青い彼女と赤い僕 小学生編
@sonohennohito
第1話
零
粟見(あわみ)は険しい山々と荒波が打ち寄せる海岸に囲まれている。陸の孤島とも言えるこの地は、他の地方同様少子高齢化に悩まされるこの国では珍しくもないありふれた田舎の集落だ。しかし粟見には、他の地域にはない変わった伝統が受け継がれていた。
一
すぐそこに見えているのに海の匂いが遠い。そのかわりに草木のちょっとエグイ臭いや麓の工場の出す黒い煙のすすけた臭いが風に乗って漂ってくる。山から見下ろす町は慣れ親しんだ島とは全く別物の、得体の知れない生きもののようだった。
意志の強そうなくっきりした眉の下にある両目を輝かせるこの子、青野晴豊(あおのはるとよ)は、初めて見る大規模な人の集落を興味津々に見つめていた。(出身地の島の総人口が三十人以下だったので、晴豊にとってこの国の大抵の集落は大規模ということになる)新しい家、新しい学校、新しい友達。早く早く新しものに触れたい。晴豊は道も無い斜面の、決して緩やかとは言えない山肌を普通の道を走って行くように軽やかに駆け下りる。まるでずっと前から知っている道を行くように。
だからこの地も晴豊を招いてしまったのだろう。
*
全く同じ山の、少し降りたところで、ある子が恐ろしいものに捕まっていた。その恐ろしいものは周囲にまばらに生える木々と変わらないほどの背丈のある怪物で、筋骨隆々の逞しい腕が体の両側だけでなく額にも一本生えている。その子は、赤野美世(あかのみよ)はおばあさまがせっかく自分のために作り直してくれた赤地に金の刺繍が入った豪奢な打掛を破られてとても怒っていた。しかし二本の腕に両手首を掴まれ、怪物の眼前にまで持ち上げられているので抵抗は全て無駄だった。
「離してください。あなたの望むものはもういません」
「いいや、お前を捕まえておけば必ず来る」
「あの家は断絶したと言ったでしょう。もう剣技を受け継ぐものはいないのです」
「いいや、お前が赤野を継いだのだからあいつの代わりも必ずあらわれる」
この問答を十回以上繰り返しているので美世の疲れと苛立ちはどんどん酷くなっている。
「お願いします。離してください。あまりこちらに留まり過ぎたら帰れなくなってしまう」
怪物にとって美世が帰れようが帰れまいがどうでもいいことなどこの子は充分知っていた。しかし心がもう限界で、泣き喚く一歩手前のところをなけなしのプライドで抑えているのだった。
「どこにおる、範守!お前が来なければこの者は生も死も無い我らの一部になるぞ良いのか!」
怪物の大声は鼓膜が裂けそうなほどの桁外れの大きさでかつざらざらとした低い音だった。音楽に心得のある美世にとってこれを間近で聞く事は堪えがたい苦痛だった。抑えていた涙が両目から溢れ流れ落ちる。その目が何か人間らしきものを捉えた次の瞬間に、美世はあんなにも逃れられなかった大きな両腕からその身を解放されていた。
助けに入ったその人は捕らえられた美世を見ると迷うことなく怪物の足から腕、肩へとまばたきよりも早く駆け上り、怪物の横っ面に全体重を込めた蹴りを喰らわせたのだった。いきなりの衝撃に怪物の両手は思わず緩み、負傷した顔面へと当てられる。怪我を負わせた張本人は疲労困憊で身動きの出来ない美世を空中で両手に抱え、体操選手のようにしっかりと着地した。
「大丈夫か?走れるか?」
尋ねられた美世は首を横に振った。
「足を折られた」
鈴の音のような高く澄んだ声でそう告げた。助けてくれた相手を見上げると自分とそう年の変わらない男の子のようだったので内心驚いた。ここに来ることは限られた人間にしかできないはずで、その中に自分の知らない顔は無い。太めの眉に力強い瞳、色黒の少年に見覚えは全くなかった。少年、もとい晴豊はこの子の返答を受けて眦を吊り上げた。
