第4話 違法性阻却の事由
そもそも、若先生が戻ってくるきっかけとなったのは、
「母親の急死」
だったのだ。
その頃まで、
「結婚も、家に帰るというのも、頭の中で描いていることではあったが、そのタイミングに関しては、分からない」
というのが、本音だった。
母親は、交通事故に遭っての、即死だったということであったが、苦しむところを見ることはなかったので、まだよかったのだろうが、父親には、心の準備ができていないだろうということで、そこが一番気になっていたのだった。
案の定、父親はずっと放心状態だった。
実際には、すぐに病院を再開し、今までどおりに患者を診ていたが、一人になった時の様子は、
「見ていられないほどだ」
と、老先生をよく知る近所の人は、
「老先生も心労で倒れたりしないだろうか?」
と心配していたようだ。
その証拠に、見るからに、
「負い方が激しい」
と言われるようになり、実際に、腰の痛そうなところや、髪の毛の白さなどは、その苦しみが、
「見ているだけでは分からないものがあるに違いない」
とまわりを心配させるに十分だったのだ。
「そんなにひどいのかな?」
とその話を伝え聞いた若先生は、その時に、タイミングというのが、
「今でしょ」
とばかりに感じたというのだ。
その時、奥さんにプロポーズをして、まずは、結婚からだというのが、最初だった。
結婚相手に関して、父は何も言わない。
「お前が選んだ相手だからな」
というだけだった。
「かなり重症なのかな?」
と思ったが、父親の気持ちとしては、誰もが思っていることをいったまでのこと、
逆に母親がいないことで、父親も余計なことを考えないという、角が取れて、丸くなってきたようだった。
結婚してから、実家に戻ってくるまで、結構バタバタだったのだが、結婚から実家に戻るまでに少し時間が掛かったのは、
「大学病院を辞めるのに、少し時間が掛かった」
というのが理由だった。
というのも、ちょうど研究していたことを、自分一人でやっていたわけではなく、プロジェクトを組んでいて、最初は、個々で研究し、それを持ち寄って一つの学説につなげるというもので、その研究内容を引き継ぐ必要があったのだ、
その引継ぎがうまく進めたとしても、少しは時間が掛かるというもので、特に若先生の進めているところは、結構時間がかかる厄介なところでもあったのだ。
研究所の責任者からは、
「君を失うのは、非常にきつい」
といってくれていたが、正直どこまでが本音なのか、よくわからなかった。
確かに、難しいところを研究しているのは、分かっていることであったが、
「人を使う」
というところでの責任者としての立場はよく分かっていなかったのだ。
だが、
「俺がやっているところというのは、厄介なところだ」
ということは自分でも分かっていて、そこを振ってくれたのだから、
「よほど期待してくれているんだ」
ということは、分かっているつもりであった。
それでも、何とか大学病院を辞めて。実家に帰ってくると、思った以上に、父親の生活が堕落していることに驚かされた。
料理することもない。
洗濯はコインランドリー。
部屋の掃除はおぼつかない。
そんな状態だったのだ。
病院側は、看護婦がキチンとしてくれているので、きれいになっていたが、それはそもそも当たり前のこと。
それに仕事場である以上、医者としての仕事はしっかりしていたのだから、まだよかったのだ。
もし、仕事もできないようだったら、
「生きる屍」
だったといっても過言ではないだろう。
「本当にキレイになっている」
と若夫婦は、病院側を見ると感じた。
「あんな自宅部分を見せられたら、どんなところでも、マシに見えるわな」
とそれぞれ思っていたが、さすがにそれを口に出すようなことはできないと思ったのだった。
そういう意味で、
「看護婦がよほどしっかりしているんだろうな」
と思ったが、まさにその通りだった。
その看護婦は、葬儀の時もしっかりしてくれていた。
半分、放心状態の父親を尻目に、彼女が一人切り盛りしていた。
父親は、喪主というだけで、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
「私たちもお手伝いします」
と、まだ結婚もしていなくて、一度両親には、
「結婚を前提につき合っている」
といって話をしたことがあったが、その時に、一度看護婦とも会っていた。
「しっかりしていそうだな」
とは思ったが、ここまでのやり手だったとは、思いもしなかったのだ。
年齢としては、まだ、30代後半くらいだろうか、ちょうど、若夫婦から見れば、
「少し年の離れたお姉さん」
と言ったところだろうか?
