その43「なわとびの練習をした」
夕方。いつもどおり俺がバイトから帰ってくると、珍しいことに食器が洗ってあった。それどころか、風呂場の戸が開いていて、どうやらそこも掃除したようだった。
「これ、深月姉がやってくれたの?」
「うん。もちろん」
さらに、深月姉は汐里に絵本の読み聞かせをしていた。この時間、いつもなら空腹でお菓子を食べているか、ゲームをしているはずだった。
「どうしたんだ深月姉。なんの心境の変化だ?」
「まぁ、私だってこういうことをするときくらいあるよ」
「変な宗教にでもはまったのか?」
「……夕一は私が変な宗教にはまらないと、掃除洗濯をしないと思ってるの?」
心外、といった様子でじぃっと深月姉は俺を見る。俺は苦笑いをするしかなかった。
俺はテレビをつける。ちょうど、ニュース番組の時間帯で、明るい調子の天気予報が流れていた。洗い物の手間が省けたので、時間には少し余裕があった。
深月姉が絵本を読み終わると、汐里は立ち上がり、幼稚園かばんから一枚の紙を取り出して俺に手渡した。そこには可愛らしい手書きのイラストとリスト、左側のマス目には「前とび5かい」や「後ろとび5回」と書かれていた。
「……なわとび検定、か」
紙の一番上にそう書いてあった。汐里は、コクリと頷く。
「しお、けんてーをクリアしたい」
「なるほど」
「できれば、じんみんのちょうてんに立ちたい」
「なわとびでか」
競争意識をたぎらせる汐里。決して悪いことではなかったが、彼女の思想が正しいベクトルへ向かっているのかに関しては、即座に肯定することはできなかった。
「これかられんしゅうしたい」
「えっ、今からか?」
汐里はまた頷く。
「おねーちゃんが、ゆーいちはなわとびのりゅーおうだって」
「………竜王?」
無論、なわとびにおいて竜王位を獲得した過去は俺にはない。俺は深月姉を見た。
「………そういうことだったのか」
「えへへ、外に出るのはどうも苦手で」
自分が外に出ないために、普段しない掃除洗濯を全部肩代わりする。見上げた出不精スピリットだった。
「……はぁ。まぁ、いいよ。コンビニのバイトで廃棄の食べ物もらってきたから、それを晩ごはんにすればいいし」
「えぇー、夜はやっぱり夕一のあったかいご飯が食べたいなぁ~」
「深月姉が言うな」
なわとびの練習を夕方に引き伸ばしておいて、晩飯作りまで要求するとはかなりの図太さだった。深月姉はふてくされて、布団の中にもぐりこんでしまうのだった。
俺と汐里はなわとびをもって、外に出る。夕日が沈みかけていて、アパートの前には白色の電灯が灯っていた。
「よし、がんばって検定クリアしようか」
「うん。今日で、しおのけんてーに終止符をうつ」
手元のリストには、「前とび1かい」にしかシールが貼られていない。これで検定をすべてクリアすると言うのだから、汐里の向上心もなかなかのものだった。
「とりあえず、前とびを5かいとぶ」
「そうだな」
汐里は早速両手でなわの持ち手を持ち、構える。そして、思い切りそれを振った。
「とりゃー」
だが、汐里の掛け声もむなしく、一回目にして、なわが汐里の足にひっかかった。
「……………」
タイミングも遅ければ、腕が大振りでなわに回る勢いがない。それを指摘しようとしたが、汐里はまた始めていた。
「とうっ」
今度は、無事一回とぶことができた。だが、二回目は大幅に失速して、汐里の頭になわがぶつかった。
「……痛い」
俺は汐里の頭をおさえてやる。
「ひじは身体につけてやったほうがいいよ。ほら、ちょっと貸してみて」
汐里から受け取ると、俺はなわとびを構え、まわした。だが汐里の背丈に合わせているため縄が短く、一回目でひっかかってしまった。
「……………」
「……しっぱいは、だれにでもある」
「………どうも」
園児にフォローされている自分が悲しかった。
だが二度目の挑戦はうまくいって、俺は10回ほど跳んで見せた。
「……おお!!さすがりゅーおう」
「竜王じゃないから」
俺は汐里になわとびを戻す。汐里は言われたとおりひじを身体につけて、なわを回した。だが今度は勢いが足りず、うまく回らなかった。
「んー、難しいもんだなぁ」
人になわとびを教えたことはなかったため、
何度かやるが、やはりさっきと同じでうまくいかない。しまいには、元の腕を大振りする形の跳び方に戻してしまった。
俺は携帯を見る。時計は7時を指していた。
「汐里、もうお腹も空いただろうし、続きは明日にしようか」
「……もうすこし」
汐里は珍しく言うことを聞かず、またなわとびを振った。
「……この諦めない精神力が、半分だけでも深月姉にあったならな」
一心不乱に取り組む汐里を見守りながら、俺は呟いていた。
そして、俺もまた見本を見せたりしながら30分ほど取り組んだところで、コツを掴んだのか汐里は2回以上跳べるようになり、最終的には、動きはたどたどしいものの5回跳ぶことができた。
「やった……!!」
汐里は飛び跳ねる。そして忘れないようにと思ったのか、またすぐになわとびを回した。
見ると、最初の一回目だけ勢いよく大振りで回して、その後ひじを身体につけて回している。無意識なのか意図的なのかはわからなかったが、すばらしい進歩だった。
「すごいな。驚いた」
俺は汐里の頭を撫でる。汐里は恥ずかしそうにはにかんでいた。
「しお、もしかして天才なのだろうか」
「そうかもしれないな」
「ビル・ゲイツよりすごいかも」
「……それはどうだろうな」
ライバル視する人物がIT界の大物であるあたり、汐里の恐ろしいところだった。
汐里に頼まれて、俺は汐里をおんぶしてアパートに帰った。汐里は、はしゃいで深月姉になわとびが跳べたことを報告した。
俺はコンビニ弁当を取り出し、電子レンジの中に入れる。平和な一日だった。
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