第2話

 春休みの間中、晴豊は美世の家に入り浸っていた。毎日行くたびに新しいことを習えるのは新鮮で楽しかったが自分が芸術方面には本当に無力であることも思い知らされた。琴も笛も太鼓も舞も花も書も、初心者ということを鑑みても酷いものであることは本人も自覚せざるを得なかった。琴や三味線を弾けば弦を切るどころか握った撥をもへし折り、唄を歌えばあまりの音程の取れなさにともに歌う人たちを笑いの坩堝に嵌め、書に至っては本人も何を書いたのか分かりかねる作品を生み出すばかりであった。あまりの不器用さに晴豊自身がこりゃあ酷いと笑ってしまうので周囲もつられて笑ってしまう。晴豊は上達しないことに卑屈になりはしなかった。なぜこの人は上達もしないのに毎日こんなに楽しそうでいられるのか、美世にはよく分からなかった。

 修が言っていてように、晴豊の傷は翌日には全て治っていた。驚くべきことに両足が折れていた美世も翌日練習に参加できるほど回復していた。

「ささめの作る料理は特別で、治癒能力を高める効能がある。それはあちら側に行く人間により強く作用する」

 稽古の合間に美世が教えてくれた。美世は晴豊が習ったもの全てにおいてその数十段高い所にいた。特に唄と舞は全く心得のない晴豊にもわかるほどの素晴らしいと感じさせる何かがあった。晴豊は美世の稽古を見るのも好きになった。しかもここで習うものは和風なものだけでも無いようで、美世は稽古場の広い板張りの空間で最近の歌謡曲を歌ってみたりジャズダンスを踊って見せたりもした。  

美世は稽古の時は女物の衣装を身につけていて、それに違和感は全くない。つくづく綺麗な子だなぁと、美世を見る度に晴豊は思った。

 書や花を習う時にはささめを見かけることがあったのだが、晴豊はついぞ春休み中に修と顔を合わせることが無かった。皆がそろって食事をするときにも修は来なかった。

「修、製作期間に入ったみたい。こうなると作業場がある自宅から一歩も出なくなってしまうの。学校が始まる前に区切りがつけばいいけれど」

 ささめが昼御飯用のおにぎりを作りながら言った。ともに過ごすうちに口調が少し砕けてきたことが晴豊には嬉しかった。

「親父もそういう時あるなぁ。こっちがいくら話しかけても無駄でさぁ、もう放っておくしかないんだ」

「ええ本当にその通り。自分が納得するまで決して折れないの。見ているこっちが疲れちゃう」

 学校の始業式はもうあと二日後に迫っていた。春休みが終わってしまうのは残念だけど、新しい学校生活も晴豊は楽しみだった。

「なぁ、こっちの学校は一クラスに二十人も三十人も同級生がいてそれが三つも四つもあるんだろう?すげぇよな!」

「ええと、今のところ私たちの学年は二十人前後のクラスが三つ、よ。確かにここで過ごすよりは同世代の子と話す機会は増えるでしょうね」

「美世とささめと修以外の子どもってどこにいるんだ?俺まだ誰とも会ったことねぇよ」

「晴豊は稽古場と自宅しか行き来してないから会わなかったのね。私たち以外の子どもはこの稽古場には寄り付かないから」

 ささめが少し悲しそうに見えたので、晴豊は理由を聞くのを止めた。

「ここに来る人たちって、色んな人がいるよな」

「ええ、遠方からお越しになる方が多いの。大抵は同じ流派とか同じ地域とかの集団でいらっしゃるのよ。皆さん休業期間やお祭りの前に来て稽古を玉美さんに見ていただいたり他の流派の方々と交流したりすることもあって年中賑やかなの。期間によって来る方も変わるから最初は人の名前を覚えるのが大変なのだけれど、晴豊は大丈夫そうね」

「うん、顔と名前覚えるの得意だ」

 晴豊は人間に限らず生き物の個体判別が得意だった。

「毎日色んな人が来るなんて楽しくていいよな」

「君くらい適応能力が高いなら楽しめるだろうね」

 炊事場に美世がやって来ていた。今日は長い髪をポニーテールに纏めている。珍しくパンツスタイルだった。

「おぅ、美世!今日もかわいいな」

「…ありがとう」

 美世はおにぎりでいっぱいになった皿を座敷へと運んだ。

「美世は実は人見知りなの。晴豊が明るい子で助かったわ」

「美世、話しかけられるのあんまり好きじゃないのかな?」

「いいえ、美世はあなたに興味津々よ。あなたが美世に興味があるのと同じくらいにそう思っている気がするわ」

 ささめがそう言ったから、という訳ではないだろうが食事を終えると美世が午後の稽古を休んで散歩に行かないかと誘ってきた。ささめは用があって今日はもう帰ると言うので晴豊は美世と二人で外に出た。外はあたたかい春風が優しく吹いていて散歩日和だった。