「どこかお母さんに似ているんだよな」
と、いつもニコニコと、まわりを暖かくするタイプの女性なのだが、
「決めるところはしっかりと決める」
という毅然とした態度が取れる女性だといってもいいだろう。
父親には、
「彼女のような人がいてくれるのは安心だけど、やっぱり二人では、心配なことに変わりはない」
と若先生は言っていたが、奥さんも、
「そうよね」
と相槌を打つのだった。
「やっぱり帰ってきて正解だったよな」
と、言って、病院側と家庭側で、それぞれ若奥さんと、看護婦がいてくれることがこの病院にとっていかにいいことなのかということが分かるのだった。
奥さんが亡くなってから、半分、腑抜けのようになっていた老医師も、仕事の時だけは、一生懸命に働いていて、
「働いている時だけは、妻がいないことを忘れられる」
という意識で、却って、医療にのめりこんでいるような感じだった。
看護婦もそれを分かってはいたが、
「私に何かできるわけでもないので」
ということで、しょうがなかったのだった。
そんな時に、若先生が帰ってきたのだから、看護婦としても安心だった。しかも、若先生夫婦と、老先生の仲がいいのは、
「願ったり、叶ったり」
ということであろう。
だが、そんな病院であったが、最近、老医師が少し疲れてきているのが見受けられた。何かに悩んでいるというのか、本人とすれば、
「妻が亡くなって、腑抜けのようになった時期もあったが、いいタイミングで息子たちが帰ってきてくれて、それなりに、順風満帆のはずなのにな」
と、老医師本人は思っていた。
何も悪いことなどないはずなのに、心の中にポッカリと、穴のようなものが開いているのだ。
「やはり、妻がいないからかな?」
と、以前のような腑抜けから抜け出しているにも関わらず、いまだに自分が理解できない老医師は、心の奥に何か詰まったものを感じるのだった。
そんなことを、老医師が感じているということを、まわりの人は誰も分かってはいないだろう。
「最近、お義父さん、元気になってよかったわね」
と、若奥さんがいうと、
「ああ、そうなんだよ。親父は思い詰めると、とことんまで思い詰めるところがあるからな」
と若先生がいう。
「そう、そんな風には見えないけど?」
と言われ、
「そうだろうな。俺も子供の頃には分からなかったさ。だけど、お母さんは分かっていたようで、時々、お父さんがまた何かに悩んでいるようだわということを言っていたんだよ。子供心に、お母さんが何を言っているのか分からなかったんだけど、今ならその言葉の意味が分かる気がするな」
「それは、一度表に出てから戻ってきたから?」
と、若奥さんは、若先生の気持ちが分かっているかのように、さも、
「分かって当然でしょう?」
と言いたげに聞いたのだった。
「ああ、そういうことなんだよな。お父さんというのが、どういう人なのかということにやっと気づいた気がするんだ」
と、若先生は言った。
「お義父さんがそんなに、悩みの深い人だったとは、ちょっと意外だったけど、言われてみれば分からなくもないわね」
と、若奥さんは言った。
若先生も、彼女が何を言いたいのか分かってはいたが、
「どういうことなんだい?」
と、あらためて聴いてみた。
「だって、あなたを見ていれば分かるもん」
とばかりに、若先生が想像していた、
「一語一句と変わらない言葉」
と同じだったのだ。
それを思うと、
「ふふふ」
とほくそえむしかなかった。
苦笑いとまではいかないが、認めなければいけないということとしての態度を考えると、「この態度をとるのが、一番自然だ」
ということになるのだろう。
それを思うと、
「俺たちって、想像していたよりも、お似合いの夫婦なんじゃないだろうか?」
と思い、再度、ほくそえんでいるのを見て、
「何よ」
と彼女は冷やかすが、それは、若先生が、
「思い出し笑いでもしているのではないか?」
と若奥さんが感じたからではないだろうか。
若奥さんは、夫婦仲に関しては、
「可もなく不可もなく」
だと思っている。
「そもそも、どこからが、合格ラインなのか?」
ということが分からない。
というよりも、
「それを分かるというのは、傲慢なのではないだろうか?」
と思っていた。
「終わってみれば、可だった」
というのが理想であり、むしろ、
「分かっていないという方が、ふさわしい」
ということではないかと思うのであった。
つまり、
