その10「幼稚園に通い始めた」
朝の陽気がまぶしい。細かな雲だけが浮かぶ青空。その下で、俺はしゃがみこんで汐里と最後の確認をしていた。
「ハンカチは持ったか」
「持った」
「お弁当は?」
「ある」
「ちゃんと自己紹介できるか?」
「まつかさしおり、6さいです。どうぞよしなにしてください」
「んー、いいけど、もう少し言葉を一般の幼稚園レベルに下げた方がいいかもな」
「むぎでもたべて、せーぜー大きくなってください」
「レベルを下げるのと見下すのは違うからな、汐里」
のっけから不安だらけだった。
汐里にとっては久しぶりの幼稚園。その校門に、俺たちはいた。ちょうど登園時間ということもあり、園児たちが元気に校門を通っていた。
深月姉は、ゲームのしすぎによる寝不足のため、ここまで来ていない。まぁ、早寝をしていたところで、深月姉は来なかっただろう。彼女にとって、通勤時間の外出はかなりハードルの高いことなのだ。前職のことを思い出してしまうのだろう。
「あ、松笠さん、おはようございます」
声をかけてきたのは、これから汐里が通う組の先生だった。三十代前半の、いつも柔らかな表情を見せる先生だった。
「おはようございます。ちなみに、俺は柏木です」
「あ、そうでしたね。失礼しました」
複雑な家庭環境を察して、先生は苦笑いをした。
担任の先生とは、これで会うのは二度目だった。前回は手続きと、汐里に関する面談のために一度幼稚園に出向いた。前に通っていた幼稚園と、そこの担任から聞いたこと。前任の先生から厳しく当たられていたことを話したが、それをきちんと理解をして、なにかあれば逐一報告することを約束してくれた。
「それじゃ、汐里ちゃんをお預かりします」
「よろしくお願いします」
先生と汐里は、園の奥へと入っていく。汐里を小さく手を振っていた。俺は見届けてから、仕事へと向かった。
今日は近所のスーパーだった。最近働き始めて、週に3、4日入っている。今後汐里の送り迎えをすることを考えれば、立地的にちょうどよかった。
昼前に一端家に帰ると、深月姉は部屋でぐーたらと寝転んでいた。
「汐里も幼稚園に通い始めたっていうのに、深月姉は相変わらずだな」
「ふっ、やすやすと他人に影響されるようじゃ、ニートは続けられないよ!」
「なにか誇りのようなものまで感じ始めてるな……」
養われているのが4つ下の弟であることについて、そろそろ考えてほしいところだった。
「それにしても、暇だよ。いつもなら汐里ちゃんがいるから一緒に遊んだりするんだけど」
そういえば、日中深月姉と汐里が二人でどんなことをしているのかは、ほとんど知らなかった。
「いつもなにして遊んでたんだ?」
「んーとね、妄想お絵かきとか」
深月姉が、ファイルに挟んであった紙の束を取り出す。見ると、鉛筆で描かれた絵だった。
「二人でお題を決めて、リレー形式でお話を絵で描いていくの。例えば桃太郎だったら、私が大きな桃を割る絵を描いて、次に汐里ちゃんが大きくなった桃太郎を描くみたいな」
変わった遊びだった。俺は深月姉と汐里の絵を一枚一枚見ていく。汐里も6歳にしてはかなりうまいが、深月姉も地味に絵がうまい。中高を通して、理科の授業中に鍛えたのだという。
「これ、なんだ?」
「ああ、これ、夕一が宇宙警察の一員になる話だね。支配者階級の宇宙人から賄賂をもらって、下克上をもくろむ労働者階級をコテンパンに打ちのめすの」
「幼稚園児相手になんて物語描かせてるんだよ」
「それ考えたの汐里ちゃんだよ?」
「なんて幼稚園児だよ」
名門の幼稚園に通ってたり言葉遣いが妙に大人びてるあたり、前々から賢いとは思っていたが、ヒエラルキーまで理解しているとは思わなかった。
「結局夕一は宇宙怪獣に食べられて、消化されちゃうの」
「妄想の中の俺になにがあったんだ」
あらすじもひどければ、オチまでひどかった。
「夕一ー、暇だから一緒に映画観ようよー。汐里ちゃんが観たら3分で寝るような文学的なやつ」
「そんなん見たら、深月姉も3分で寝ちゃうだろ」
「それどういう意味!?」
深月姉が俺の肩をポコポコ殴っていたところで、ちょうど家を出る時間だった。俺は立ち上がる。
「それじゃ、行ってくるよ」
「え、待って!私のお昼ごはんは?」
「適当にレトルト食品を食べてくれよ」
「もうー。そんなのが続いたら、しまいにはグレるよ?」
「大きな反抗期もなかった深月姉がなに言ってるんだよ」
ぶーぶー言う深月姉。俺はバッグを手に取った。
「それじゃ、汐里のお迎えだけ、頼んだよ」
「わかった。がんばる」
俺は頷き、アパートを出てコンビニへと向かっていった。
コンビニで5時間働き、外に出たときには、ちょうど夕方だった。
アパートに戻ると、トタトタと玄関までやってきて、汐里が出迎えた。
「汐里、幼稚園はどうだった?」
「まぁまぁだった」
両手でマグカップを持ち、オレンジジュースを飲む汐里。表情を見る限り、嫌なことはなかったようだった。
テレビではトムとジェリーがついていた。近くに、透明なDVDのケースがある。途中でDVDを借りて帰ってきたのだろう。
「お弁当、ありがとう」
汐里が言って、ぺこりと頭を下げた。
「ああ、別にいいよ」
「でも、できれば、おねーちゃんにも作ってあげてほしい」
「えっ?」
「おねーちゃん、かえりみちでずっと文句言ってた」
ぷいと目をそらす深月姉。子どもに気を遣われる23歳というのも、どういうものなのだろうか。
俺はレンタルしたDVDに目をやる。2枚借りられていた。トムとジェリーのケースをどけてもう一枚を観ると、『誰が為に鐘が鳴る』の映画だった。
「へへ、夕一、すごく文学的でしょ?」
「本当に3分で寝なきゃいいけどな……」
それから俺たちは、猫とねずみが仲良くケンカしているのを観ながら、夕食を食べたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます