第3話 老医師の趣味

 美亜は、小さい頃、おばあちゃんから、絵本を読んでもらうのが好きだった。

 現代や、西洋の絵本よりも、

「日本お童話やおとぎ話」

 などが好きだったのだ。

 それがあるからか、中学に入ると、

「日本の歴史」

 というものが好きになり、よく読んでもらっていた。

 もちろん、その中に浦島太郎の話もあり、子供の頃はおとぎ話の内容というよりも、おばあちゃんの声が、

「子守歌替わり」

 ということで、ありがたかったのだ。

 小さい頃は、元々神経質だったのか、なかなか寝付けない子供だった。だから、よくおばあちゃんがお話を聴かせてくれることで、眠りに就けたのだ。

 逆にいえば、

「おばあちゃんがいなければ、すぐに眠りに就くことができなかった」

 といってもよかったのだ。

 だから、おとぎ話の聴いた内容は、正直小さい頃には分からなかった。

 というよりも、

「理解できなかった」

 というのが、正解だったであろう。

 当然、浦島太郎の話も分からなかった。ただ、

「何となく怖いお話」

 というイメージだったのだ。

 もっとも、怖いお話というのは、浦島太郎に限ったことではなく、他のお話も思い出してみれば、怖かった気がする。

 それも、

「漠然と怖い」

 というイメージで、おとぎ話を聴いていた。

 だから、余計におばあちゃん子になってしまい、夜怖くて一人でおトイレに行けなかったくらいだった。

 さすがに、小学生の高学年になってくると、そんな怖いという感覚がなくなってきた。

 というよりも、どちらかというと、ホラー的な話がある時突然に好きになり、

「あれ? あなた、ホラーのようなお話って、ダメだったじゃない?」

 と言われるようになったのを思い出したのだった。

 言われてみれば。確かに怖い話が嫌ではなくなったある時期があった。それがいつだったのかというと、たぶん、例の、

「かかしのような妖怪少年もお話」

 を聴いてからのことではないか。

 あの頃、まだ子供だったくせに、

「妖怪というのは、しょせんは人間が考え出したもので、人間が都合よく創造したものであって、本当に怖いのは人間なんだ」

 と思うようになって、話としての、幽霊や妖怪は怖いとは思わなかった。

 それよりも、人間の中に潜んでいる、潜在的な意識が、ある時、悪魔や妖怪となって表に出てくるのだと思うようになると、

「妖怪なんて、怖くない」

 と思うようになった。

「妖怪なら、まだ幽霊の方が怖い」

 と感じた。

 それは、やはり、

「一番怖いのは人間」

 という意識が芽生えたのであって、

「幽霊というものは、人間が化けたもの、妖怪は、人間以外が化けたもの」

 と言われることから、

「怖い人間が絡んでいるんだ」

 ということから、幽霊の方が恐ろしくなってきたのだった。

 そんな怖い話を聴いていた時、ある日、

「これ、本当におとぎ話なの?」

 と聞きたくなるような話があった。

 実際に聴いてみると、おばあちゃんは、いつもの顔と違い、

「ううん、違うんだけどね。美亜ちゃんが、大人になるにつれて、時々思い出す話だと思うのよ。本当を言えば、忘れてほしくないお話なんだけど、まだ小さい美亜ちゃんにそれをいうのは、可愛そうなんだけどね」

 と言われた。

 美亜は、どちらかというと、負けん気が強く、そういう風に言われると、却ってムキになる方だった。

「どういうことなんだろう?」

 と、首をかしげておばあちゃんを見つめると、

「ああ、ごめんごめん」

 といって、話を辞めるのかと思いきや、そんなことはなく、おもむろに話始めた。

「あれはね、おとぎ話ほど昔ではないんだけど、明治という時代なのね。お侍さんとか、そういう人がいなくなってから、日本に外人が入ってきた頃のお話なの。外国からは、近代的なものも入ってきて、お医者さんの技術とかも発展して行ったんだけどね。そんな時代に、外国の教えもいっぱい入ってきたのよね」