「なんてことしやがる」
晴豊は美世を優しく地面に降ろし、両腕の間からこちらを覗いている怪物に対峙した。
「この子があんたに何かしたのか?」
「いいや」
怪物は腕を下した。真っ赤な唇がニヤニヤと笑っている。
「どうして痛めつけたんだ」
「お前を呼ぶためだ。だからお前がそいつに怪我を負わせた」
「訳わかんねぇこと言ってんじゃねーよ!」
晴豊は土を蹴り上げると怪物の腹めがけて突進した。渾身の力を込めた拳を腹に打ち、呻いた隙を逃さず今度は顎に拳を入れる。
「無駄だ!この方たちは死なない!いくら怪我をしても平気なんだ!だから早く逃げて!」
美世の呼びかけに晴豊の意識が向いた。怪物はその隙を逃さない。
額に生えた腕が拳を作って晴豊を殴り飛ばした。晴豊はとっさに受け身の体勢を取ったもののそばに生えていた樫の木に背中をしたたかに打ちつける。晴豊の殴られた片頬は赤く腫れあがり、口から折れた歯を吐き出した。相手を睨むその目を見れば闘志が消えていないのは明らかだ。
「お前は儂の額の腕に殴られた。ククク、もうお前は儂から逃れられんぞ」
晴豊は怪物の言うことなどほとんど聞いていなかった。自分よりはるかに強い相手にどう勝つか、頭の中にはその逡巡しかなかった。
怪物は今度は踊るように片足で円を描いて回し蹴りを繰り出した。晴豊は最初の一撃をバク転で躱し、両足で踏み切って大きく飛び上がった。普段より自分の体が軽い。力も湧いてくる。しかし晴豊は体がこの世界に順応し人外の立ち回りをしていることを自分では気づいていない。空中で体を折り曲げ、回転の威力を上げ、怪物にぶち当たる直前に振りかぶった片足を脳天めがけて振り落とす。怪物の頭は固く、ぶつけた衝撃が脚を伝ってじんじんと伝わってきた。着地した晴豊と片手で頭を抑える怪物はまたしても睨みあった。
「範守(のりもり)、なぜ太刀を持たん」
「…ノリモリ?」
「その方は人違いをしている。話しても無駄だ」
美世が痛む足をさすりながら言った。
「頼む、一緒に逃げてくれ」
晴豊は頼まれごとに弱かった。美世に素早く近寄ると軽々とその体を背負い、先ほどまでの激闘が嘘のようにそそくさと逃げ出した。
「逃さぬぞ、範守!」
怪物は手近な木を引っこ抜き、刀のように振り回す。しかし図体が大きい分、動きが大雑把で躱しやすい。まともに相手をしなければ、逃げることなど容易かったのだ。
「山を、登って」
背中で美世が言った。晴豊は跳ねるように山の傾斜を駆け上っていった。
「待て、範守、待て」
怪物は叫び続けているがその声はどんどん遠ざかっていく。
「まだ、油断しないで。もっと走って」
晴豊は美世の言うままに全速力で頂上を目指した。すると走る先に幹も枝も葉も全てが銀色に輝く奇妙な木が見えた。
「あの木に触れて!早く!」
遠くなったと思っていた怪物の唸り声が真後ろに迫ってきた。後ろの美世にはその姿が見えていたのだろう。晴豊は速度を落とさず、片手で木に触れた。すると背後の乱暴な足音が消え、目の前には石畳の通路がまっすぐに伸びていた。山中であることは間違いないが通路は木に触れた途端に現れたようだった。
「なんだ、ここ…」
「後で説明するから今は真っ直ぐ進んでくれ。仲間が待っている」
背中の美世に従って晴豊が歩を進めると、石畳の通路は人が一度に五、六人は通過できそうなほどの大きな門まで続いていた。その奥には立派な木の建物が聳えているのが見える。
門扉は開け放たれているが自分と同じくらいの年頃の男の子と女の子が一人ずつ、まるで門番のように扉の両脇に立っていた。
「「美世!」」
二人は晴豊の背負う人に気が付いて駆け寄ってきた。
「帰りが遅いから心配した」
「怪我をしたの?早く手当てしないと」
口々に声をかける二人に
「大丈夫だよ、この人が助けてくれた」
美世は晴豊の背で返事をした。
