第6話

 携帯の鳴る音で目を覚ました。

 由美は手を伸ばし、携帯を持ち上げる。


 腕が畳にこすれる感触が心地良かった。

 電話は小倉に居る母、信子からだった。


「もしもし」

「もしもし、私。元気にしとるん?」


 信子の大きな声が寝ぼけた頭に響いた。


「あ、うん。元気」

「寝とったん?」


「うん、ちょっと。でも大丈夫。そっちは?」

 信子は自分の近況を話し出す。


 話しだしたら、三十分は止まらない。

 由美は聞き役に徹する覚悟をして、携帯を耳に押し当てた。


 由美は十歳のときに父を亡くした。事故だった。父は建設現場で働いていた。

 夫を喪い、信子は保険の外交員をしながら、由美を育てた。


 信子は今でも仕事を続けている。


「最近の人は何考えとるんやろうね。びっくりするわー、もう」

 職場の愚痴だ。


 信子のようなセールスレディを束ねる営業所長はたびたび変わる。不正を防ぐためらしい。


 三十三で働き始めた母も、もう五十になる。

 年下の営業所長が赴任してくることも多く、信子の不満は増えるばかりだ。


「仕事、きつかったらもう辞めたら」


 娘が自立した今、それほどきつい仕事を続ける理由はない。

 そういったこともあり、信子の愚痴は増えているのだろう。我慢がきかなくなっているのだ。


 由美が学生で、何が何でも仕事が辞められない状況からはやっと抜けることができた。


 重しがなくなり、それが不満の出やすさにつながっていることに信子は気づかない。


「でも、辞めてもやることもないしねえ」

「ゆっくりすればいいじゃん」


「ゆっくりねえ」


 人が会社を辞めるといったときは、「そんなきついところは早く辞めたほうがええ」と言ったくせに、自分のことになると違うらしい。

 何だかんだ言っても信子は仕事が好きなのだ。


 信子は成績も悪くない。所長に意見できるのは、成績が良く、勤務年数の長い人間だろう。


 由美は見たこともない営業所長が気の毒になる。


 腹の立った中年の女の物言いには遠慮や優しさがまったくない。相手をするのは大変だろう。


「それより、あっちのほうはどう?」

 キタ。

 携帯を握り締める手に力がこもる。


「あっちって?」

「あっちっていったら、あっちだよ」


 ほんとに遠慮がない。

 年を重ねるごとに直截的になっていく信子が下品に感じられて仕方がなかった。


「子供のこと?」

「そう。どう?」


 信子は毎回期待をこめて聞く。

 由美が仕事を辞め、避妊も止め、いつ子供ができてもおかしくない日々が二年ほど過ぎている。


 それなのに・・・仕事で忙しい明との交流が少ないのだろうか。

 信子は思っていてもさすがにそこまでは口に出せない。


「まだ」

「そうかい」


 信子がため息をつく。


「そんなにあからさまに落胆しないでよ」

「ごめん、ごめん」


 気まずく沈黙が流れる。


「病院は?」

「え?」


「病院に行ったりはせんの?」

「不妊治療ってこと?」


「あ、そうそう、それそれ、不妊治療」

「それはまだちょっとね」


 そうなったら中絶してたことがばれるかもしれんよ。

 信子にそう言ってやりたくなる。


 信子はどんな反応をするだろう。

 信子だって信一郎のことを忘れているはずはないのだ。


「そうやね。まだちょっと早いかもね。でも、あんまりあれやったら・・・」

「うーん、そうやね」


 由美ははぐらかす。

 信子の由美へのアドバイスは、「流し込んだら、逆立ちしろ」だった。


 信子は不妊治療がどんなものなのか、良くわかっていないだ。

 そうでなかったら、由美の過去を隠したい信子が不妊治療をすすめるはずはない。


「明君はなんて言ってるの?」

「何も。自然にまかせようって。一人で家に居るのが寂しかったら猫でも飼う?って」


「猫?」

「そう、猫」


「あんた、好きやもんねえ」

「母さんだって」


 由美の猫好きは信子ゆずりだった。


「そうやけど」

「でも止めとく。赤ちゃんの代わりなんて、猫が可哀想だもん」


「・・・」

 信子が黙りこむ。


 ほんとは猫を飼うことのできない理由は他にある。

 今度、信一郎と駆け落ちするからだ。


 それは信子には絶対に言えないことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る