その45「灯華がうちにやってきた・上」
部屋のインターホンが鳴ったのは、夕食時の午後7時頃のことだった。
いつもならばこの甲高い電子音が聞こえるたびに、俺と深月姉は震えることになるが、今日はその必要もなかった。NHKの料金回収業者が、夕方以降訪問することはないことを知っているのだ。
「ゆーいちー、ちょっと出てー」
深月姉はテレビゲームに釘付けになっている。俺はコンロの火を止め、玄関を開いた。大方新聞かネットサービスの勧誘だろうと思ったが、予想とは違っていた。
「………ども」
玄関の前に立っていたのは、髪の長い女の子だった。綺麗に手入れされた髪と同系色の、ゴシック・ファッション。この団地にはおおよそ不釣合いな格好をした彼女は、夜遅くに訪問したことがあってか、もじもじしながらうつむいていた。
「えっと、たしか、さきちゃんとこの……」
コクリ、と彼女は頷く。
確か、名前は灯華といったはずだ。前回はこちらを見るなり「性犯罪者」とわめいていた彼女は、今日は不自然に思える程静かだった。ずっとうつむいたまま、手さげポーチの紐を両手でいじっていた。
「どうしたんだ、こんな夜に」
「えっと、あの、とても言いにくいんだけど……」
思わぬ来客に、汐里もお絵かきをやめこちらにやってきた。
「あっ。さきちゃんのおねーちゃん」
「えっと、正確には咲希のお母さんの妹なんだけど……」
言いながらも、もじもじしたままの灯華。俺は頭を掻いた。
「それで、今日はどうしたんだ?さきちゃんもつれてはいないみたいだし」
「それが、とても言いづらいんだけど……」
そのとき、灯華の視線が俺から玄関近くのキッチンへと向かった。
「お料理のいい匂いね」
「ああ。今日はオムライスだ」
オムライス……、と呟く灯華。お腹をさすっているあたり、腹が減っているようだった。
「まぁ、立ち話もなんだから、部屋でオムライスでも食べながら……」
「どんな誘い文句だよ。立ち話ついでにオムライス出せって」
俺はため息をついた。
「とりあえず入りなよ。オムライスは俺のぶんを分けてやるから、その代わりちゃんと理由を説明してくれ」
「……わかった」
おおよそ彼女らしくないしおらしげな応答をみせ、彼女は部屋に入っていった。
「ねぇ、ゆーいち、ずいぶん長話みたいだったけど、誰だった…の……!!」
視界に灯華を捉えた途端、テレビの裏へ隠れる深月姉。灯華はブーツの紐を解き、脱ぎ終えると、すくっと立ち上がりテレビを指差した。
「……あれ、あんたの彼女さん?」
「違うよ」
「随分怯えてるみたいだけど、なにか手荒いことでもしたの?」
「なにも犯罪めいた真似はしてないよ。あれは俺の姉だ」
灯華は部屋の奥にあがりこみ、テレビの裏をじぃっと覗き込む。
「ボサボサの髪にスウェット、それに格闘ゲーム……。あんたの姉にしては、なんというか、だいぶ自堕落してるわね」
「それが売りの姉だ」
「う、売りじゃないよ!」
テレビの裏から抗議する深月姉。だが、極度の人見知りが邪魔をして、その声はひどく弱々しいものになっていた。
「まぁ、お前だからああいう態度を取っているわけじゃないんだ。気にしないでくれ」
「昔飼ってた猫が、来客がきたときちょうどああいう感じに逃げてたわ」
灯華にとっては、深月姉よりもオムライスの方が関心が高いようで、チキンライスの入ったフライパンを覗き込んだりしていた。
「ねぇ、私、お皿によそってあげようか?」
「いいよ、自分でするから。それより、なんでうちに来たのかを早く説明してくれ」
灯華は、またうつむき、ポーチの紐をいじりだす。それを、汐里は不思議そうに見ていた。
「その、なんていうの、私と姉さんとの間で、お互いの価値観の違いみたいなのが、顕著になってしまったわけよ」
「なんだその、離婚前の芸能人みたいな言い分」
「で、ここは、少し距離を取ったほうがいいなって考えたわけ」
「なんだそのマンネリ化したカップルみたいな…………ん、待て。ということは……?」
「……要約すると、家出ってことね」
「………はぁっ!?」
こればっかりは、深月姉も驚かずにはいられなかったようだ。全力でテレビ裏から飛び出してきていた。
「ちょ、ちょっと待て!お前、正気か!?」
「思いっきり正気よ!私はもう、姉さんの常識に縛られるのはたくさんなのよ!」
「違う!そうじゃなくて、出会って二度目の男の家に泊ろうなんて、どんな神経してんだよ!」
「………!?私になにかするつもりなの!?この性犯罪者!!」
「しねぇよ!!というか、この状況下で罵倒できるお前に心底感服するよ!!」
息を荒くし、肩を上下させる灯華。その凶暴な目を見て、深月姉はまたテレビの裏に隠れてしまった。
「こういう場合、友達の家に行くのが普通じゃないのか?」
「うち、お嬢様学校なのよ!?そんな家出に加担してくれるような家があるわけないじゃない」
「というか、どうしてうちのこと知ってるんだよ」
「咲希に教えてもらったのよ」
俺は頭を抱え込む。ちょっと姉妹喧嘩をしただけで、6歳児の友達の家に泊りに来るとは、恐るべき行動力だった。
「ともかく、しばらくやっかいになるから!」
勝手に食器棚から皿を取り、チキンライスをよそう灯華。ここまで図々しいと、かける言葉も見つからなかった。
「ちょっと!卵どこよ!半熟のやつじゃないとオムライスとは呼べないわよ!」
「ああもう!今作るから待ってろ!!」
俺はバターを冷蔵庫から取り出し、別のフライパンに火をかけた。
汐里は、灯華の手を引っ張って、夕食後はおままごとをしようと誘っている。汐里にとっては、お泊りに来た女の子でしかないようだ。
俺はちらりと、テレビの方をみる。涙を溜め、か弱い小動物のような目をした深月姉は、じぃっと視線でこちらに助けを求めている。だが、俺は気づかないふりをして、卵をフライパンに落とすのだった。
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