「あんた誰だ?」
「俺は―」
「待って。互いの自己紹介はおばあさまに会ってからにしよう」
美世の言葉に男の子が頷き、女の子が晴豊に自分たちの後に付いてくるように言った。二人に続いて門をくぐると、つやつやした玉砂利を敷いた道の両脇にある手の込んだ日本庭園が来訪者を出迎えた。一ミリの余分も無い丁寧に剪定された松の木、縁側から見ると最も美しい角度となるよう調整された花々と岩、澄んだ水をたたえる小さな池には鯉が泳いでいるのが見て取れる。ただ一つ、他と違うのは庭の中央に木造の四角い床がどんと置いてあることだった。これは催事事などがあると舞台として使われるのだがそんなことを晴豊が知るはずもない。そもそもこんな立派な庭園を晴豊は見たことが無かった。そしてその計算し尽くされた美を鑑賞するだけの余裕も興味も今は持っていなかった。ただえらい所に来てしまったなと思うだけで自分の身に起こった出来事を処理しきれていない。
庭先を鑑賞できる縁側に一人、薄黄色の着物をまとった女が座っていた。髪は銀髪で顔には無数の皺が刻まれてはいるが、厳かな美しさを全く損なっていない女だった。
「全員が戻ってこられたこと、喜ばしく思います」
女の凛とした声が告げた。彼女の子どもたちを見る目には安堵と慈愛が込められていた。
「美世を背負うあなた。初めてくる方ね。お名前は」
「青野晴豊、です」
晴豊は慣れない敬語を使った。
「そう。私は赤野玉美(あかのたまみ)。あなたが背負っている子の祖母です」
玉美は立ち上がり、美世の許へ歩み寄った。
「何が起こりましたか?」
「の、範守を探す方に見つかってしまいました。捕らわれ足を折られたところをこの晴豊、さんに助けていただきました」
玉美は話を聞くと美世の折れた脚に手を添えた。
「こちらは大したことはありません。稲取の作ったものを食べれば良くなるでしょう」
「良かった。直ぐにでも食事を作りますね」
女の子がほっとしたように言った。
「あ、私、稲取(いなとり)ささめと申します。この四月から六年生になります」
「僕は曲野修(まがりのしゅう)。僕も同じ六年生になる」
ささめは声も表情も柔らかく、優しい薄茶色の髪を腰まで伸ばした楚々とした女の子で、修は眼鏡をかけたずんぐりした体型の、目を合わせようとしない男の子だった。
「俺、島からここに引っ越してきたんだ。四月から粟見小学校に六年生で入るんだけど」
「まぁ、私たちも粟見小に在籍しています。春休み明けから私たち同級生ですね」
「君は全くの遠方から来たのか。道理で見たことも無いはずだ」
「悪いけどそろそろ降ろしてもらえるかな」
晴豊とささめと修の会話が弾みかけたところで美世が水を差した。
美世に話しかけられるまで、晴豊は背中の美世のことをすっかり忘れていた。晴豊は美世を縁側に降ろした。
「僕は赤野美世。僕もささめたちと同い年だ。それから―」
美世は少し口ごもる。ささめと修は顔を見合わせ、苦笑いをした。
「こうみえて僕は男だ」
晴豊の驚いた声が山の間にこだました。
「あら、あなただって女の子でしょう?」
玉美が晴豊にそう言った。今度は美世とささめと修の驚いた声が山に響いた。
「あんたすげぇな!一目で俺を女だって分かった奴初めてだ」
晴豊はそう言ってカラカラ笑った。
「この粟見で長生きしたいなら玉美さんをあんたとは呼ばない方がいい」
修がぼそりとアドバイスをした。
「あなた、良かったら明日もここにいらっしゃい。ここでは色々なお稽古を教えているからきっと退屈しないわ」
玉美が晴豊にそう勧めた。
「へぇ、楽しそうだね。でも俺金持ってないよ?」
「春休み中はお試し期間にしてあげるからお金の心配はしなくていいわ」
「そりゃあいい!」
「今からご飯を作りますから良かったら一緒に食べましょう。もちろんお金は取りませんから」
