第2話 浦島神話
その頃までの社会の基本は、
「終身雇用」
あるいは、
「年九序列」
というものであったが、そんなものは崩壊していく。
会社は、人件費を減らすために人を削減することで、回らない仕事をアウトソーシングという、いわゆる、
「外注」
を行うことで賄ったり、さらには、最近でよくいう、
「非正規雇用」
というのが、始まったのも、その頃である。
正社員を少しでも減らし、パートやアルバイトでもできる仕事はそっちに回すというものだ。
そして、その頃から、
「派遣社員」
というものも出てきて、3カ月に一度更新をして、雇用契約を結ぶというものえあった。
そんな時代が進んでくるのだが、
「非正規雇用」
というもの一番のメリットは、
「給料が安い」
ということだけではなかった。
むしろ、
「簡単にクビが切れる」
ということだったのだ。
正社員であれば、その人に落ち度がなければ、簡単にクビを切ることはできない。しかし、非正規雇用であれば、一種の期間ごとの契約なので、その期間が終われば、
「更新しない」
ということを、決められた時期よりも前に通告すれば、簡単に切ることができるのだ。
その問題が、かつての、
「リーマンショック」
と呼ばれた時に顕著に起こり、
年末に大量解雇などが起こったことで、街に失業者があふれ。
「派遣村」
などというものが生まれ、ボランティアの人が、炊き出しなどということをして、何とか最低の生活ができるというような社会問題になったりした。
そんな時代を経て、今という時代があるわけだが、基本的には、バブルが弾けた時に、世界が一気に変わったような、そんな変化が起こることはなかった。
そんな時代を経て、実際の街の風景は、かなり変わっていった。
少なくとも、昔のような町医者はどんどん減っていった。
これも、個人病院が合併するということもあっただろうし、病院を畳んで、大きな病院の医者として招かれるということもあったのかも知れない。
それでも、何とか町医者として存続している
「イシダ病院」
は、まわりからも、
「よくもってるな」
と言われるほどであったが、院長や、息子先生の人柄を慕ってやってくる患者もいるので、まだ息子が後を継ぐということが決定する前であれば、
「わしの目の黒いうちは、この病院をもたせて見せる」
と院長がいっていたのを、覚えている人も結構いることだろう。
そんなイシダ病院に、鈴村美亜が入院したのは、先週のことだった。
学校で体育の授業中、急に差し込みのようなお腹の痛みに見舞われて、救急車を呼んだが、美亜は、行きつけの病院を聞かれて、
「イシダ病院です」
と答えたことで、イシダ病院に担ぎ込まれた。
ちょうど昼休みの時間だったが、救急車から連絡が行っていたので、スムーズに行った。逆に他の患者がいなかったことが幸いで、運び込まれた時、すぐに診ることができたのだった。
ただ、さすが医者、慌てる様子はまったくなく、相当落ち着いていて、患者に対しての気遣いとして、病状を聴きながら、
「心配はいらないよ。すぐに痛みをなくしてあげるからね」
といって、看護婦にてきぱきと指示を与えていたのだ。
その姿を見て、苦しかったが、安心感が出たおかげで、先生に対しての頼もしさが出てきたのだった。
先生が少し見ると、
「ああ、大丈夫です。虫垂炎ですね。いわゆる盲腸炎です」
といって、ニコニコ笑いながら、
「これで痛みは和らぐかあらね」
といって、注射をしてくれた。
「手術になるけど、心配しないでいいからね」
と言われ、午後から、手術を行うことになった。
午後の診察は、
「若先生に任せて、私は、手術を執刀しよう」
と大先生が言ってくれたので、美亜は安心しきっていた。
さすがに、全身麻酔でもなかったので、見えないところでお腹を開けられていると思うと気持ち悪かったが、考えてみれば、
「歯を抜く時だって、麻酔一本で、歯のあたりと唇がマヒしているだけで、痛くもないではないか」
と思った。
もっとも、それは、
「上手な歯医者の先生にされた場合」
であって、下手な先生に当たると、ロクなことはなかった。
麻酔はすぐにキレるし、歯ぐきは腫れるしで、さんざんな目にあったのを思い出していたのだ。
だが、ここの先生に対しては、絶大なる信頼を寄せていたので、心配はしていない。時間にしてどれくらいだったのか、自分でも分からなかった。
「まな板の上の鯉状態」
