その4「そういえば幼稚園に行ってなかった」
夕方6時過ぎ。バイトから帰ってくると、深月姉がくぐもった声で「おかえり」と言った。明らかになにかを食べながら、といった声だった。
「深月姉、こんな時間にお菓子たべてたら、晩ご飯入らなくなるぞ」
「し、汐里ちゃんが食べたいって言ったんだもん!」
俺は、ちゃぶ台の上のパッケージをつまみあげる。
「6歳児がピンポイントでしるこサンドを食べたいと言うか?」
「…お、お茶とよく合うから好きって、汐里ちゃんが!」
「渋すぎるだろ、嗜好が」
しるこサンドとせんべいが深月姉の好物なのだ。俺はため息をついた。
「汐里はこんな大人になっちゃダメだぞ」
「だ、ダメ人間ちゃうわっ!」
深月姉自身、自覚はしているようだった。
汐里は相変わらず、鉛筆を短めに持って、自由帳になにかを描いていた。
「汐里、なに描いてるんだ?」
「おねーちゃん」
自由帳をのぞき込む。そこには、一心不乱にゲームをする深月姉の絵が描かれていた。
「へぇ、うまいじゃないか」
ゲームをするときに猫背になる深月姉のクセが、きれいに描かれている。汐里は照れたようにうつむき、自由帳のページをめくった。
「まだある」
汐里はページのなかの一枚を見せる。そこに描かれていたのは、布団にくるまって寝ている深月姉だった。
「なるほど、深月姉のぐーたらっぷりがよく出ている……」
「ぐ、ぐーたらちゃうわっ!」
「ゲームと昼寝とおやつで一日潰しといてなに言ってる」
「うぅ……」
なにも言い返せず、ふてくされた深月姉は布団の中にこもってしまった。
「…あ、おねーちゃんが、妖怪『布団ごもり』になった!」
汐里が立ち上がり、盛り上がった布団を指さす。
「なんだそれ」
「妖怪布団ごもり。同居する人にめちゃくちゃ福をもたらすって、今日昼寝する前に言ってた」
汐里のテンションが、ちょっと上がっている。しまいには、布団にこもる深月姉に、手を合わせ始める始末だった。
「なんまんだぶー」
縁起の悪い祈りだった。
「おにーちゃんもなにかお願いしたら?」
「いや、いいよ。これほどわかりきってる時間の無駄遣いもないだろうから」
「でも、妖怪布団ごもりだよ?」
「どちらかというと、『布団ごもり』というより『引きこもり』だけどな」
ガバッと布団から深月姉が出てくる。
「うっさい!夕一のバカ!」
それだけ言って、また深月姉は布団にこもってしまった。仕方なく、俺は晩飯の準備のために台所に向かった。
「おにーちゃん、全然出てこないよ」
「大丈夫だよ。晩飯時になったら出てくるから」
事実、ちゃぶ台にオムライスが並ぶと、亀のようにのっそりと深月姉は出てきた。
「わぁ、オムライスだぁー」
「おねーちゃんが、すっごくゴキゲンさんだ……!!」
「深月姉はそんなもんだ」
深月姉にスプーンを渡す。もうさっきのことなど完全に忘却の彼方のようだった。
俺たちはそろって手を合わせ、いただきますをして食べ始めた。深月姉はもちろん、汐里も頬をふくらませて満足そうにもぐもぐと口を動かしていた。
「ねぇ、夕一」
オムライスをほおばりながら、深月姉は言った。
「なんだ?」
「汐里ちゃん、幼稚園行かなくていいの?」
言われてみれば、たしかにそうだった。一緒に暮らし始めて数日、汐里が言い出さなかったので、そのままにしていた。
「汐里、前はどこの幼稚園に行ってたんだ?」
汐里は幼稚園の名前を言った。県内の、かなり有名な私立幼稚園だった。
「うわ、夕一、そこ名門の幼稚園だよ?」
「あのギャンブラー夫婦、ほんとなに考えてるんだろうな」
夜逃げまでするくせ、娘は私立の幼稚園に通わせている。意図がまったくつかめなかった。
俺はプラスチックのコップでお茶を飲む汐里に話しかけた。
「汐里」
「なに?」
「幼稚園だけど、来週あたりから、通い始めるか?少し遠いけど、電車を乗り継げば、十分に通える」
「……いらない」
それだけ言って、汐里はオムライスに視線を戻してしまった。
俺と深月姉は、顔を見合わせるほかなかった。
そうして午後九時過ぎ。汐里が寝静まった頃、深月姉の方から切り出してきた。
「ねぇ夕一。汐里ちゃん、もしかして幼稚園行くの、嫌なのかな?」
俺は、夕食の時の汐里を思い返した。
「そうなのかもしれないな」
「もしかして、いじめにあってたりとかするのかな?」
「ん、どうだろう。前に自由帳を見たとき、友達の絵も描いてあったけど……」
「それも空想上の友達だったりして……」
「まさか」
二人で話し合っていても、仕方のないことだった。
「ともかく、明日幼稚園に電話してみようか」
「そうだね。先生に聞けば、なにかわかるかもしれないし」
それが結論となって、幼稚園の話は終わりになった。
「ところで、夕一次の休みはいつ?」
「そうだな……明後日はたしか休みだったかな」
「それじゃ、明日の夜から、徹夜で国盗り合戦しない?私が呂布で、夕一が陳宮なの」
「陳宮ってまた微妙だな……。というか、まだ天下統一してなかったのか。時間結構あっただろう?」
「夕一は知らないだけで、私も結構多忙な女なの」
「妖怪引きこもりなのに?」
「布団ごもり!」
ふてくされた深月姉は、乱暴にゲームの電源をつけた。シュミレーションゲームのタイトルが表示される。
「今日はちょっとビール飲んじゃおうかな。夕一も飲む?」
「俺未成年だし」
「つまんないのー。それじゃ、オレンジジュースね」
深月姉はジュースをグラスに入れ、俺に渡した。彼女が戻る間に、ゲームデータをロードしておいた。
「まだ3つしか地域もってないじゃん」
「昨日は6つあったんだけど、隣国に攻め取られちゃった」
「先は長いなぁ」
俺はため息をついて、兵糧を補充して反乱鎮圧のコマンドを選択した。
そうして、夜は更けていった。
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