「分からないからこそ、夫婦生活は面白いのだし、分かったからといって、自分に合う合わない、さらには、できるできないというものがあるのだろうから、一概には言えないのではないか?」
と考えるのであった。
そういう意味では、若奥さんは、結構あっさりと、しかも、深いところで考えているようだ。
「冷静沈着」
と言えば聞こえはいいが、
「冷徹人間」
といってしまうと、身も蓋もないといってもいいだろう。
ただ、若奥さん自身は、自分の本性を、
「冷徹な人間だ」
と、思っているようで、だからこそ、
「人には優しくしたいんだよな」
と思っている。
ただ、ここで考える、
「人」
というのは、万人という意味ではない。
「どうせ、やろうとしたって、できるわけではないんだ。そんなのは、欺瞞でしかない」
とまで思っている。
確かにそうだ。
人それぞれの考え方があるわけで、誰にでもいい顔をしようとすると、少なからずのウソをつかなければいけない。そう、彼女の考えたのは、イソップ寓話の中にある、
「卑怯なコウモリ」
というお話であった。
このお話は、
「鳥と獣が戦争をしている時、鳥には、自分には羽根があるから鳥だといい、獣には、自分の身体が毛に覆われているので、獣だといって逃げ回っている」
というコウモリの話である。
「その後、戦争は終わり、平和になると、鳥と獣は仲直りするのだが、その時に、コウモリのことが話題になった。そこでコウモリを、あいつは卑怯なやつだということになり、表の世界では、ハブられてしまうということで、コウモリは、暗くジメジメした。洞窟の奥で、しかも、夜行性でしか生きられない動物になってしまった」
という話である。
確かに、この話は難しいものを孕んでいるのかも知れない。
「逃げ回っていることは決して褒められることではないが、コウモリという動物は、ある意味、鳥にも獣にもなれない中途半端な形で生まれてきたわけだ。一種の障害者のようなものである。自分から、こんな形で生まれてきたかったわけではないのだから、コウモリとすれば、生きるためには、知恵を絞らなければいけなかったわけで、そういう意味でいけば、今の法律に照らせば、違法性阻却の事由といってもいいかも知れない」
と考えられる。
「違法性阻却の事由」
というのは、刑法上、殺人などを行っても、例外的に殺人としては認められないというもの。
つまりは、
「しょうがない場合」
といってもいいだろう。
それを、
「違法性阻却の事由」
というのだが、それには、いくつかあるのだが、代表的なものが、
「正当防衛」
と、
「緊急避難」
という問題である。
これも、いくつかの条件が揃わないと成立しないが、
「正当防衛」
というのは、一番よく問題になるもので、
「相手が殺意を持って襲ってきた時、こちらは命を奪われないように抵抗した場合、謝って相手を殺害することになっても、それは殺人ではなく。正当防衛で無罪になる」
ということである。
つまりは、この場合の焦点は、
「まず、相手に殺意があって、こちらに襲い掛かってきたということ」
この場合、こちらが煽ったりしていないことが条件であろう。
「謝って相手を殺した:
つまり、こちらに殺意がなかったということが焦点である。
もっというと、
「相手がこちらを殺そうとしているのが分かったので、目には目を歯には歯をというような意識で、殺される前に、相手を襲うという先制攻撃は、正当防衛とは言えない」
ということである。
「あくまでも、専守防衛」
であり、襲われないと、正当防衛は成立しないということだ。
「緊急避難」
というのは、
「例えば、乗っていた旅客船が何かの原因で沈没したとしよう。救命ボートで逃げ出した人がいて、その救命ボートが5人乗りだったとして、ちょうど、5人が乗っていて、定員ギギギりだったとした時、近くを泳いでいた人がそのボートに乗ろうと、手を伸ばしてきた時、それを妨害し、その人を見殺しにしてしまった場合などは、緊急避難に当たるのではないか?」
ということである。
つまり、
「助けを求めてきたが、その人を助けると、他の全員が、沈んでしまって。全滅してしまうということを示していたのだ。
この場合は、
「人を助けたことで、自分と助けた人も危険にさらされる場合に、見殺しにした場合は、殺人とは言えない」
ということである。
あと、問題として、
「5人がその中で生き残ったとしても、結局食料も少なく、一人でも減れば、それだけ長生きできると言った場合に、誰か一人を犠牲にした場合、緊急避難が認められるかどうかは、判例であったり、その時の裁判員や裁判長の裁量によるのではないだろうか?」
