その5「幼稚園に電話してみた」
次の日、汐里が深月姉とお風呂に入っている間に、俺は汐里が通っていた幼稚園の電話番号をネットで調べ、電話をかけた。
出たのはしわがれた女性の声だった。俺が簡単に事情を説明すると、汐里の担任の先生に繋いでもらうことになった。
非常に丁寧な対応だった。さすがに、名門の先生は電話対応も洗練されている。
担任の先生が電話に出る。若い女性のようだった。俺は汐里の両親が汐里を手放したこと、今自分の家で預かっていることを説明し、また彼女が幼稚園に行きたがらない旨も話した。電話の向こうの女性は、汐里が行きたがらないという話になると、急に声が暗くなり、最後に、やはりそうですか、と言った。
『ここだけの話ですが、年少だったときの担任の先生に少し問題があって……』
と電話の向こうの相手は言った。
「どういうことですか?」
『既にご存知かと思いますが、うちは県内でも有数の名門の幼稚園です。故に、どうしても地方の実業家や資産家の子どもが集まってくる傾向があります』
「それで?」
『汐里ちゃんの年少の頃の先生は、その部分に変なプライドを持っていたようで、両親の貧富によって優しくしたり、きつく当たったりしたようです。まぁ、私立である以上、寄付金の金額によって扱いが丁重になるのは、ありがちなことではあるのですが……』
まるで予想していなかったことだった。汐里の家庭を考えれば、それほど生活に余裕がなかったのは簡単に想像がつく。前の担任が、汐里に強くあたり、幼稚園に対してのトラウマを作ったのだろう。
俺はお礼を言って、電話を切った。ちょうど、深月姉と汐里が、パジャマ姿で洗面所から出てきたときだった。
二人とも湯上りで顔が上気して、髪はしっとりと濡れていた。
「どうだった?」
耳打ちして深月姉が聞く。俺が話を要約して説明すると、彼女は顔を真っ赤にして怒り、綿の詰まったクッションをポコポコと殴った。
「夕一、そんなところ、もう行かせることないよ!近所の幼稚園に通ったほうがずっといいよ」
俺は頷いた。それがきっと彼女のためだろう。今の俺たちの生活環境を考えれば、汐里がまた周囲からなにか言われることも考えられる。
「どうしたの、おねーちゃん?」
汐里は驚いた表情で深月姉を見る。
「おねーちゃん、もしかしてボクサーになりたいの?」
的外れもいいような解釈だった。俺は汐里に笑いかけた。
「汐里、常識的に考えて、それはないだろう。人見知りで外に出るのも面倒がる深月姉が、突然公衆の面前で殴りあいをしたがると思えるか?」
汐里は、ふるふると首を振った。
「それに、もし突然ボクシングに目覚めたところで、深月姉が減量なんてできるわけがないさ。普段から隠れてお菓子食べてるような状態なのに」
「おねーちゃん、今日もおにーちゃんがいない間に、たくさんしるこサンド食べてた」
「ああっ、それは内緒って約束をしたでしょ!?」
深月姉が汐里の口を両手でふさぐ。6歳の少女に口止めしてまでお菓子を食べるとは、なんとも子どもっぽかった。
「なぁ汐里、幼稚園のことなんだけどさ……」
汐里の表情が、一瞬にして暗くなる。
「前のところじゃなくて、この近くの幼稚園に通ってみないか?そこじゃ、汐里と同じような子どもが、昔同じような子どもだった先生と一緒に歌ったり遊んだりしてるんだ。前のところでなにがあったか詳しくは知らないけど、でもきっと前よりいいところだよ」
汐里が視線を落としたまま、口を開く。
「……いちばんあたらしいゲームをもってるともだちばっかじゃない?」
「ああ。それにもしいたとしても、ゲームだけはうちもたくさんあるから大丈夫だ」
彼女は依然として、難しい表情をしている。
「ともだちのお父さんとお母さん、みんなすごい人ばっかだった」
「これから行くとこはそうでもないさ。色んな職業の人がいるかもしれないけど、でもみんな同じような、普通の仕事をしてる」
汐里は顔を上げた。
「totoハンターもいる?」
「それはちょっといないかもな……」
汐里は考え込んでいたが、やがて、俺のほうをじっと見た。
「……わかった。行ってみる」
俺は深月姉と顔を見合わせた。そして、汐里の頭を撫でた。
「そっか。それじゃ、近所の幼稚園の先生に話しておくな」
コク、と汐里は頷いた。
深月姉が、俺の耳に口元を寄せた。濡れた髪が頬に触れる。
「よかったね、夕一」
「ああ、そうだな」
深月姉は笑顔だった。
「ねぇ、ところで夕一」
「なんだ、深月姉?」
「幼稚園って、どうやったら入園できるんだろうね」
「……………」
「……………」
「……全然わからん」
俺たちが最初にすべきなのは、転園のための手続きをネットで調べることだった。
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