「つくしの天ぷらってうまいよな」

「僕はふきのとうの方が好きだな」

 二人はぶらぶらと山を降りて、野草を観察したり風に舞った花びらを捕まえたりしながら歩いた。どこかで鳥がのんびりと鳴いている。

「粟見小にでも寄ってみる?」

「おぅ!そうする!楽しみだなぁ小学校」

「小学校では僕たちに…」

 美世は何か言いたそうだったがなぜか口ごもる。

「うん?」

「いや…なんでもない」

 学校は美世の家のある山を降りてから平坦な道をまっすぐ歩き、コンクリートで舗装された大通りに突き当たったらそれを左に折れてさらに歩いた所にあった。そこは粟見で数少ない舗装道路の一帯だが、晴豊の家から美世の家に行くのにそこを通るとえらく回り道になる。晴豊にとっては美世を背負って自分の家に行った時以来に通る道だった。

 背の低いブロック塀とその上に設えられた水色のフェンスがグラウンドを囲み、その内側にジャングルジムやウンテイやブランコが連なっているのが見えると晴豊はフェンスの方に走り寄った。島より人が多いので当たり前だが晴豊にはそれはもう立派なグラウンドに見えたのだ。

「うわぁ、広い!デカい!」

 晴豊がそのままフェンスをよじ登ってしまったので美世は慌てた。

「君はまだこの学校の生徒じゃないから勝手に入るのは良くないよ」

「入んねぇよ、見るだけだ」

「それなら登る必要ないだろう」

「高い所の方がよく見える」

 グラウンドの真ん中の方で数人の子どもたちがサッカーをしていた。不審な動きをしている晴豊は早速彼らに見つかった。晴豊は彼らに手を振った。

「おーい!」

 美世はぎょっとした。

「なぜ呼びかける?」

「見つかったから」

 晴豊は屈託なく笑ったが美世は彼らに見つかるのが心底嫌だった。しかもこちらをチラチラと伺う彼らの内の三人ほどが晴豊と美世の方に駆け寄ってくる。

「お前誰だ?」

 三人の中で一番背の高い、いかにもリーダー格の男の子が晴豊に声をかけた。

「俺は晴豊。四月からこの小学校に六年で入るんだ」

「そこにもう一人いただろう?お前の連れか?」

 丸刈りで細い男の子が晴豊の登るフェンスの下を指差して言った。いつの間にか美世が姿を消していた。

「知らね。この辺のやつじゃねぇの?」

高い所にいる晴豊には美世が学校の向かいに建つ家の塀の内側に隠れているのが見えていたが、美世が口に人差し指を立てて必死に自分のことを言うなとジェスチャーしていたので知らないふりをすることにしたのだ。三人は晴豊がどこから来たのか、なぜここに来ることになったのかなど転校生にぶつけるありがちな質問をした後自分たちに混じって遊ぶかと晴豊に尋ねたが、晴豊は今日は時間が無いからと断った。彼らが自分たちの輪の中に戻ったのを確認すると晴豊はフェンスを降り、背を屈めて戻ってきた美世とともにこっそり学校を後にした。学校が視界から完全に見えなくなるとやっと美世が口を開いた。

「気を遣わせてごめん」

「いいよ別に。びっくりしたけどな」

 晴豊は笑った。

「あの家は全くの他人の家ではないから。親戚の家なんだ。だから断りも無く敷地に入ってしまって…」

「そんなこと気にしてたのか。そんなんで美世のこと嫌いになったりしねぇよ」

 晴豊が自分の気にかけていたことをこんなにもあっさりと見透かしたことが、美世にとってはありがたいことでもあり敗北感を味わわせるものでもあった。

「学校が始まったら、学校では、僕と関わらない方がいいから」

「なんで?」

「僕は学校では…浮いているんだ」

 自分の状況をそうはぐらかしてしか言えないのは、自分のプライドが高すぎるせいだからだと美世には痛いほどに分かっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る