その75「夏夜姉とファミレスに行った・上」


 それは突然の電話だった。俺は携帯を取る。相手は、夏夜姉だった。


 「もしもし」


 『あ、夕一……』


 その声色だけで悟った。また夏夜姉の、気分が沈む期間がやってきたのだ。


 『あの、夕一、その……元気?』


 どこか話し口もたどたどしく、声も幾分低い。夏夜姉の方は、明らかに元気がなさそうだった。


 「ごめん夏夜姉、明日朝からバイトだから、泊りには行けないんだ」


 『ど、どうしてそれがわかったの!?』


 気分が沈んだときの夏夜姉の思考回路は単純だからだったが、あえてそれは言わなかった。


 夏夜姉には、周期的に気分が沈む時期がやってくる。その時期はこれまでの行動を見る限り、無性に人恋しくなり、同時に部屋の隅で三角座りをしたくなるようだった。


 『ねぇ、どうしても無理?どうしても?』


 「どうしてもってわけじゃないんだけど、夏夜姉のところに泊ると、明日始発近い電車に乗らなくちゃいけなくなるんだよね」


 『そ、それじゃ、夕食は?大学から少し歩いたところにあるホテルがいいディナーを出していてね、そこのムニエルが……』


 夏夜姉はそこの料理について熱心に語る。まるで口説かれでもしているようだった。


 「まぁ、夕食くらいなら大丈夫だよ。でも、そんな高そうなところじゃなくていいよ。俺全然舌肥えてないし」


 『夕一と一緒にご飯するのに、妥協なんてできないわ。やっぱり、楽しいひと時というのは、多少の……』


 「それに、なんか長いできなさそうだし」


 『ファミレスにしましょう』


 即答だった。相当人恋しいらしい。


 『高級ファミレスってあったかしら……』


 「そもそも高級だったらファミリー感がないよ。ただの高いレストランだよ。ガストでいいよ、ガストで」


 考えているのだろう、少しばかり電話の向こうは沈黙したが、やがて、わかった、と一言返ってきた。


 『でも、ガストは見送りましょう。せめてココスにするわ』


 「わかんないよ、違いが」


 夏夜姉が話すところによると、どうやら企業競争の関係で、ココスの方が価格帯が少し高いようだった。夏夜姉らしいインテリジェンスな回答だったが、正直どちらでもよかった。


 「深月姉と汐里の夕食を作ってから行くから、少し遅くなるけどいい?」


 「ええ、かまわないわ。あ、そうだ、夕一」


 「なに?」


 「姉さんにだけは言わないでよ。絶対に」


 この瞬間だけは、か弱い夏夜姉の声に力が入った。


 「わかったよ」


 『帰ったら、姉さんには『仕事が残ってるからまた戻るよ。夕食は食べてくるからいらない』って言うのよ?』


 「コンビニのバイトに残業はないよ、夏夜姉」


 まるで不倫でもするかのようなアリバイ作りだった。


 「まぁ、適当に言っておくよ。それと夏夜姉」


 『なに?』


 「とりあえず部屋の隅から離れて、部屋の明かりもしっかり点けたほうがいいよ」


 『……!!どうしてわかったの!?』


 気分が沈んだときの夏夜姉の思考回路は単純だからだったが、あえてそれは言わなかった。


 通話を終え、俺は家に帰る。夏夜姉との約束があるため、スーパーには寄らない。たしか、もやしくらいはあったはずだ。


 「お帰り、夕一」


 深月姉と汐里はちゃぶ台で絵を描いていたようだった。汐里は駆け寄ってきて、その絵を見せてくる。


 俺はバッグを部屋の隅に置き、さりげなく切り出してみた。


 「あ、深月姉、今日はちょっと晩御飯外で食べてくるよ」


 「ふふん、誘ったのは夏夜ちゃんだね」


 「……!!どうしてわかったんだ!?」


 「夕一をご飯に誘うのなんて、夏夜ちゃんくらいしかいないでしょ?それに、周期的に夏夜ちゃんが寂しがるのもそろそろかなって思ってたし」


 いつもならば阻止しようと抗議しそうなものだったが、今日の深月姉にはその様子は見られなかった。


 「いいよ、行ってきて」


 「いいの?」


 「うん。夏夜ちゃんには、最近色々お世話になったから」


 その恩返しが、弟との夕食を見逃すことだというのがなんとも悲しいことだったが、これで滞りなくうまくいきそうだった。


 「ゆーいち、なつよちゃんとごはんに行くの?」


 「ああ。ファミレスだ」


 汐里は、俺の指をがっちりと握った。


 「しおも行く」


 「いや、それがな汐里……」


 夏夜姉は歓迎しそうだったが、深月姉を一人残すのは、なんとなく悪かった。すると、深月姉が汐里を抱き寄せ、俺から離した。


 「汐里ちゃん?今日は夕一と夏夜ちゃん2人のお食事だから、邪魔しちゃダメだよ?」


 「でも、しおもファミレス行きたい」


 「大丈夫、近いうちにまた夕一が連れて行ってくれるから」


 「えっ、マジか」


 今月も家計はギリギリで回っているのだが、そんなことはお構いなしで、深月姉と汐里はどこのファミレスに行くか議論していた。


 「しお、ココスがいい」


 「私はロイヤルホストに行ってみたいなぁ」


 「マジか……」


 ここで深月姉の機嫌が崩れるのも面倒だから、なにか口を挟むことははばかられる。


 本当に連れて行かされるのではないか。内心ひやひやしながら、俺はフライパンに火をつけ、もやしの卵あんかけを作るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎週 火曜日 08:00 予定は変更される可能性があります

柏木さん家の子育て事情~姉がニートで弟がフリーター~ 夏目夏樹 @natsumenatsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