の時は、まったく時間が進んでいないように思えたが、終わってしまうとあっという間だった気がする。
「まるで夢を見ていたようだ」
と思うと、今度は本当に睡魔が襲ってきた気がする。
下半身が痺れていて、自分の身体ではないような気がしているので、それも無理もないことなのかも知れないが、
「もう大丈夫だよ」
と、先生が優しい顔を向けてくれたことで、そのまま睡魔に入ってしまった。
先生の声が遠くで響いていた。その声がどんどん遠ざかっていく。
「ああ、私はこのまま寝ちゃうんだな」
と思うと、完全に睡魔に陥っていた。
美亜は、自分のことを、
「二重人格だ」
と思っていた。
二重人格というのがどういうものなのかというのは分からなかったが、少なくとも、
「躁鬱の気があるような気がする」
とは思っていた。
機嫌がその日によってまったく違うのである。
「今日の私はどっちなのだろう?」
と、時々考えるのだが、家にいる間は自分でも分からない。家を出ることによって、その日の自分がどっちなのか分かるのだ。
家にいる時、たまに心細くなることもあるが、その心細さは、あくまでも、
「自分の城の中」
という意識が強いからだろう。
だから、親がいくら自分を叱るような言い方をしても、
「叱られている」
という感覚にならないのだ。
ただ、同じ親といる時でも、家を一歩出れば、
「まるで他人」
とでもいうかのように、家にいる時とでは、まったく空気感、さらには、距離感というものが掴めないのだった。
「家を出る時、何かの結界を飛び越えているんだろうか?」
と考える。
美亜は、結界というものは、
「どうやっても、越えられないもの」
という意識を持っていて、
「飛び越えられるのであれば、それは結界ではない」
と感じていた。
しかし、本当にそうなのだろうか?
「飛び越えられる結界」
というものがあり、その結界も、飛び越えられない結界も、同じなのではないかと思っていた。
つまりは、
「表からでは、絶対に越えられなくても、裏から表に出る時というのは、まったく意識をすることがなく超えられる壁、そう、まるで、反対側からでは見ることができないというマジックミラーのようなものではないだろうか?」
と思うのだった。
それを感じるのは、夢を見る時であった。
「睡魔に襲われ、夢の世界に入る時は、結界など感じないのに、夢から覚める時というのは、自分が夢を見ていて、現実に帰ろうとしているのが分かっていて、同じ越えられない壁であっても、夢の内容によって、戻りたくないという思うの時と、早くここから抜けたいと思う両極端な気持ちになるにも関わらず、結局、そお壁は、いかにも結界であり、簡単に抜けられるものではない」
と思っていた。
しかし、それをいつも簡単に抜けている。
それは、
「勘違いというわけではなく、時間というものが、何にも増して強いものであり、越えられなと思っていても、気がついたら抜けている。それが、夢を見るということなのではないだろうあ?」
と感じるということだったのだ。
だから、表に出るその時が、
「本当に夢から覚めた時」
ということで、
「家にいる時というのは、あくまでも、夢の中なのではないだろうか?」
ということであった。
だから、たまに、目が覚めたその時、
「あれ? この感覚。初めてではないな?」
という、いわゆる、
「デジャブ」
と呼ばれる感覚になることがある。
デジャブというのは、今までにも何度もあるが、基本的に、その頃までは、
「同じ情景を感じるのは、一度キリだ」
と思っていた。
しかし、目が覚めた時に、毎日のようにデジャブを感じるようになってから、
「あれ? 今までは一度しかなかったはずの感覚なのに」
と、毎日感じているデジャブ以外でも、他にあるような気がしたのは気のせいではないような気がする。
目が覚めた時というのは、確かにデジャブである。
「目が覚める」
という行為は、考えてみたら、どんな夢を見ていたとしても、目が覚める時はそれほど違いはない。
「いやいや、楽しい夢を見た時と、怖い夢を見た時とでは、全然違う」
と言われるかも知れないが、それは、あくまでも、
「目が覚めてから少ししてから、夢の内容を思い出した時であり、目が覚めて、目を開けた瞬間というのは、夢が何であったとしても同じなのだ。
と思うのだ。
「では、何をもって、夢から目が覚めた」
というのであろうか?