 というではないか。

 子供にでも分かるような話し方をしてくれているというのは分かったが、それでも、やはり難しい。半分分かっていればいい方だっただろう。

 おばあちゃんは続けた。

「その頃にね、やっと手術などもできるようになって、麻酔の技術も入ってきたのと一緒に、毒薬というのもいっぱい入ってきたのよ。日本にも、昔から毒薬というのはあったはずなのよ。戦国時代から江戸時代にかけても、毒殺というのがあったからね。きっと、自然に生えている草花の中に毒草があって、どれが毒草なのかということも、分かってくるようになってきたんでしょうね。ただ、記録としての学問書は残ってはいないけど、歴史書などでは、毒殺されたというようなことは書かれているので、毒薬を作る技術はあったんでしょうね」

 と言った。

「その毒薬がどうしたの?」

 と聞くと、

「ああ、その当時、明治という時代のちょうど中頃だったのかしらね。ちょうど、海外から、伝染病が入り込んで、それが流行りだしたの。海外の方では特効薬のようなものはあったんでしょうけど、日本には、その特効薬がなかったのね。でも、その特効薬を作るための原料が日本には、普通に生えていたのよ。それを発見した外人の学者が、日本人には教えずに、自分たちだけで独占しようと、自国に大量に持ち出したらしいの。でも途中で、他の国からその船は襲われて、日本からの輸出ものは強奪されたの。でも、その中に見覚えのない草が混じっているじゃない。これは何かと船の乗組員に聞くと、これが毒薬を作る元になるものだと答えたの。その時の襲った船の母国も、同じ伝染病で苦しんでいて、自分のところだけが助かろうとするその国と対立したんだよね。でも、そのことが国際問題になって、国際裁判に掛けられたの。でも、日本はそんなことを知らないので、毒薬を持ち出そうとした国と、それを使って一儲けしようと考えた国との間で、戦争にまで発展したの。そのことは、ヨーロッパの他の国は分かっていたけど、日本は蚊帳の外に置かれていて、何も知らないままに時が過ぎたということなのよね」

 というのだった。

「それから?」

 と再度促すと、

「でも、それを日本人に教えるおせっかい焼きがいて、さすがに日本人は怒ったのだが、日本にはそれに抗うだけの力があるわけではなかったので、どうしようもなかった、でもそのうち、日本人の立場が強くなるにつれて、この問題が、国際連盟で議論された。だけどね。日本は、しょせんは他の地域の貧しい国で、まだまだ発展途上ということもあって、なかなか思うようにはいかなかったんですよね」

 というのだった。

「それから?」

 と聞くので、

「日本人というのは、考え方が極端なところがあるので、人によって温度差が激しかったという。毒薬についても、どこまでがいいのか悪いのか、正直連盟にも、確固たる法律はなく、判例などを用いて、考えていくしかなかったのよね」

 というのであった。

 考えてみれば、明治という時代は、

「不平等条約の時代」

 だった。

 江戸末期、いわゆる幕末と言われる時代に、アメリカ海軍のペリーが来航したことで、江戸幕府は、開国を余儀なくされた。

 そのせいもあって、日本国内は、真っ二つに割れてしまった。

 幕府を弱腰として、特に当時の孝明天皇が、徹底的な攘夷論者であったことも、そのせいであろうが、ただ、考えてみれば、それも当たり前のことである。

 今まで、200年以上、鎖国をしてきて、外人を見るといえば、長崎の出島で、オランダ人を見るか、あるいは、清国や朝鮮からの貿易で、それも決まった場所で見るしかなく、普通の人から見れば、

「海のモノとも山のモノとも分からない」

 という存在だったのだ。

「人肉を食らう」

 というウワサでもあれば、すぐに広まったことだろう、

 そんな連中は、日本にやってきて何をするかと思うと恐ろしくなる。

 しかも、鎖国というのは、

「伝染病が入ってこない」

 という意味でも効果があっただろう。

 もっとも、江戸時代に、コレラが流行った事実はあるので、オランダ人が持ち込んだものかも知れないが、国を開いていれば、もっとひどいことになり、亡国の憂き目に遭っていたかも知れない。