ささめがそう言って玄関の方へ回っていった。修もそれに続く。
「ここで食べていくにしてもお家の方にご連絡しないと。引っ越してきたばかりなら一度お家に戻った方がいいわね。美世、案内してくれる?」
「でもそいつ足折れてるから歩けねぇよ?」
「あなたが背負っていけば良いでしょう?」
それもそうかと晴豊は頷いて、美世の目の前に背中を向けてしゃがんだ。美世が不服そうな顔をしながらその背に乗っかったのを見たのは玉美だけだった。
二人は門を出てしばらく山道を下った。門が見えなくなると美世が口を開いた。
「なんか、皆強引でごめん」
「え?そう?親切で良い奴…じゃなくていい人たちじゃん」
「無理に話し方を修正しなくてもいいよ」
「俺昔からガサツでさぁ、言葉遣いとか振る舞い方?とかが良くないってよく島の婆さんたちに怒られた。だからちゃんとしなきゃなーって思ってたんだ」
「君がちゃんとしてないとは思わない。あの恐ろしい方から助けてくれたし、嫌な顔せず怪我人を背負っている。…助けてくれてありがとう」
「気にすんな、俺もお前に助けられたし。…なんか変な所だったな、あの化け物がいたところ」
「あそこは現実の場所ではないんだ。僕たちはこの地域独特の少し変わった活動をしていて…多分追々君にも話すことになる。おばあさまは君を気に入ったみたいだし」
「玉美さん?って呼べばいいのか?なんか、凄そうな人だったな」
「うん、皆そう呼んでる。おばあさまは類まれな人だ」
「たぐいまれ?」
「凄そうな人って感覚で合ってるよ」
山を降りるとまだ空っぽな田んぼの奥にぽつぽつと民家が見えてきた。
「君、新しい家の住所とか分かる?」
「知らねぇ」
「そうか、じゃあ人に聞くしかないな」
美世は空っぽの田んぼを見に来たお爺さんに声をかけた。
「最近ここに越してきた人を知りませんか?」
「掬い川の上流に物好きが引っ越して来たって婆さん連中が喋っとりましたよ」
「そうですか、ありがとうございます」
お爺さんは立ち去る自分たちに深く頭を下げた。しばらくたってから晴豊が振り返ってみるとまだお爺さんは頭を下げていた。
「掬い川はこの道をずっと東に歩くと突き当たる川だ。川にぶつかったら上流に歩いてみよう。結構距離があるから僕は途中で降ろした方がいい」
「いや?全然平気だぜ?お前軽いし」
この言葉に美世がダメージを喰らったことを晴豊は気が付かなかった。
「お前って呼ぶのも良くないよな、美世って呼んでいいか?」
「…うん」
「俺のことも呼び捨てで呼んでくれよ」
「晴豊」
「おう!」
晴豊は美世を背負っても疲れを見せることも無くずんずん歩を進めた。道々に生えている花の香りを嗅ぎ、何か建物が見えたらあれは何かと美世に聞く。美世は何を聞いても答えてくれた。
「あれは公民館。役所の窓口も併設されている」
「あれはあわみ商店。食料と日用品は大抵あの店で手に入る」
「あれは図書館。本や新聞やCDなんかが借りられる」
「あれは病院。粟見で唯一の病院だ」
「新しい建物がいっぱいあるな」
「田舎なのに珍しいだろう?若い世代の人口が増えてきたからそれにつられて町も新しくなっているんだ」
「人が増えてるのか」
「とてもそうは思えない?新興住宅ができたのは今から向かう川を越えた南側なんだよ。まぁそれも行き過ぎた少子高齢化を止められるほどではないけれど」
美世の醒めた話し方は妙に大人びていた。
川に突き当たってから上流に進むにつれて建物は減少していった。周りに細く道が作ってあるのでもともとは耕作地だったのだろうが長く放棄されるうちにすっかり雑草たちのものとなった空き地が次々と顔を出す。
「山の方は不便だからあまり家を建てる人がいないんだ」
「俺の親父はそういうのあんまり気にしねぇんだ。静かなほうが仕事がしやすいらしい」