そのことを考えてみると、
「目が覚めた時というのは、結構たくさんの段階があるのではないだろうか?」
と感じるのだった。
「夢の世界を抜けた瞬間」
つまり、これが、一種のデジャブではないかと思う瞬間だった。目が覚めるということを意識させる最初なのだが、それは、毎回共通なのではないかと思う。
その後から次第に、毎回違う感覚がよみがえってくるのであり、
「今日は怖い夢だった」
「楽しい夢だった」
あるいは、
「夢なんか見なかったんじゃないか?」
という思いである。
しかし、美亜は、
「その中で最後の感覚が違っているのではないか?」
と感じるのだ。
というのは、
「夢というのは、誰もが睡眠に入れば見るものであり、夢の世界に、脚を踏み入れなければいけないのではないか?」
と思っていたのだ。
それなのに、なぜ覚えていないのかというと、
「覚えていてはいけない夢を見たからなのではないか?」
と感じるからであった。
「本当は皆いつでも夢を見ているんだ」
などと友達に、安易に話したりはしていない。
下手に話すと、
「あなた何言ってるの。見ていない夢だってあるのよ」
と、あたかも、
「自分の意見が一番正しいんだ」
と言わんばかりの人が、仲間内には必ず一人はいるというもので、そのことを考えると、
「人に言ってはいけないことなんだ」
と感じるようになったのだ。
「夢から本当に覚めた」
と感じるのは、その次の瞬間である。
身体が、完全に、
「起きている」
という感覚。
というよりも、
「幽体離脱をした身体に、魂が戻る瞬間」
とでもいえるような意識が働いた時であった。
幽体離脱という言葉がふさわしいのかどうなのか分からないが、
「人間は、時々魂が、自分の身体から離れることがある」
という話を聴いたことがあった。
少し話は違うが、以前、どこかの民話として残っている妖怪の話の類に、
「足に根が生えた、かかしのような妖怪がいる」
というのを聴いたことがあった。
その妖怪は、脚に根が生えてしまったために、そこから動くことができない。誰かが迷い込んできてくれないと、どうしようもないということだ。
しかし、その世界は、普段の自分たちとの世界とは違うところで、普通であれば、迷い込んだとしても、その姿を確認することはできないのだという。
そんな時、一人の百姓が迷い込んできた。年の頃は、30歳くらいであろうか。森の中の少し開けたところの真ん中に、かかしのようになって立っている少年に気づいたのだ。
「おじさんは、どこから来たの?」
といって、いろいろ話を聴いてみたりした。
最初は百姓も恐ろしくて、脚が震えて、身動きができない気がしてきたが、次第にその状況に慣れてきたといえばいいのか、怯えは次第に消えていった。
そして、少年の足を見て、
「ああ、可愛そうだ」
と思ったのだった。
その瞬間に少年は、
「おじさん、僕と握手してくれる?」
と、このタイミングということで話しかける。
すっかり百姓は、自分の意思で動いている感覚ではなくなったことで、まるで、あやつられるかのように、百姓は、少年に近づき、握手をした。
その瞬間に、二人は入れ替わり、百姓の足に根が生えてしまった。
少年は、
「おじさんありがとう。これで、僕は自由になれる」
というではないか。
「どういうことなんだい?」
と百姓が聞くと。
「僕は、ここで誰かが僕の身代わりになってくれる人をずっと待っていたのさ。おかげで、相手の気持ちが分かるようになって、近くに来た人で入れ替わってくれそうと人を、神通力でここにおびき寄せ、そして、自分がここに根を下ろしたのと同じ方法でしか、ここから逃げられないと悟ったんだよ」
と少年は言った。
「俺は、ここにずっといることが怖かったじゃないんだ。俺がここに一体どれだけの間いたと思うんだい?」
というので、
「いや、分からない。半年やそこらはいたのかな?」
と少し控えめかと思ったが聴いてみた。
「いやいや、そんなものじゃないよ。500年はいたさ」
というではないか?
