その19「夏夜姉と逃避行した」
駅前まで走ってくると、夏夜姉はようやく止まり、前かがみになって苦しそうに呼吸をしていた。
「……はぁ……はぁ………」
「無理しすぎだってば。夏夜姉、運動神経はあんまりよくないんだから」
夏夜姉は反応せず、ひたすらに呼吸を繰り返している。時計台は、午前11時半を指していた。
「とりあえず、その辺で昼飯でも食べない?」
「……嫌よ。そんなことしたら、きっと夕一に戻るよう説得されるんだから」
夏夜姉は券売機で2枚切符を買って、1枚を俺に渡した。それは、券売機に表示された料金の中で、一番高いものだった。
「……………」
黙って夏夜姉は切符を機械に通し、ホームに入っていく。俺もその後を追いかけた。
この駅は夏夜姉の大学から近いということもあってか、比較的大きな駅で、そのため、ここで止まる電車も多い。だが、何本電車が来ても夏夜姉が向かうことはなく、ただホームでじっと待つ時間が続いた。
「……ねぇ、夏夜姉」
「………なに?」
「どこに行くつもりなの?」
「……………」
夏夜姉は答えない。ホームに群がる大学生の話し声だけが、耳に入ってきた。
あるとき電車の到着のアナウンスが出て、夏夜姉は立ち上がった。やってきた電車は風貌が一風変わっていた。それだけで、俺はそれが特急列車であると悟った。
「……………」
夏夜姉は、ただ俺の手を引っ張り、電車に乗り込む。俺は抵抗もせずにその列車に乗った。
電車は動き出す。ただただ夏夜姉についていき、あるところで二人隣り合う形で席に座った。夏夜姉は、なにも話さない。携帯を開くと、着信履歴が14件入っていた。
「………夕一」
夏夜姉は、俺の携帯を握り、そっと手から抜き取った。そして自分のジーンズのポケットに入れる。俺は何も言わず、窓の外を眺めた。
「お腹、空いたな……」
「………!!」
夏夜姉は突然立ち上がり、別の車両へ移り、どこに行ったか見えなくなった。そして数分して戻ってきた夏夜姉の手には、二つの弁当とお茶が握られていた。
「ごめんなさい、お魚のお弁当しかないけど……」
「いいよ。好きだし」
それから俺たちは鯖寿司の弁当を二人で食べ、一つのお茶のペットボトルを回して飲んだ。空いた車両には、ぽつぽつとくたびれたサラリーマンの姿があった。
「夏夜姉、一体、どこに行くつもりなの?」
「……夕一は、どこがいい?」
夏夜姉自身、目的地など決めていないのだろう。衝動的な行動だったのだ。
正直なところ、夏夜姉にも共感するところがあった。いくら賭けオセロに負けたとはいえ、最初に約束を破ってきたのは深月姉なのだ。それに、この前の映画のときでも、夏夜姉との約束に深月姉は介入してきた。お互い苦手に思っているのだから、夏夜姉にとっても少なからずストレスだったはずだ。
夏夜姉は、俺のさらにその向こう、窓の奥に広がる田園を眺めていた。快晴の中の陽光に照らされ、稲穂はにわかに輝いていた。
「……温泉に、行きたいかな」
「えっ……?」
「正直俺も色々疲れが溜まってるし、温泉にでも浸かって、リフレッシュできたらうれしいかも」
「!!………わかった!いい温泉宿、予約しておくから!」
夏夜姉は一新張り切って、スマホで温泉街を検索し始めた。俺は深月姉のポケットから携帯を抜き取り、トイレに行くと言ってその場を離れ、バイト先のスーパーとコンビニに、今日明日のシフトは休みたいと伝えた。電話をかけ終えたとき、ちょうど深月姉から15回目の着信がきた。
「……もしもし」
『あっ、夕一!?今どこにいるの!?』
「電車の中。どこ行きかは見てないけど、特急列車みたいだ」
『特急!?それってすっごい速いってこと!?もしかしてマッハ!?』
「どんなの想像してるんだよ。ステルス戦闘機並みに速い電車あったら見てみたいよ」
『はやく帰ってきて!汐里ちゃん、もう号泣しすぎてミイラみたいにカラッカラになってるんだから!』
「水飲ませろ、至急に。でもどのみち嘘でしょ?汐里が泣いたとこ、いままでにも見たことがないし」
『うぅ………』
図星のようだった。俺はため息をつく。
「まぁ、明日の夕方までには帰れるように夏夜姉は説得するから。今日は冷凍食品か、出前でも取っておいて」
『で、でも、賭けに負けたのに夕一を盗まれたっていうのは、どうも……』
「それも全部、深月姉が勝手に夏夜姉の家に泊りにきたせいだよ」
『うぅ………』
返す言葉もないようだった。
家のことと、汐里の送り迎えだけを頼んで、俺は電話を切った。
席に戻ったとき、夏夜姉は存外上機嫌だった。
「夕一、箱根温泉なんてどう!?いい旅館が空いてたから、そこ予約したんだけど!」
「ああ、いいんじゃない?」
予約したらもう行くしかないじゃないか。その言葉をこらえて、俺は夏夜姉の隣の席にまたついた。
列車は止まることなく進んでいく。電子板の時計は、午後1時を指していた。
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