第12話
テレビでは若い芸人がタバスコを二瓶まるまるかけてピザを食べていた。
「うわぁ」
由美は顔をしかめた。
何でこんなことするんだろう。
これから大きなことをするというのに、由美は自分でも驚くほど平然としているのだった。
由美はテレビを消した。
そして、部屋の隅に置いていた少し大きなスポーツバックを持ち上げた。
バックには一週間分の洋服や下着、化粧品、銀行の通帳やパスポートが入っていた。
海外に行くことはないだろうが、一応パスポートも入れた。免許証を持たない自分の身分証になるだろう。
キャリーバックならもっと詰めることができたが、由美はそうしなかった。
家の中にあるものは由美一人だけのものではない。
たとえ由美の洋服であったとしてもだ。それを買うには、なんらかの形で明が汗水たらしてきつい仕事をして得た金がつかわれていた。
由美はゆっくりと階段を降りはじめた。
家の前で車の止まる音がした。
信一郎か。そんなはずはない。
信一郎とは少し離れた場所で待ち合わせしていた。近所の目を気にしてのことだった。
由美は再びゆっくりと階段を降りはじめた。
そのとき、ドアの鍵が開けられる音がした。
由美は体をこわばらせ、バッグをぐいと身にひきよせた。
続いてドアが開けられる。
明だった。
由美と対峙した明が驚いて、言った。
「びっくりした。何してんの?」
「え、あ、ちょっと」
明が由美の手元を見る。
「ちょっとって? その鞄、どっか行くの?」
「あ、うん、恵美たちとちょっと温泉に。急に決まっちゃって」
同じ専門学校に通っていた共通の友人の名前を出す。
「今から? もう一時過ぎてるぞ」
「あ、うん、夜行で」
由美は降りてきた階段を戻る。
「どした?」
「ちょっと忘れもの」
由美は和室に飛び込んだ。
どうしよう。言い逃れられるとは思わなかった。
振り向くと、入口に明が立っていた。
由美は鞄の中に手を入れ、意味もなく中をまさぐった。
「そっちこそ、どしたの? 何かあった?」
声が小さく割れた。
「うん、営業の奴ら、あまりにもこっちのこと考えずに仕事入れてくるからさ、大喧嘩になっちゃって」
「そう」
答えながら、由美は手を動かし続けた。
整理されていた鞄の中が乱れていく。
「で、もうやってらんないから、タクシーで帰ってきた」
「そっか。いいんじゃない、たまには。怒んないとわかんない人たちって居るしね」
「ああ」
「会社って黙ってやってると、ああ平気なのかってムチャやらせ続けるしね」
「そうだな」
由美は腹を決める。
鞄のジッパーを閉じ、持ち上げた。
そして、部屋の入口に立つ明に向かっていく。
「どうしたんだよ」
明の横をすり抜け、細い廊下を歩く。
「だから旅行って言ってんでしょ」
「はあ? 何言ってんだよ」
明が由美の手をとった。
「やだ、離してよ」
由美が手をはらうと、明の顔つきが変わった。
「おまえ、男がいるだろ」
「・・・」
「そいつと行くのか?」
明は旅行だと思っているのだろう。
しかし、そうではなかった。
「人がこんなにボロ雑巾みたいになるまで働いてるってゆーのに、男なんて作りやがって」
由美は明を見返した。
自分で勝手にしていることを人のせいにするなんて。
くだらない男だと思った。
それが面に表れたのか、明が声を荒げた。
「なんだよ。逆ギレかよ」
「・・・」
「ぶっ殺してやる。来いっ!」
明が由美の手を強くひいた。
由美はその手を自分のほうへ取り戻して、逃げる。
続いて明が由美の両肩をつかんだ。
明にこれほどの力があるとは。由美は恐ろしくなる。
由美は鞄を振り回して暴れた。両側の壁にどんどんと鞄が当った。
明は更に由美の体を強く拘束した。
明よりずっと力の弱い由美は、子供がむずかるように無茶苦茶に体を揺さぶった。
もみあっていた二人は、階段を転げ落ちた。
階段下の玄関に打ち付けられたのは、明だった。
明の上に落ちていた由美は、すぐに立ち上がった。
明がクッションになったのだろう。痛みはどこにも感じなかった。
「いってえ」
狭い玄関で明が右肩を押さえ、うなっている。
由美は明の下になっていた自分の靴を取り上げ、靴下のまま外に飛び出した。
「まてよ」
つぶやくように明が言う。
由美は振向かず、真っ暗な歩道に飛び出していった。
由美は後ろを見ながら靴を履く。
持っていた靴が冷えていたのか、夜道を歩いたせいか、ひんやりとした感触が足裏に広がる。
由美は信一郎との待ち合わせの場所に向けて、走りはじめた。
夜道に響くのは由美の足音だけなのに、明が追いかけて来ているのではないかと、由美は何度も後ろを振り返った。
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