最早木々ばかりとなった周囲は徐々に登り道となり、晴豊も少し疲れてきた。しかし山の奥に隠れるように建つ瓦屋根の家と白い軽トラックが目に入り、元気を取り戻した。
「あれ、多分親父の車だ」
晴豊はかなり視力が良いのではっきりと見えているのだが美世にはぼんやりと家の輪郭と車らしいものが見えるだけだった。
「まだ本当に君の新しい家がここなのか分からないよ」
と美世が注意しても晴豊は走るのを止めなかった。人を背中に乗せているとは思えないほど軽やかに斜面を駆け上り、軽トラと家の間を行き来していたガタイの良い中年男性に声をかける。
「おやじぃ!帰った!」
晴豊の父が振り返ると、美世はそのあまりに厳つい風貌に少したじろいでしまった。彼はスキンヘッドで両肩が盛り上がるほどの筋肉を両腕に備え、鍛えられた上半身をTシャツが辛うじて覆っている。工事現場の作業員が身につけるような下にいくほど幅の広いズボンに巻いたベルトには鋸やハンマーやドライバーなどの道具が収納されていた。晴豊と同じ様に肌はよく日に焼けていてこちらを伺う両目は小さくとも鋭かった。
「その子、どうした?」
低く深みのある声で晴豊に問いかけた。
「足折れたんだって。大人に見せたらそのうち治るって言ってたぜ」
なんて雑な説明だ、それじゃあ親父さんは納得しないだろうと美世は思ったが晴豊の父はそれ以上追及せず家の奥へと戻ってしまった。そして晴豊に家に入るように言う。晴豊が玄関の上がり框に美世を降ろすと彼は手にしていた細長い木の板を美世の足に当てた。
「折れた時は固定した方がいい」
そう言うと傍らに置いてあった救急箱から包帯を取り出し手際よく足と木を結び合わせた。
「あ、ありがとうございます」
美世がそう言っても晴豊の父から反応は無かった。
「今から美世たちと飯を食う。親父も来るか?」
「今日は行けねぇ。親御さんたちにきちんとご挨拶しておけ」
晴豊の父はまた引っ越しの片付け作業に戻ってしまった。晴豊はまた美世を背中に担ぐともと来た道を引き返した。
「親父は刀鍛冶だ。刀を研ぐのに一番いい水が欲しくてここに来た」
「刀を鍛えるのに水が重要なの?」
「水が刀を決めるって親父が言ってたぜ」
「そうか。職人なら修と気が合うかもしれない。修は自分の作るものであちらの方々と交渉するから」
「何を作るんだ?」
「木を削って物を作ることが多い。完成品は滅多に見せてくれないから何を作っているかはあまり分からない」
晴豊は片道五キロ以上はある道のりを軽快に引き返しまたあの山間の立派な家へと戻ってきた。大きな門をくぐり、自分の新しい家とは比べ物にならない広さと凝った造形の玄関先まで来ると空腹を誘うような出汁や焼き魚やご飯の匂いが漂ってきた。
「良い匂いだなぁ。腹が減ってきた」
声に呼応するかのように晴豊の腹の音が鳴る。
「大人数で食事を摂るときは廊下の突き当りにある部屋を使う」
「やっぱりこの大豪邸は美世の家なのか」
「うちは稽古場も含めているから広いだけだよ」
「何の稽古をするんだ?」
「舞、唄、楽器、茶道、書道、華道…大まかに分けるとそのくらいかな。ウチは芸になることならなんでも精進することが許されるから。それぞれ稽古場を分けているし道具を収納したり手入れする所も別途欲しいから部屋はいくらあっても足りないよ」
「すげぇなぁ。色んな先生が来るのか」
「いや、全ておおもとの師範はおばあさまだ」
突き当りの部屋は晴豊が今までに見た畳の部屋のなかで一番の大きさだった。畳にほつれなど当然なく、奥には立派な掛け軸と春の鮮やかさを濃縮したかのような生け花が飾られている。
部屋の中を囲むように飴色の足の短い机がずらりと並べられ、開け放たれた襖の一角から女性たちの手で次々と食べ物が運ばれてくる。女性たちは皆薄桃色の着物を身につけ、それなりにお年齢を召した方々のようだ。食事の準備をしている最中、と見て間違いないだろう。