それはさすがに驚いた。
「500年?」
というと、
「そうさ、500年さ。だからと言って、俺は妖怪というわけではない。といっても信用してもらえないかも知れないが、俺はここでずっとこのまま年も取らずに、ただ立っているだけなんだ」
というではないか。
「そ、そんな」
と言った百姓は、それが、これからの自分の運命だとすると、溜まったものではない、
普通なら、気が遠くなる年月をただ、気も狂わずにこの場にいるということは、どういうことなのか、想像を絶するということだけが分かったのだ。
「次の人がいつ来るかは分からないけど、でも、人間に戻れると、その間がとても短かった気がする。そうなると死ぬのも怖くはないのさ。生きることと、死ぬことに対しての感覚がマヒしてくるから、死を恐れない。つまりは、都市も取らないし、生きていた時間が俺に戻ってきたんだ。これでやっと死寝る」
というのだ。
「本当に死ぬことが怖くないんですか?」
というと、
「ええ、怖くはないです。何と言っても、500年も生きましたからね。生きているのがどういうことなのか、ここにいる間に悟ったような気もしたんですが、でも、元に戻った瞬間に、すべて忘れ去ったような気がしてきたんですよ」
というではないか。
「俺には分からない」
というと、少年は、
「いやいや、すぐに分かると思いますよ。僕も死ぬということが分かるまでに結構早かったからですね。一人で何の邪魔も入らないと、意外と、考える時間はたくさんあります。そして、考えるということが、ループであるということも分かってくるんですよ。堂々巡りを繰り返すというのも、いつも同じところに返ってくるわけではない。微妙に違っているんですよ。だから、人は老いてしまうのであって、寿命があり、そこに向かっていくんですよ。だから、堂々巡りというのは、決して悪いことではない。螺旋階段のようになって少しずつでも落ちていくことが、幸せなんだって感じますよ。確かに人間は、死に向かっていると言えるわけで、たった30年も生きていないのに、老化が始まったりするというじゃないですか。人間の、いや動物の生き死にというのは、デリケートなものであるんだけど、それだけ単純なんですよ。それを分からないということは、自分が単純になれない。つまり、素直になれないということなんでしょうね。単純ということは、新鮮なことであり、高価なことだと俺は思うんだよな」
と少年は言った。
少年といっても、500年も生きていて、考えることだけが許される中で、ただ、ずっと生きてきたのだ。
それを考えると、
「俺もこれから同じ運命なのかと、震えが止まらないが、少年の話を聴いていると、納得がいくところもある。
「そうだよな、これから普通に生きていて、絶対に悟れないようなことを、ここにいれば悟れるんだ。何も爪痕と残せずに死んでいくことを思えば、ここにいるのも悪くはないか?
ということで、
「悟りを開いたような気がする」
のだった。
その少年は、完全に人間に戻り、どんどん老いていく。その姿が、まるで特撮映画を見ているように、一気に年を取っていくのだ。
「まるで、浦島太郎に出てきた、玉手箱のようじゃないか?」
と思うのだが、それは少し違う。
「玉手箱などなくとも、勝手に年を取っていくだけではないか?」
と考えると、乙姫様が渡した玉手箱というのは、
「そもそも、年を取らせるものではなく、別の効果を与えるものではないのだろうか?」
と思えてきたのだ。
浦島太郎のお話は、実は、
「玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった」
ということで、大団円のようになっているが、それではあまりにも中途半端な終わり方ではないか?
そもそも、
「苛められているカメを助けて、竜宮城へいくのだから、最後はおじいさんになるというのは、理不尽ではないか?」
と言われていた。
確かにその通りであるが、実際には、浦島太郎の話には、
「続きがある」
ということであった。
それも、
「悲しいお話ではなく、ハッピーエンドになるお話だ」
ということであった。
というのも、
「浦島太郎が、おじいさんになると、そこにカメになった乙姫が現れて、浦島太郎の元にいき、浦島太郎が、鶴になって。二人は、幸せに暮らした」
というのが、本当の話だという。
ただ、細かいところはハッキリとしないのだが、あくまでも、
「最後はハッピーエンドだ」
ということなのであった。
そう考えると、
「乙姫が渡した玉手箱というのは、どういう意味があるのだろうか?」
ということである。
ハッピーエンドとなったのだから、それでいいというわけにもいかない。
そもそも、玉手箱を開けて、おじいさんになってしまったという話に、どのような信憑性があるというのか?
確かに、750年くらい先の世界になっていたということであるが、そこで太郎が老人になったところでどうなるというのか、その後、死んでしまったということであれば、それなりに話の辻褄は合うが、
「ただ、老人になった」
というだけでは、このお話は何がいいたいのか、まったく分からない世界ではないだろうか?
何かの教訓だとしても、もし言えるとすれば、
「見るなのタブー」
を破ったということへの戒めくらいしか思いつかない。
「見てはいけない」
「開けてはいけない」
というたぐいの教えは、古今東西のお話においては、よく言われていることで、その後不幸になるというものなのだ。
しかし、実際にはハッピーエンドだ。だとすれば、この玉手箱という発想はどこから来たというのであろうか?
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