 それを思うと、

「鎖国というのは、それなりの効果があった」

 といってもいいだろう。

 日本はそれまでも、ロシアや諸外国から、

「通商条約を結びたい」

 といってきた国に対し、

「我が国の窓口は長崎だから、長崎に行ってくれ」

 といって、追い払ってきたといってもいいだろう。

 しかし、ペリーの場合は、

「大統領の親書」

 を持ってきたというのだから。断るわけにはいかない。

 もし、断ってしまうと、戦争になるのは必至だっただろう。

 そう、鎌倉時代の元寇のようにである。

 あの時は、何とか、いわゆる、

「神風」

 というものが拭いて追っ払うことができた。

「台風が多い国で、よかった」

 といってもいいだろう。

 だが、今回は、情報として、

「清国から、イギリス、フランスの艦隊が日本を目指している」

 という話題が舞い込んできたのだ。

 それを聴いた幕府首脳は、ビックリして、アメリカの、

「条約を結べば、アメリアが責任をもって、日本を守る」

 ということだったので、下手をすれば、3か国に攻撃される危険性があっただけに、幕府としても、条約を結ばないわけにはいかない。

 そして、

「アメリカと結んだのであれば、他の国と結ばないわけにはいかない」

 ということになり、他の国とも、同様の条約を結ぶしかなかったのだ。

 その条約というのが、

「関税自主権のない」

 そして、

「裁判などの領事裁判権を認めさせる」

 というものだった。

 要するに、

「外国人が何かをしても、日本人が裁くことはできない」

「関税も、日本が口を出してはいけない」

 という、およそ条約とはいえない。不平等な内容だったということなのである。

 医者である大先生は、いつもニコニコと診療していた。

 特に、若先生が病院に帰ってきてくれてからは、その負担が一気に減って、よほどの難しい患者であれば、若先生と一緒になって手術をするが、それ以外は、そのほとんどが、小児科であったり、以前からこの病院をかかり付けとして利用してくれている未成年くらいの診察はほとんどだった。

 だから、最近では時間もできて、自由に趣味もできるようになってきた。それまでは、病院の経営だけで精一杯、正直、本人も、

「こんな時期がやってくるなんて、想像もしていなかった」

 と思っていたのだ。

 つまり、

「半分、余生に足を突っ込んだようなものだ」

 ということであった。

 先生も、そろそろ、還暦を迎える頃だった。本人は、

「まだまだ現役」

 とずっと思ってきたのだが、次第に身体のどこかにガタはくるもので、視力が落ちてきたり、腰痛が出てきたりと、一人では賄えないことも増えてきた。

 看護婦も心配してくれていたところに戻ってきてくれた息子は、病院にとって、まさに。

「救いの神」

 だったのだ。

 先生にとって、若先生が戻ってきてくれたことは本当にありがたかった。最初は恥ずかしかったのか、手放しでは喜んでいないように見えたが、自分の余生ともいえる趣味が見つかってからは、恥ずかしげもなく、息子を褒めるようになった。