「おかえりなさい、美世さんはこちらにお座りくださいな」
女性たちと同じ格好をしたよく声の通る背の高いご婦人が、机の一角で晴豊たちを手招いた。
美世を背負った晴豊が近づくと、ご婦人のいる席の机の下の畳が取り除かれ掘りごたつのようになっているのが見えた。足を動かせない美世のために準備をしたのだろう。晴豊はそこにそっと美世を降ろした。
「足、痛いか?」
「我慢できないほどじゃない」
「そうか。我慢できなくなったら言えよ」
そう言うと晴豊は忙しそうなご婦人方に混じって準備を手伝い始めた。色んな人に気さくに声をかけ、まるで初めからそこにいたかのように馴染んでみせる。物怖じしない人だなと美世は感心して晴豊の動きを目で追っていた。晴豊の方は次々に運ばれてくる品物に心が舞い上がり、こんなご馳走を引っ越し初日で食べられる幸運をかみしめていた。海老や茸や山菜の天ぷら、甘辛い匂いのする魚の煮つけ、筍の煮物には緑鮮やかなさやえんどうが乗せられている。おひつに入ったご飯は山菜の炊き込みご飯だ。親父も来ればよかったのに。
食事をする部屋の隣にある台所は、昔風に部屋より一段低くなっていて調理台の上に仕上げを待っている食べ物がズラリと並んでいた。今も一人分ずつ小皿に盛り付けられた茄子の煮びたしに、長い髪をまとめて三角巾を被り、白いエプロンを身につけたささめが生姜と鰹節を箸で添えていた。表情は真剣そのもので添え方も美しく手際が良い。普段から手伝っているのが伺える。
「これも美味そうだなぁ」
晴豊が話しかけると
「ふふふ、これを運んだらお食事にしましょうね。今、修が皆さんを呼びに行きましたから直ぐに集まってくるでしょう」
と嬉しそうに言った。
「皆さんって?」
「お稽古に来てくださっている方やご近所さんたちですよ。よく食事を一緒にすることがあるのです」
煮びたしを運ぶと確かに畳部屋には色んな人が集まりつつあった。頭にタオルを巻いた作業着のおじさん、曲がった腰をさすりおしゃべりに花を咲かすお婆さんたち、土のついた軍手をポケットにしまう畑仕事を終えてきたらしきお爺さん、お揃いの和装を身につけた色白で線の細い男たちは稽古仲間だろうか。色々な所属の異なりそうな集団が肩を並べて席に着く。しかし中央の席だけが空っぽだ。それらをぼうっと見ていると美世がしきりに自分の隣に座るように合図しているのに気が付いた。そちらに行くと修とささめが向かい側に座っていてこのあたりが子どもたちの席と決まっているらしかった。たくさん人が来ていたけれど子どもは自分たちしかいないようだった。ささめがお椀に溢れそうなほどご飯をよそって皆に差し出している。大人も子どもも山盛りに盛るのが彼女のやり方らしい。
「このお椀を空っぽにすることが君の喫緊の課題だ」
と深刻な面持ちで修が晴豊に言った。
「きっきん?よくわかんねぇけど俺食べるの好きだから大丈夫だと思う」
「おばあさまが来るまで箸に手を付けてはいけないよ」
美世に注意されて晴豊が背筋を伸ばしていると玉美が部屋に入ってきた。大勢に紛れて入ってきたはずなのに彼女だけが空気をピリッとさせる緊張感を持っていた。玉美が静かに席に着くと辺りは静寂に包まれる。
「今日も皆さんと食事を伴に出来ること、喜ばしく思います。いただきましょう」
玉美が穏やかにほほ笑むと緊張感はどこかに行ってしまった。皆好きなように箸におかずをとり、周囲と会話を楽しむ。晴豊もガツガツと飯を口に放り込んだ。隣の美世がぎょっとするほどの、鬼気迫る食べっぷりだった。山盛りの茶碗はあっと言う間に空っぽになり、おかわりが欲しいという。ささめが喜んで茶碗にご飯を山盛りにするとそれもすぐに空になった。それだけでは飽き足らず様々なおかずにも手を運ぶ。
「良い食べっぷりだなぁ、この子は」
