であることが分かった。丸い頭に笠を被り、つぎはぎだらけの着物を着せられている。竹の一本足が斜めに地面に刺さっているせいで全体が傾き、同じく竹で作られた腕の片方が紫色に染められていた。晴豊はどことなく物悲しい印象を受けた。
「出口の目印だ」
美世が言った。
「紫色だからか?」
晴豊は目についたことを適当に言った。
「そうだよ」
当たってしまった。
美世が立ち止まったので晴豊も立ち止まる。
「どちらかが置いていかれることの無いように手を繋ごう」
「どっちの手もふさがってるぞ」
美世は晴豊の刀を持つ手を包み込むように握った。
「これで問題ない」
美世は繋いでいない方の手で案山子の紫色の腕に触れた。すると目も開けられないほどの突風が通り過ぎ、二人はもとの山道に戻って来ていた。先程までは夕方だったのにまた青空が広がっている。どうやらあちらとは時間の経過さえもが異なるらしい。
帰ってこられた安心感からなのか、晴豊は体中にのしかかる疲労と肩をずきずきと刺激する痛みと悪寒を感じた。
「顔色が悪いね、おぶっていこうか?」
美世が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いや…大丈夫だ」
晴豊は身体を引きずるように歩いていたが、幸いにも二人が戻ってきたのは屋敷の近くで、先に戻っていた修とささめが早々に二人を見つけてくれた。全員で屋敷に戻ると一先ず晴豊は奥の間で手当てを受けた。その間に美世が修とささめと玉美に何があったのかを説明した。晴豊が傷口を洗い、包帯を巻いてもらって戻って来た時には美世の話は終わっていた。
「晴豊、もう動いて良いのですか?」
畳の部屋をこっそり入ってきた晴豊に、玉美が気遣わし気な声で尋ねた。
「大丈夫、です。さっきまではヤバかったけど、俺丈夫なのが取り柄だし」
晴豊はその言葉通り顔色も通常通りに戻っている。美世たちは車座で座る輪を広げて晴豊の座る場所を作ってあげた。美世たちが使っていたのは普段は茶道の教室で使っている部屋で、玉美から各々濃緑の抹茶が振舞われていた。当然遅れてきた晴豊にも茶が振舞われる。晴豊は一口飲んで予想以上の渋味に顔を顰めそうになった。失礼のないようになるべく澄ました顔をするよう心掛けたが、どう思っているかは周りにはバレバレだった。
「皆、よく戻って来てくれました。今日はゆっくり休まなければなりませんね」
笑いをかみ殺して玉美は四人にそう声をかけた。
「しかしその前に、晴豊には決めてもらわなければならないことがあります」
そう言って、玉美は晴豊をすぐ隣の部屋に案内した。特に止められなかったので他三人も晴豊に続く。晴豊が傷つけられたことに三人とも責任を感じていて、心配だったからだ。
隣の部屋には晴豊が握っていた刀が置かれていた。刀は二本の黒い支えによって横たえられ、汚れなど何一つも浮かんでいない銀色の刀身が、陽の光を弾き返している。黒々と輝く無駄な装飾の無い柄を含め、刀はひどく美しいいで立ちをしていた。
「刀には、鞘が要ります」
玉美は魅入られたように刀を眺める四人にそう言うと退出し、暫くすると美しい鞘をもって戻ってきた。鞘は刃を収める先端ほど淡い水色で、鍔の方にいくほど濃い青になっている。全体には銀色の細い線が、波目のような繊細な模様を描いていた。こちらも息をのむほどに美しい逸品だが、美世はこんなものが家に置いてあったことなど知らなかった。赤野の家は様々な習い事を手掛けているが、武道の道だけは手を出せない家だったから余計に不自然に思えたのだ。
「晴豊、刀を収めてみなさい」
玉美の差し出した鞘を、晴豊は少しためらった後受け取った。恐る恐る刀を持ち、鞘に収めてみる。刀はしっかりと余すところなく仕舞われた。まるでこの刀のために作られた鞘のようだった。
「この鞘の持ち主はもう粟見にはいません。ですからこの刀はあなたのものです」
と、玉美は宣言した。
「俺、別に刀欲しくない」
それは晴豊の紛れもない本心だった。自分が人より強いからこそ、晴豊は人を傷つける道具など持ちたくなかった。玉美はそんな晴豊の気持ちを知ってか知らずか微笑んだ。
「あなたが持ち帰りたくないのならここに置いていっても構いませんよ」
「良かった。そうする」
「これであなたはあちら側で武を方々に披露する役割を引き受けたことになります」
「ぶ?って?戦うのか?」
「そうです。ですがここではいかなる武道も伝授できるものがいませんから、あなたは自分自身で能力を高めなければなりません」
「いいよ、こっちではそういうことはしない」
「馬鹿なことを言うな。君が技を磨かなければあちらで死んでしまうかもしれないんだよ?」
思わず美世が口を挟む。
「いいのよ、本人がやりたくないのなら。でもここのお稽古には顔を出しなさい。きっといつか役に立つ日が来るから。あなたがあちら側に行くことのある限り、お稽古にお金がかかる心配もしなくていいわ」
「うん、そう、します」
武を披露するとはどういうことなのか、自分がそれを断ったらどうなるのかなど晴豊はまだまだ聞きたいこと、言いたいことがたくさんあったのにいざ言葉にしてみようとするとどれも上手くいかなかった。
浮かない顔の晴豊を尻目に晩御飯の準備をするとささめと修が立ち上がり、玉美も部屋を去ると晴豊と美世だけが畳の間に残された。
「なぜ君は自分が向いていることを高めようとしないの?」
美世は苛立ちを隠すことなく晴豊に問い質した。感情をむき出しにしてものを言うのは、美世にとっては珍しいことだった。
「だって、人なんか斬りたくないよ」
「なにも本物の人間と刀で斬り合えなんて言ってない。あちらにいる方は生身ではないと、あちらに行った君なら分かるだろう?粟見の外に出れば武道を教える教室なんていくらでもあるし稽古代も移動費も全部赤野に請求すればいい。君が怖気づいてあちら側に行きたくなくなるのが一番困る」
「そ、それは無ぇよ。美世たちがあちらに行くなら俺も行く。でも普通の時から殴ったり蹴ったりするのに慣れたくない」
すごい剣幕の美世にたじろぎながらも晴豊は答えた。美世はそれを聞いて鼻で笑った。
「善人面だね。でもそれって僕たちを見捨てるってことだろう?」
「何でそうなるんだよ」
「だって僕たちはもうあちらで目を付けられているんだ。好戦的な方々がいつ襲ってくるか分からないのに君がへなちょこのままじゃ殺されるに決まっているじゃないか」
「誰がへなちょこだ」
「君だよ。今日だってギリギリで勝てただけのくせに」
二人は怒りを瞳に溜めて睨みあった。
「そんなにあちらが怖いなら自分が俺より強くなればいい。でも次あちらに行った時に俺の方が強かったら俺の決めたことに文句言うなよ」
「…いいよ。でも僕があちらで大怪我したり死んだりするようなことがあれば絶対に君だけを無事に帰したりなんかしないから」
二人の険悪な空気はその後にあった赤野家恒例の大人数の食事でも払拭されることは無く、結局その日一日引きずることとなった。
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