 ただ、患者である子供たちは、まだまだ先生を慕っていて、

「若先生よりも、おじいさん先生」

 と言っていた。

「おじいさん先生」

 と言われることに抵抗がないわけではなかったが、くすぐったいと思うだけで、まんざらでもなかった。

 まあ、未成年の子供から見れば、明らかにおじいさん先生だった。髪の毛もだいぶ白くなってきて、白衣とも似合っていて、首から聴診器をぶら下げていないと、

「老科学者にも見える」

 といっても過言ではないだろう。

 そんな老医師の趣味は、絵を描くことだった。

 最近では、息子がやっと病院を回せるようになってくれたので。

「親父が、趣味を持ってくれれば、週に半分は、休んでも構わないぞ」

 とも息子は言ってくれた。

 息子は、すでに結婚していて、まだ子供がいない状況である。

 奥さんは、看護婦の免許を持っているが、今は専業主婦だった。

 しかし、

「そろそろ、看護婦の仕事に復帰したいとも思っているのよ」

 というではないか。

 それを聴いた先生も、

「そうか、それじゃあ、お言葉に甘えて、趣味の世界に入らせてもらおうかな?」

 ということで、週に二回の絵画教室に通うことになった。

 その日は、先生の診察は午前中のみで、昼からは趣味の時間にすることにしていた。

 絵画教室は夜なので、それまで、午後は自分で気ままに、絵画に勤しんでいたのだ。

 さすがに、暑すぎたり寒すぎたりの季節は、

「表で写生」

 というのは厳しいもので、家で撮ってきた写真を見て書いている。

 そういう意味では、表に出かけて、たくさんの写真を撮ってくるというのも、趣味のための大切な時間だったのだ。

 少々、遠くに行くこともあった。

「温泉とか、1泊で行ってくればいいんだよ」

 といって送り出してくれると、嬉しくなって、その言葉に甘えたくなる。

 息子が帰ってきて、少しの間は、

「病院を一人で守ってきた」

 というプライドがあるからなのか、

「年寄り扱いするんじゃない」

 と言っていたが、次第に息子との間のしこりも解けてきて、気軽に話ができるようになると、それまでの頑なな態度がウソのように、実に素直になったのだ。

「それだけ、親父も年を取ってきたということなんだろうな」

 と、若先生は思っていたようだが、その考えは、

「半分正解で、半分間違いだった」

 といっていいのではないだろうか。

 老先生は、元々からいこじだったわけではない。息子が帰ってきてくれてうれしかったのは間違いないことであり、そのおかげで、

「この病院も親父と私の二代で終わりか。まあ、時代の流れなんだから仕方がないことなのかな?」

 と思っていたのだ。

 だから、

「自分がしっかりしないといけない」

 という思いが強く、

「わしの目の黒いうちは、ずっと現役を続ける」

 という意志が固かったといってもいい。

 だから、息子が帰ってきてくれたというだけで、手放しで喜ぶことはできないと思ったのだろう。

 そんなところで、息子が帰ってきてくれた。

 しかも、後から考えれば、

「なんと素晴らしいタイミングだったのだろう」

 と思うほどの、ドンピシャで、素直に趣味の世界に入ることができたのも、

「息子があのタイミングで戻っていてくれたからなんだろうな」

 ということであった。

 趣味という言葉を一番最初に口にしたのは、息子の嫁だったのだ。

 彼女は、息子と結婚する前は、看護婦として、バリバリ働いていたという。結婚前までしっかり働いていたこともあって、正直、料理や洗濯などと言った家事に関しては、ほぼほぼ素人といってもよかった。

 しかし、

「さすがに、結婚してからはそれじゃあ、まずいだろう」

 と息子が思ったのか、

「結婚したら、看護婦の仕事はしなくていいから、できれば、家事をしっかりやってくれないかな?」

 と言ったことがきっかけだった。

 実は、この言葉をいうのに、かなりの勇気がいったという。

 というのも、奥さんになる人は、看護婦の中でもリーダー格のところがあって、診ていて、人から頼られるタイプであり、そのことに意気を感じ、余計に頑張るタイプだったのだ。

 それを思うと、

「プライドが高い彼女にこんなことを言っても大丈夫なのだろうか?」

 と思ったのだが、実際にいうと、かなり自分が思い込んでいたということを思い知らされた気がしたのだ。

「うん、分かったわ。ついでに、趣味のようなことも持ちたいと思っていたの」

 というではないか。

 これにはさすがに、意外な気がして、

「鳩が豆鉄砲を食らった」

 というような表情になったことだろうが、若先生は、却って嬉しかった。

「そうかそうか、趣味をしたいというんだね? それもいいことだと思うよ。俺も応援したいくらいだよ」

 と若先生は手放しで喜んだ。

 奥さんの趣味は、ウスウス分かっていた。彼女は結構いい声もしていて、学生時代には、コーラス部に所属をしていたということだったので、

「ああ、歌を歌うことなんだろうな」

 というのは分かっていた。

 タイミングがいいことに、二人が結婚する少し前に辞めた看護婦がいたのだが、二人阿時々、カラオケに行っていたという。

「あの頃は看護婦という仕事のストレスを発散させるために行っていただけなんだけどね」

 と言っていたので、

「ストレスがあっただね」

 というと、

「当たり前よ。私が、ノーストレスで仕事をしているとでも思っていたの? どんなに好きな仕事であっても、自然とストレスというのはたまるものなのよ。むしろ、好きな仕事ほどそのことに気づかないから、疲れやすいというような勘違いをしてしまいがちになるのよね」