周りの大人も晴豊の食べっぷりに感心してしまった。本人は注目されていることなど気にもせず三杯目のおかわりを所望する。
「こんなに威勢のいい子は久し振りに見た」
「根性がありそうだ」
「都会から来た口先ばっかの者たちよりも見込みがある」
「ああ、ご当主のしごきにも耐えられるかもしれん」
「まぁ、しごきだなんて。うちは思いやりのある指導が特色ですのに」
まぁまぁ距離のある席にいる玉美がしごきという言葉を耳ざとく聞きつけ、冗談っぽく返したので周囲はどっと笑った。一方で美世と修は茶碗の中のご飯と苦しい格闘を続けていた。子どもが食べるにしては明らかに多すぎるご飯の量であったが残すことは許されていない。この地の特定の活動をする者にとって稲取の作るものを食べることはとても重要なことだからだ。しかしあちら側に行くことが増える度に用意される食事の量も増え、胃袋の大きさが間に合わないのが実情だ。もちろんささめも同じ量の食事を食べる訳だが彼女は華奢なのによく食べる子だった。今も自分のノルマを達成しガツガツと食事を摂る晴豊を幸福感に満ちた眼差しで見つめている。
自分の作ったものを美味しそうに食べてもらえるのが心底嬉しいのだ。美世と修もそんなささめの気持ちは分かっているので文句を言えない。
食事をあらかた終えると大人たちは酒盛りを始めた。晴豊はささめと修に倣って皿洗いを手伝った。動けない美世はあの背の高いご婦人に抱えられて退出してしまった。三人で水場に一直線に並び、食器を洗うささめ、拭く晴豊、仕舞う修に自然と分担して作業を始める。
「しかし君はどうやってあちら側に来たのかな」
独り言のように修が言った。
「あちら側ってのがまずよく分かんねーよ」
「ちょっと道間違えちゃいましたー程度では辿り着けるはずがないんだ。生半可なものはその夢を見ることすら許されないのだから」
「うーん…?山を降りる途中で美世に会ったのは確かだけど」
「まるで向こうから呼ばれたみたいじゃないか」
「さぁ?おま…修がそう思うならそうなんじゃねーの?」
修はぼそぼそと何か言っていたが今度こそ本当に独り言のようなので晴豊は聞き取るのを諦めた。
「ごめんね、修は考え事をすると人の声が聞こえなくなってしまうの」
最後の皿を洗い終え、蛇口の水を止めたささめが申し訳なさそうに言った。
「ささめと修もあっち側ってところに行けるんだろ?」
「はい」
「そんなに珍しいことなのか?」
「昔はそれを生業にする者にとっては難しいことでは無かったようですが、最近は私たち子どもと玉美さんしか行くことが出来なくなってしまったので珍しいのだと思います。しかも玉美さんは引退を宣言したのでこの一年はあちら側へは行っていません」
「そうなのか」
「ゆっくりで大丈夫ですよ、私たちもあちら側のこと全てを知っている訳ではありませんし。行き来すれば自然と分かってくるものです。それよりも晴豊さん、あちら側で怪我などなさりませんでしたか?」
「ああ、歯が取れた。あとは擦り傷ぐらいだよ」
「まぁ、痛かったでしょう?」
ささめが眉根を寄せて心配そうに言った。
「平気だよ。島でもこんなことはしょっちゅうあった」
「今日はよく眠ってくださいね。そうすれば明日には治ると思いますから」
「さすがにそんなに早く治んねぇだろ」
「いいや治るはずだ」
独り言を止めた修がずいっと寄ってきた。
「君があちら側に行けた以上ささめの作ったものも効果を発揮するはずだ」
「お、おぅ、そうか」
「今日はウチの親に君の送迎をしてもらう。明日は朝八時までにここに来て欲しいがそれでいいかい?」
「あぁ、分かった」
修の意外な強引さに押され気味になりつつ、晴豊は頷いた。
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