と思い、
「難しいことであることは間違いない」
といえるであろう。
とにかく、法律の中には、必ずといっていいほど、例外規定がある。裁判において、明文化されていること以外にも、
「判例によれば」
などということで、
「明文化されていないが、過去の裁判において、似たような事例があって、それに従っての判決」
ということも、十分にある。
何しろ、
「人が人を裁く」
のである。そんな簡単に行くわけがないというのは当然のことであった。
この場合の、
「違法性阻却の事由」
に関しては、
「人間の感情」
というものを働かせてはいけないであろう。
なぜなら、この場合は、どういう結論になろうとも、理不尽さが必ず残るからである。
もっとも、
「殺人という行為に変わりはない」
のだから、殺意があろうがなかろうが、結果は絶対に、全体的に診ても、負しか残らないものである。
殺人にしても、よほど理不尽な形で人を殺さない限り、
「違法性阻却の事由」
に当たらないまでも、
「殺人には。殺人を行う理由」
というものが存在するはずだ。
特に、前述のように、
「殺らければ、殺られてしまう」
ということで、先制攻撃だった場合もあるだろう。
また、苛めに耐えかねて、
「もう耐えられない。このままでは自殺するしかなくなってしまう」
というところまで追いつめられるということだってあるだろう。
そういう時には、当然、
「情状酌量」
というものがあり、
「罪の軽減」
が考えられるに違いない。
だが、罪は罪であり、執行猶予がついても、有罪には変わりない。
そういう意味では、
「違法性の阻却」
であれば、最初から無罪である。
前科がつくこともなければ、日本では、
「一度、裁判案件が確定してしまうと、二度と同じ罪で裁かれることはない」
という、
「一事不再理」
という法則があるのだ。
そういう意味で、
「違法性の阻却」
と、
「情状酌量」
というのでは、天と地ほどの違いがある。
果たして、それを裁くのも人間なのだから、実に難しいところである。
特に、
「違法性阻却の事由」
ということになってしまうと、裁かれなかった方はそれでもいいのだが、原告側とすれば、
「自分の身内、あるいは近親者が殺されたと分かっているのに、実際に見殺しにした人を裁くことができないというのは、これ以上理不尽なことはない」
といえるのではないだろうか?
ただ、正当防衛の場合、殺された方は、
「自業自得」
なのだろうが、
「緊急避難」
の場合は、そうもいかないだろう。
ただ、これも考え方として、
「たまたま近くに船があって、助かったと思ったかも知れないが、定員オーバーであるから、助からなかったというだけのことで、もし、船がいなかったら、必然的に死んでいた」
と考えれば、何も助かった人を罪に問うというのは、却って理不尽なのかも知れない。
「運がよかったと一瞬思い、助かったと感じたことで、有頂天になったかも知れないが、次の瞬間、助からないと悟ったことで、天国から地獄に叩き落され、実際に助けられることもなく死んでいくのだ」
と考えると、
「これも、最後は、運が悪かったと思うしかないのだろう」
ということになるのである。
つまりは、
「違法性阻却の事由」
に対しては、感情などが入ってしまうと、原告側の気持ちが収まらないということになるかも知れないのだ。
下手をすると、
「仇討」
とでもいうような、
「報復行為」
になってしまうかも知れない。
もちろん、日本ではそんなことは認められているわけではないので、許されないことであるが、感情論に入ってしまうと、それも致し方のないことなのかも知れない。
そういう意味で、昔から、
「報復行為というのは、まるで合わせ鏡のように、半永久的に続いていくもので、決してその気持ちは消えることはない」
と言われているのではないだろうか?
そういう意味で、
「人間というのは、どこまで冷静になれるか?」
ということが大切であり、時には冷徹な場合もあり、冷徹な判断が、正しかったと後から思えば言えることがかなりあるだろう。
「やり切れないよな」
と思うことも結構あり、
「それはそれで仕方がないだろう」
といえるのではないだろうか?
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