 というではないか。

「そうだよね。済まなかった。きっと俺もそうなんだろうけど、気付いていないだけだったのかも知れないな」

 と若先生がいうと。

「そうよ。その通り。だから、あなたのような人ほど何か趣味を持つのはいいことなんだろうと思うわよ」

 というと、

「まあ、医者仲間と時々ゴルフには行っているけどね」

 と若先生がいうと、

「確かにゴルフもいいかも知れないけど、それだけは本当のストレス解消にはなってないわよ。だって、ゴルフ仲間というのは、仕事に直結している相手でしょう? 趣味に高じる目的としての、気分転換に、完全にはなっていないような気がするのよね」

 と奥さんはいうのだった。

「それもそうだ」

 といって、若先生も何か趣味を探してみたが、見つかるものでもなかった。

 若先生が、家に帰るというのは、実は前々から考えていることだったようだ。

 そもそも、今の大学病院に勤めているのも、自分では、

「家を出た」

 とは思っていなかったのだ。

 どちらかというと、

「いずれは戻るのだが、それまでの、経験値をたかめるため」

 というのが、本当の理由だった。

 だから、結婚を考えた時、奥さんには、最初から、

「いずれは実家に戻って、親父を助けながら、病院経営をしていこうと思う」

 といって、奥さんを説得しようと思ったが、奥さんの方も、

「それはいいことね。私もあなたに先のビジョンがあることには賛成だわ」

 といって、最初から納得してくれているようだった。

 それを聴いて若先生も納得し、

「そういってくれると嬉しい」

 といって、二人はこの件に関しては、スムーズに落着したのだった。

 そんな二人が実家に戻ってくると、家族三人、うまくいっていた。

 そもそも、若先生が、本気で実家に戻ろうと思ったのは、若先生がインターンとして大学病院に通い始めて3年目のことだった。

 その頃には、

「いずれは実家に戻って」

 ということは、そこまでハッキリとしたビジョンではなかった。

「いつまでも、インターンでもないよな」

 と大学病院というものに、どこかやりがいを見失っていたからだった。

 大学病院というところは、

「論文を発表してなんぼ」

 というところであった。

「患者を治す」

 という医者としてのポリシーとは少し違っていて、

「なるほど、将来的に医学会の発展という意味では、研究は大切なことである。医療や薬学というところで、将来を切り開くということでの仕事だと思えば、それはそれでやりがいは感じられる」

 というものだった。

 しかし、実際にやってみると、どうにもしっくりとこない。

「俺には不向きなのかな?」

 とも考えるようになり、それ以上に、

「一度疑問を呈してしまうと、一気に考えが後戻りしてしまう」

 という悪い癖が彼にはあった。

 だから、なるべく、ポジティブに考えていなければ、一気に戻ってしまうと、それだけの時間がまったく無駄だったということになり、そう感じることが一番の苦手なことだということになるのだった。

 そういう意味では、奥さんは、若先生の、

「操縦方法」

 をよく理解していて、

「お互いに、補える部分を補う」

 という、最高のカップルでもあったのだ。

 実家に帰ってきてから二人を見ていた老先生も、そのことはよくわかったようで、二人が戻ってきてくれたことに、一点の曇りも疑いもなかったのだ。

 だから、奥さんが、時々でかける、

「趣味のカラオケ」

 も、老先生は嫌な顔はしない。

 若先生から、

「俺が勧めたんだよ」

 というと、

「おお、そうかそうか。だったら、それでいいんだ」

 と、

「もし、息子の知らないところで勝手にやっているのなら問題だよな」

 と思っていたが、

「この夫婦のことだから、最初から納得ずくだったんだろうな」

 というのは、周知のことであったのだ。

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